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ポタリング先でのスケッチ

<与野公園の紅葉 スケッチ  のんびり 行こうよ: <20061103;与野公園 秋さがし>

 我が家からは歩いてもほんの少しの場所なので、木々が紅に色着いていればその様子をスケッチしようと、携帯用の透明水彩絵の具と公園散歩の定番、携帯性がよいのでたまに利用する固形燃料の緊急用ストーブ(エスビット)とシェラカップ、ドリップコーヒー、などの休憩セットの一式を持って出掛けてみた。

 公園緒北側に広がる樹林帯の中を歩いて、落ち葉を数枚拾った。まだ紅葉というには早い状態だったけれど、中にはかなり色の付いたのもあって、案外楽しむことができた。

 そして、一番色の付いた木が眺められる丁度良いベンチを見つけ、そこで休憩することにした。

 持参した緊急用のコンパクト・クッカーにシェラカップをかけて、お湯を沸かし、コーヒーを淹れた。

 辺りに立ち昇る香りを愉しみながら、色付く大樹の様子をスケッチした。

与野公園の紅葉
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<見沼 通船堀の水門 スケッチ  のんびり 行こうよ: 20090923:秋の入り口 (見沼田んぼの彼岸花)

  「見沼(みぬま)田んぼ」に今も残る水路は、多分、当時のものとは大分流路が異なっているものと思うが、大宮台地はその複雑な地形が今もほぼ残っているので大筋は往時(江戸期)を偲べよう。

 通称「見沼田んぼ」といわれる場所は周囲42キロ、面積1260ヘクタールの広大な地域を指した呼称だ。江戸時代、徳川吉宗(とくがわ よしむね)の治世、「享保の改革」の時期(1727年)に新たに開発された広大な田園地帯だ。

 遠く縄文時代にはこのあたりが東京湾の海岸線で、見沼の地区は複雑な入り江であった。その後、湾が後退してこれらが残されて多数の沼が繋がる広大な沼沢地となったという。歴史時代となってさらに遥かに時代が下り、今の景色となったのは江戸時代に入ってからの話となる。

 1629年なので家康入部から幾らも経っていない時期の事だが、関東郡代の「伊那(いな)」氏が芝川下流域の田園地帯(浦和の南部や川口など)の灌漑用水を確保するため、長さ約870m(八丁)の堤防「八丁堤(はっちょうづつみ)」を建設し、そこで水を溜めた。堤防というよりもむしろダムの堰堤に近いもので、戦のための築城を除くと、時代を代表するような一大土木工事をした訳だ。

 この土手で堰き止められてできた周囲42Kmに及ぶ人工のダムを「見沼溜井(みぬま ためい)」と呼んだが、灌漑した下流地域では「水源」が確保されたが、「溜井」となって水没した地域では多くの田が潰れ、周辺では水害も頻発したという。以来およそ80年の後(享保の頃)になって、今度はそれ以前から沼沢地だった一帯に着目して、水没した地域に対しての一大干拓事業が行われたのだった。

 それは新田を開発して爆発的に耕作地を増やすためだ。つまり従前の天領の税率(「四公六民」の租税率)を藩領並み(平均すると「七公三民」の状態)に引き上げたり、繰り返し行われた改革と同じく質素倹約を布令するのではなく、幕府直轄地(農地)そのものを増やして増収を図るという画期的な政策であった。

 有能な将軍であった吉宗は紀州藩士「伊沢 弥惣兵衛(いさわ やそべえ)」を勘定吟味役とし、幕府はこの地で大規模な干拓事業を進めたのだった。

 「享保の改革」の中で行われた多くの改善策のひとつとなる大事業で、伊奈氏が構築した「八丁堤」を切って広大な水源に堰き止められていた水を放流し、「見沼溜井」が干拓され、変じて広大な水田地帯となったという歴史を持つ。

 「見沼田んぼ」は江戸期屈指の農事における大事業の、今に残る成果だっだ。

見沼通船堀の水門
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<工芸博物館 スケッチ  のんびり 行こうよ: 20091219:江戸の情緒を味わう

 「近衛師団(このえ しだん)」は「皇宮警察」とは別なのだが、旧陸軍の特別な軍団だ。国の中枢機能を守護する役割を担っていた。だから天皇や皇族、皇居の守衛も当然担っている。

