<江戸城の搦め手門 半蔵門(はんぞうもん)>
「桜田門」から永田町の国会議事堂を横手に見ながら坂を上っていくと、もうそこは「半蔵門(はんぞうもん)」で、堀の横に細い公園がある。江戸期の門は戦災(第二次大戦)で消失し、現在の門は和田倉(わだくら)門として建っていた「高麗門」を移築したものだという。
「半蔵門」は、伊賀忍者として名高い「服部半蔵(はっとり はんぞう)」の名前を採っている。
信長の招きを受けて堺(当時、随一の貿易都市)を遊行中だった徳川家康が「本能寺の変」から逃れて、かろうじて江戸へ向かうのだが、その決死行の際に明智光秀からの追捕を逃れて伊賀の山中を抜ける。その先導が伊賀の地の土豪であった服部一門を中心にした伊賀や甲賀の地侍達だった。その際に従った侍達は後に召抱えられて伊賀組・甲賀組の同心となって徳川家に仕える事になる。
半蔵は伊賀忍者の総帥のように思われ勝ちだが、父の代からの三河衆で、姉川の合戦や高天神城での戦い、三方が原での戦いなどで武功を揚げ、奉行衆として「鬼半蔵」と呼ばれた、譜代のれっきとした旗本だ。「伊賀の加太(かぶと)越え」での勲功や小田原の陣での従軍などによって、遠州に8000石を領した。あと2000石加算されれば大名の列に加わるという事になる。大久保一門と並ぶ幕府旗本としての最高位の家柄といえよう。
家康の江戸入府に従ってしたがって江戸の地へ移り、麹町御門に屋敷を拝領する。
「服部正成(はっとり まさなり)」は伊賀組の棟梁で通称を「半蔵」といったが、江戸の服部家の当主は代々この名を名乗りとしていた。その彼らが組屋敷を構えた場所の門なので、次第に「麹町門」ではなく半蔵門の名が今に残ったわけだ。
正成は半蔵の名が持つイメージに反しているが、忍者では無かった。三河宇土城での夜戦では忍者を従えて活躍したらしいが、槍の名手とうたわれた歴戦の勇者で十六門衆といわれた武将の一人だ。「槍の半蔵」と謳われた勇猛な武者であり、忍者だったわけではない。
配下には与力30騎が付属する物頭で、与力以下に同心200名を従えた部隊としての様相を持っていた。これは幕府主軸戦力となる「お先手槍組」などの先鋒部隊よりも規模が大きいものだ。服部家が拝領した屋敷や彼らの組屋敷で固められた半蔵門は、大手門の反対側にあり、直接、甲州街道に続いている。江戸での危急時に将軍及び徳川家一門を親藩譜代の地(後に直轄領)である甲州へ逃がすための役割を担っていたという。包囲を突破する先鋒・先導役でもあり、落ちる際に敵勢を食い止めて時間を稼ぐ殿(しんがり)役でもあったわけだ。
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