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アクセス;
JR高崎線 上尾駅
カメラ;
PENTAX K10D
レンズ;
PENTAX M 200mm F4.0
PENTAX DA 70mm Limited F2.4
三脚;
K10D:カメラの手ぶれ補正にて、三脚は不使用
(画像添付時に約70%程度に圧縮)
梅雨に入って何日か雨が降り続く。いつも週末になると天気が崩れるのは、私の日頃の行いが良過ぎるためだろうか。
珍しく休日に晴れたので、いつも訪れる上尾の丸山公園へ出掛けることにした。
この時期の丸山公園は、菖蒲や睡蓮が美しく咲く。
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森があるが、その脇では菖蒲に負けぬほど沢山の紫陽花が咲いていて、訪れる人の眼を楽しませている。今回は、自動車でやって来たが、公園までの道路に多くの人が歩いていた。一人二人ではなく集団を作っていたり、列をなしていたりする。こんなことは珍しく、公園へ近づくとさらに人の数が増して来た。
公園の駐車場はすでに満車であり、隣の上尾天文台(公園から見ると高台になる)の駐車場も開放されていたが、そこも駐車を待つ車が並んでいる。歩いて来る人も含めて大変な数の来園者で、いつに無く入り口周辺は混雑している。臨時駐車場として用意されたコスモス畑の前の空き地にやっと車を止めてることができた。
車を止めて目の前の広いコスモス畑をみたら、脇のほうや天文台の裏側の森へ続く斜面に小さな赤い色が連なっていた。もうコスモスが咲いているのか、と不審に思って良く見たら、それは沢山のポピーの花だった。
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公園の出入り口は「上尾 しょうぶ祭り」にやって来る人と、公園を後にする人の出入りでかなり混雑していた。
園内の道に張り紙があり、「ゴール地点はこちら」と矢印が書かれている。見ると、この日はJR主宰の上尾駅からの「駅からハイキング」の開催日であり、公園内にゴールのポイントが設定されていたのだった。上尾駅から歩くとなると、ちょっとした距離になる。だから普段めったに見ないような大勢の人がハイキングザックを背に列をなして歩いていた。
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しかも園内は、「上尾 花しょうぶまつり」の幟が幾本も立っていて、お祭りの最中であった。
そういえば、以前も同じ事があった。やって来てみたら「まつり」だった事が二度ほどある。以前の「菖蒲まつり」の日(2007,06,16 「花菖蒲・あやめ・睡蓮・紫陽花(丸山公園)」)は元気に自転車でやってきたのだ、ということを不意に思い出した。
菖蒲湯(しょうぶゆ)は五月の風物詩だから、菖蒲の時期は元々五月だろうと思う。いや、旧暦での皐月(五月)は六月中旬あたりにずれるので、それを考えれば丁度今頃が旬ということになるだろうか?
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この日はいつもと違い「菖蒲園」側からではなく遊具のある正面入口から公園に入った。いつもの駐車場がひどく込み合っていてどうにもならず正面へ回ったためだ。
そのため、広大な園内の遊歩道を、池岸に沿って一番奥まで行かないと目的の「菖蒲園」へは行けない。
途中いくつかある芝生の広場、東屋が横にある滝のあたり、自然観察学習館や小動物園などがある森、長い滑り台が斜面に置かれた林の中のアスレチック広場など、園内のどこも沢山の家族連れで賑わっていた。とりわけ芝生が敷かれたピクニック広場などではお昼を囲んで広げたシートに陣取った家族連れが多かった。
まさに微笑ましい休日の公園の様子で、なんだか見ているこちらの心も弾んでくる。
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さて菖蒲。この花は「菖蒲田」として水を入れた湿地を必要とする。だから、公園で菖蒲園とうたったところではとかく規模が大きくなりがちだ。
例えば行田の「さきたま古墳群」の菖蒲園、菖蒲町のしょうぶ園、大宮第二公園の菖蒲園、など公園で菖蒲が名高いところはどこも広い土地を占めている。木道が渡してある場合は、一段高いところから花を見下ろす形になる。写真で花を写そうとすると、どうしても俯瞰する構図になってしまって撮りにくい。
背景に長い茎が入ってしまってなかなか煩くなる。山脇などであやめの鮮やかな群青色の花が一列で咲いていると、これは風情がある絵になる。こうした場合は背景に工夫が凝らせるからだ。公園で整備された田に咲く花菖蒲よりも余程撮りやすい。
