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2006.08.15
セミの抜け殻 - 「葉っぱのフレディ」
のんびり 行こうよ: <2006.08.15:葛飾、柴又 ぶらり散歩>のサイドストーリー)

アクセス;
 JR常磐線―金町(かなまち)駅、京成電鉄ー柴又(しばまた)駅

カメラ
 Pentax Ist-D
レンズ
 Pentax DA18-55mm F3.5-5.6
 Pentax FA135mm F2.8

(画像添付時に圧縮)


 帝釈天(たいしゃくてん)で有名な、とういうか、寅さんで有名なあの葛飾・柴又へ行ってみた。

 今回は、前半はフリー切符を買って常磐線で「ポケモンラリー」、後半は「柴又でぶらり」とする、という企画だ。

 この夏のすさまじい暑さの中、多くの子供たちがスタンプ帳片手に、首都圏中の駅を巡り、改札口からまっしぐらにスタンプ台へ駆けつける光景をご覧になった方も多いと思う。

 私はポケモンラリーと銘打ったこのJ○東日本の企画には、少し批判的だ。 同じ<夏の冒険>という意味でファンも多い「青春18切符」とは、まるでコンセプトが違う。企画者には、「切符や関連商品が売れればいいってもんじゃないでしょう」、と言いたくなる。

 とはいうものの、ミーハーな私は今回の数量限定「ピカチューSUICA」など、実はすかさず買ってしまったのであったが・・・。

 まあ、親がどのように感じていようと、多くの子供たちは充分に楽しんでいる。彼らの中には親には分からぬ何かがきっと残っているのであろうから、なにもとやかく言うことはないのだが・・・。

ポケモンの旅が始まる

今回で3戦(3年)目
ラリーの始まり

亀有、こち亀の像
亀有を有名にした男
      京成線を越えて(そこにまっていたものは・・・)
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 金町駅からは、京成線に乗り換えで柴又駅まで直接向かっても良いが、金町駅前の様子が、すこし興味深かったので、柴又まで歩いてみることにした。

 駅前の飲み屋さんの看板のもの珍しさに、京成線の踏切を越えた。次々に出現するいろいろな看板に惹かれて、路地を吸い込まれるように進んでいったのだ。するとその先にさらに細い路地が出現した。盛んに鳴くセミの声が道に溢れ出す中を、声を浴びるように進んで行った。

 そして、進みきったところで、私達は道を間違えていることに気が付いた。

この路地を抜けると・・
路地を抜けた先には、何があらわれるのだろうか?
    長い路地は、すこし不安だ
       さて、どこへいってしまうのだろう。


盛んに鳴くセミの数と同じくらい、
多くの抜け殻が路地脇の木についていた。

多くの抜け殻を丁寧に集めて、
いったんは持ち帰ろうとおもったが・・
手にとって観ると、ほしくなる
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「おもちゃや」は、やはり気になるポイントだ
帝釈天の参道の始まり

「帝釈天」の参道は、柴又街道を挟んで、
二箇所にわかれ
それぞれで微妙に雰囲気が変わる。


写真は柴又駅側ではなく、
帝釈天の入り口側の店並み。

漬物もおいしい
味見した漬物は、とてもおいしかった

カッパ小僧はきゅうりで塩分補給だ。

本人が自分はカッパだという。

大好物のきゅうり。
丸ごとなら、やはり塩味が一番だ。

帝釈天、山門

帝釈天の山門

始めて訪れたのだが、映画で何度の見ているせいで、はじめてみるき気がしない。
浅草、浅草寺で覚えた香炉

今度は迷わず、煙を頭にかけた。
香炉にて
近くに水場と水洗薬師がある。

 帝釈天から、さらに進んで、江戸川の岸辺へ向かった。

 映画では、寅さんの妹の「さくら」がよく歩いていたあの土手だ。土手を降りたところが、公園として整備されていて、のんびりとできそうなのだ。 さらには、この川岸には「ちあきなおみさん」の演歌で有名な「矢切り(やぎり)の渡し」があり、対岸の千葉県市川市へ行けるのであった。

 私たちは、川岸に来る途中のタバコ屋さんでそれぞれこれはと思えるアイスを買って、公園として整備された一角で休憩することにした。

 そこで、もう死んでしまったセミを子供が見つけた。そのセミを持ち帰ろうとしたことろで、家人が、先日読ませた「葉っぱのフレディ」の話をしていた。どうするのかと見守っていると、先に迷い込んだ路地で拾ったいくつものセミの抜け殻と一緒に、川岸の藪に帰したのだった。

 そう、自然の中の、おおきな命の繰り返しとは、そういうことなのだ。
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この土手道は、寅さん映画でよく登場した場所だ。

 矢切の渡し

 渡ってしまえば、そこはもう千葉の市川だ。  
帝釈天から矢切の渡しへ

 春に目覚めた「葉っぱのフレディ」は、成長しながらいろいろなことを覚え、体験し、想像するのだが、楽しい夏が過ぎ、秋になってすこし変化が訪れる。やがて冬が近づいて、仲間達は散っていき、フレディも恐怖に苛まれつつも散ってしまうのだ。

 だが、一年で若葉から駆け抜けた彼は、自分が散ったあと、<いのちとその流れ>がそこで終わりとなるのではないことに気づく。

 自分が散る(そのことは、しばらくさよならするのではなく、死んでしまうということなんだね、とフレディは言うのだ)ことが、次の世代や、より大きな生命の環である<木>そのものに受け継がれるもなのだと、気付く。そして、自分は小さなじぶんだけの存在ではなく、大きな自然の輝ける命の一部なのだと感じとるのだ。
 
 私は、最初なんとなく、中学生の頃に読んだ「かもめのジョナサン」を思いだし、キリスト教的な自己犠牲の雰囲気を少しばかり感じたが、自然を守る基本は、まさにそこにあるのだ。

「自然のものは、自然に帰す」 これが当たり前の、守るべきもっとも基本的な摂理なのだ。

 難しいことは、さておき、子供がこの話を思い出し、せっかく拾い集めた抜け殻らや興味いっぱだったセミを、躊躇なく、川岸の藪へ戻したことが私は誇らしくなった。フレディの話で私が感じた、いのちの環の尊さへの思いは、子供も確かに感じとっていたのだ。
(ただセミの抜け殻は、廻る本来の場所ではなく、だいぶはなれた場所になってしまったが・・)
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「幟」は渡しが利用可能の意味か? 夏

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