 古くは薩摩藩兵を中心とした長州、土佐の各藩兵を主軸とする政府直属の「御親兵(ごしんぺい)」がその前進だ。明治政府による国民軍の創設により徴兵制がとられたが、地方出身者を徴兵(民兵)により集めた他の師団とは異なって、全国からの選抜兵(藩士や郷士なので旧武士階級:職業軍人)で充当されていて、当時は近衛に選抜される事が非常な名誉とされた。

 通常の国軍とは兵装が異なって、その軍帽には赤い帯が巻かれていたという。

 作家、司馬遼太郎(しば りょうたろう)の随筆「この国のかたち」によると、明治の元勲の「西郷隆盛(さいごう たかもり)」の下野の際には、多くの薩摩藩兵出身者が明治新政府の態度に憤慨し、部隊を放棄し、その際に皇居の堀に投げ込んだ彼らの軍帽により、一面が紅く染まったという。その多くは西郷を追って熊本に降り、「田原坂(たばるざか)の激戦」で自分のいた近衛師団兵と戦った。

 長州藩出身の元勲、「山県有朋(やまがた ありとも)」によって近衛兵は近衛師団として陸軍大臣の直轄下に置かれ、西郷はそれを引き継いで元帥となっていた。平時には首都・皇居の守護が主要な任務だが、日清・日露、日中戦争、第二次大戦などの戦時では各地の戦線に投入され、部隊は激戦を展開した。

 ところで、師団本部の向こう側は手漕ぎのボートが浮かぶ千鳥ヶ淵だが、その堀に沿った桜並木の遊歩道を挟んだ向こう側は、戦没者を追悼する「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」がある。靖国神社とは違った意味で戦没者を追悼している国民的な慰霊施設だ。

近衛師団司令部
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<江戸城の搦め手門  半蔵門(はんぞうもん)>

 「桜田門」から永田町の国会議事堂を横手に見ながら坂を上っていくと、もうそこは「半蔵門(はんぞうもん)」で、堀の横に細い公園がある。江戸期の門は戦災(第二次大戦)で消失し、現在の門は和田倉(わだくら)門として建っていた「高麗門」を移築したものだという。

 「半蔵門」は、伊賀忍者として名高い「服部半蔵(はっとり はんぞう)」の名前を採っている。

 信長の招きを受けて堺(当時、随一の貿易都市)を遊行中だった徳川家康が「本能寺の変」から逃れて、かろうじて江戸へ向かうのだが、その決死行の際に明智光秀からの追捕を逃れて伊賀の山中を抜ける。その先導が伊賀の地の土豪であった服部一門を中心にした伊賀や甲賀の地侍達だった。その際に従った侍達は後に召抱えられて伊賀組・甲賀組の同心となって徳川家に仕える事になる。

 半蔵は伊賀忍者の総帥のように思われ勝ちだが、父の代からの三河衆で、姉川の合戦や高天神城での戦い、三方が原での戦いなどで武功を揚げ、奉行衆として「鬼半蔵」と呼ばれた、譜代のれっきとした旗本だ。「伊賀の加太(かぶと)越え」での勲功や小田原の陣での従軍などによって、遠州に8000石を領した。あと2000石加算されれば大名の列に加わるという事になる。大久保一門と並ぶ幕府旗本としての最高位の家柄といえよう。

 家康の江戸入府に従ってしたがって江戸の地へ移り、麹町御門に屋敷を拝領する。

 「服部正成(はっとり まさなり)」は伊賀組の棟梁で通称を「半蔵」といったが、江戸の服部家の当主は代々この名を名乗りとしていた。その彼らが組屋敷を構えた場所の門なので、次第に「麹町門」ではなく半蔵門の名が今に残ったわけだ。

 正成は半蔵の名が持つイメージに反しているが、忍者では無かった。三河宇土城での夜戦では忍者を従えて活躍したらしいが、槍の名手とうたわれた歴戦の勇者で十六門衆といわれた武将の一人だ。「槍の半蔵」と謳われた勇猛な武者であり、忍者だったわけではない。

 配下には与力30騎が付属する物頭で、与力以下に同心200名を従えた部隊としての様相を持っていた。これは幕府主軸戦力となる「お先手槍組」などの先鋒部隊よりも規模が大きいものだ。服部家が拝領した屋敷や彼らの組屋敷で固められた半蔵門は、大手門の反対側にあり、直接、甲州街道に続いている。江戸での危急時に将軍及び徳川家一門を親藩譜代の地(後に直轄領)である甲州へ逃がすための役割を担っていたという。包囲を突破する先鋒・先導役でもあり、落ちる際に敵勢を食い止めて時間を稼ぐ殿(しんがり)役でもあったわけだ。

半蔵門
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