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先に書いたように池脇の遊歩道に沿ってずっと奥まで行って、やっと「菖蒲園」が見えてきたが、さすがにそこも混んでいる。沢山の人がいるし、木道の上で立ち止まって花を背にして思い思いに記念写真を撮っている。携帯電話を花にかざして、写真に収めている人もかなり多い。
天気がいいので、暗いレンズでも早いシャッターが切れる。携帯電話で撮るにはうってつけの陽気なのだ。
「菖蒲園」を取り巻く木道だけでなく、森の手前の小道なども沢山の人がいる。そう、紫陽花が盛んに咲いていて、紫陽花を入れてここでも多くの人が記念写真を撮っている。
せっかくの美しい花なので、前に立つ人も、向きを変えたりポーズをとったりで、一枚撮るのに大分時間が掛かる。
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私は花そのものが撮りたいので、美しく咲く株を探すのだが、そんな花の前には写真を撮る順番が出来ていて、何人かの人が並んでいる。
そんな列に混じって並び、順番になって写真を写す。勿論、私の場合には花の前に立つ人はいない。なんだか、そうして何枚かの写真を撮っていたら、妙な感じがしてきて困ってしまった。
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紫陽花の花は、大好きなので花が咲き始めると写真に撮らずにいられない気分になってくる。毎年沢山写すが、前年の写真と比べると、そこにはあまり進歩がない。
写真的というよりも絵画的な構図が多いためだ。もっと、写真ならではの表現や色合いが出せたらと思うが、このあたりが私の着想の限界だ。
何とかしたい。今年はこうしようなどといろいろに考えるのだが、結局、同じような写真になってしまう。
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紫陽花の美しさは何だろう。たとえば、薔薇には一輪でも凛とした気高い美しさがある。でも紫陽花の場合には、花一輪だけでは妙な写真になってしまうだろう。
どうしても一輪で撮っては、この花は美しさが完結しない。
スミレのように小さな花であれば一群れが単位のようで、撮る写真はそんな群れの様子が多くなる。スミレに比べればよほど大きな花になる紫陽花であるが、同じようにいく株かまとまって全体がそろわないと雰囲気が無く綺麗ではない。
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紫陽花と比較すると、菖蒲の場合はどうだろう。
こちらは薔薇とはまるで似ていないが、薔薇と同じように一輪で咲いている状態でも充分に写真に撮れる。この花の場合、一群れという状態がそもそも作れない。なぜなら、栽培される環境は完全に秩序があるものだからだ。
普通、この花は「畝」が切られてそこに一列に整然と植えられるものだ。(菖蒲)田や(薔薇)畑の言葉が示すように農作物のようにさくを切った(列を守った)状態で栽培される。
こうした植えられ方が薔薇と共通している。そのため、花の雰囲気はまるで違うのに対する感覚が似てくるのだろうか。
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日差しが強い昼過ぎなので、
睡蓮は開かずに蕾んでしまっている。
朝方やってくれば、華麗に開いた花の様子が
楽しめるだろう。
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「花しょうぶ まつり」だからやはり主役は菖蒲なのだろうが、紫陽花が盛んに咲いている。この公園の紫陽花は西洋紫陽花が多い。いや、公園で咲く紫陽花はどこも同じくこの品種だろう。額紫陽花が咲きそろった公園というものを見かけたことが無い。
森の横の遊歩道沿いなどは、手毬状に咲いた紫陽花が塀のように一面に重なって咲いている。
先にも書いたように、典型的な紫陽花の様子だ。
花を壁のようにしてその間に遊歩道が通る。この場所は舗装はされていなくて踏み固められた土の小径になっている。それは丁度、今日のようにきつい日差しの日には有難い。なぜなら、気温が上がっても土の地面のためか照り返しが無いし、湿気を帯びていてひんやりとしているためだ。心地よさはそうした土の小径のためもあるが、それは森が横に迫っているせいでもある。
この小径は、直ぐそばで重なる紫陽花を眺めて、のんびりと歩くことが出来る。
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菖蒲の横では一面に紫陽花が咲いているが、またその一画には睡蓮が咲く、蓮池がある。
蓮池も菖蒲田と同じく、土がさらわれて手当てがされた。菖蒲は幾面かあるうちで疲弊が激しい部分は休耕田にして土を休ませた。その部分は菖蒲の株が一旦抜かれて完全な休息状態にされたのだ。蓮池も同じく池の土が掘り下げられたが、今年はそれも終わって池が復活している。
与野の「ばら園」もそうだが、公園の土壌にも休息が必要で、それには思い切った手当てを施す必要があるのだろう。こうした維持策のお陰で、私達は花を楽しめる。出費がかさむ行政サイドには申し訳ないが、維持管理しない公園ならばむしろ作らない方がまだいいと思う。
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上尾、丸山公園には広大な池がある。公園の横には流れる水が美しい川があるし、さらに大分離れるが園地の横には荒川が流れている。そして保水地となる森があり、その奥には清水が湧き出している水源池がある。この湧水池は蛍の産卵地のため保護がされている。
水は豊富であろうに池の水は淀んでいる。決して綺麗な水ではないが、池の周りの遊歩道から岸に人が取り付いている。「へら鮒釣り」をする人が点々と釣竿を垂れているのだ。
せっかくの公園なので、キャッチボールをしようとボールとグローブを持ってきたが、最初に書いたように広場は思いがけず多くの人がいた。キャッチボールをするには憚られる。サーカーボールも持ってきたが、これも無理だろう。同行した子供は楽しみにしていた遊びが両方ともできないので、少し沈んでいたが、車に釣竿を積んでいた事を思い出したようだ。以前、黒目川へ行った折に買ったものがそのまま入れてあったのだ。
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そこで、釣り竿を持ち出して、公園の池で釣りをした。竿は二本あるので、別々に準備したが、私は元々池の釣りが好きではないので直ぐにやめてしまった。近くの紫陽花を撮ったり、菖蒲園へもどったり、アイスクリームを売店へ買いに行ったり、気が入らない。そんな親を尻目に、その間、子供は真剣に釣りに取り組んでいたようだ。
暫く試してみたが、釣果はゼロだ。
となりの家族連れやその向こうの少年達は小さなフナを釣っていたので、魚がいないわけではなさそうだ。針に練り餌を付けるが、水面に下ろして少しすると溶けて落ちてしまうという。子供いわく 「ダメ餌では、釣れる訳が無い!」そうだ。入れるそばから直ぐに消えてしまう。これでは釣りにはならないが、私は元々釣る気がないので、子供がなんでそれほど熱くなっているのかすこし不思議だった。どうも、キャッチアンドリリースに憬れていて、それがやってみたかった様だ。
親のやる気の無さが伝わったのだろう。暫く餌を着けては釣り糸を垂れることを繰り返していたが、いよいよつまらなくなったらしい。
釣りは止めて、辺りを探検してみることにした。
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丸山公園の入口横にあるコスモス畑の奥には水門があって、そこを過ぎると荒川の河川敷になる。
荒川の河川敷は広大でスーパー堤防のようになっている。土手が幾重かにあり、そこはサイクリングロードになっている。水門の横を回って行ってみると、土手の上のサイクリングロードでは何台もの自転車が軽快に走っていた。ベアリングのシャーという音が聞こえてきて、タイヤが路面を捉える音が伝わってくる。カーボンのフレームだと硬い音が響くのだ。あっという間にやって来てすっと目の前を通り過ぎて、やはりあっという間に去って行く。気持ちがよさそうで、何台かが走り去る様子を暫く眺めた。
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土手の下は公園へと続く道があるが、その隅に猫がいた。
小さな時から猫が好きな子供はうずくまる猫にそっと近づいていった。そしてやさしく抱き上げる。飼い猫なのだろう、慣れた様子で抱かれている。私には小声でよく判らないが何事かを話し掛けている。そういえば、子供の頃は猫や犬達と会話が出来た。私だけが特殊だったのではなく、誰もがそうだったと思う。だから、「ドリトル先生」のことも別に不思議ではなかったのだ。多分子供も、何の違和感も無く猫との間で会話をしているのだと思う。
実は猫も飼ったことがある。どちらが先かといえば、犬を飼うより前だった。だから元々は猫が好きだったのだ。ただ、あるとき、可愛がって飼っていたチャボを猫に襲われてから、私は猫が嫌いになった。だからいまでもあまり猫が好きではない。
もうやめなさいと言ったが、飼える訳が無いと知っているためか、なかなか猫と遊ぶのをやめる様子が無い。予定外の出会いだったがまあこれも公園での楽しみだろうと考えて、しばらく遊ぶ事にした。
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