家族のイベント のインデックスページへもどる家族のイベント の ページ       Top Pageへ移動 Top Pageへ移動       このページを閉じる 閉じる

2010.06.19
野菜を作ろう

カメラ;
 RICOH CAPLIO GX−100 24−72mm

 (画像添付時に約70%程度に圧縮)

 卒業後に就職した会社は首都圏の地方都市、群馬県の東部、(地元では東毛地区;とうもうちくと呼ぶ)にこじんまりと展開する「桐生(きりゅう)市」にあった。

 笹沢佐保の人気時代小説「木枯らし紋次郎」で有名になった新田郡三日月村(にったごおり みかづきむら)に近い。「三日月村」は、実は架空の土地で、モデルは「笠懸(かさがけ)村」だ。北関東というよりも、気候も風土も人情も南東北、というべき地域だった。

 地方に基盤を置きそこを拠点とする会社としては、ある程度の規模だったろう。

 親会社が自動車の電装パーツメーカでその電算部門からスタートしたという社歴を持っていた。「受託計算業務」だけでなく「システムの受託開発」や自前の小型コンピュータを製造したりして、その事業展開は当時としては特色があった。入社時は200名だったが退職前には株式公開して520名ほどの規模になっていた。

 9年ほどでそこを退職し、新宿を本社とするシステム開発会社に移った。研究開発拠点として群馬大学と共同歩調をとるため桐生に研究センターを設置し、そこでの勤務だったが、2年ほどで新宿の本社へ転勤となった。

 それ以来、ふるさと群馬を離れての埼玉暮らしが続いている。

ピーマンの花
ページTopへ移動
 パソコンをプラットフォームにしてパッケージ製品としての「業務システム」を作るという希望を叶える為の転職だった。その転職から早くも19年が過ぎたが、今回、思うところがあって、再度会社を変えた。

 すでに私の年齢は49歳であり、これが転職する最後の機会となるだろう、と考えたためだ。

 思えば、「人間50年 下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり」と敦盛(あつもり:幸若舞の演目の一節)を舞って壮絶な最期を遂げた織田信長の年齢と同じところまできてしまったということだ。

 すでに、何事かを成し遂げていて良い年齢だが、私はまだ何ものも成し得ていない状況だ。さらに後10年、従来の職場環境下に居て果たして何か出来るか、と考えたのだった。

 どうせ、何も出来ないのだとしたら、せめて少しでも自分が必要とされる局面で力を発揮したい。あるいは、自分を評価してもらえるフィールドでもうひと踏ん張り頑張ろうではないか。それが、転職を打診された際に、頭に浮かんだおぼろな考えだった。

ピーマンの花 ピーマンの花

 就職後の活動に明確なビジョンを持っていた学生時代。複数の会社を転籍して行きながら自分のスキルを上げていく、というのが青かった頃の志向だった。

 60歳定年が現行の就業システムとすれば、私に残された職業人としての期間は、僅かにあと10年。

 この期間で、亡き父が最期に語ったように、悔いなく胸を張れる仕事がしたい、というのが密やかな希望だ。そうした密やかな希望を実現するためのフィールドを選択したというのが、この年齢での転職の理由だった。

 「転職」と言ってはいるが、実際には籍を変えたというべきで、実は業種も職種も変わっていない。だから世間一般の捕らえる意味では「転職」とは言えない部分もあろう。

 さて、19年間の在籍といえば、生まれてからもうじき成人するまでの成長過程に匹敵する。それは、人として何らの知識を待たない状態から高度に思考・思索出来る精神性を身につけることが出来るまでの期間なのだから、改めて考えてみれば大層な長さに違いない。

 籍を変わると言うことは、そうした期間で自分の身に付いた「ある種の文化的な背景」を捨て去らなければならない、という事を意味する。そうした境遇、いわば新たな環境へ入るのだから、私の緊張といったら実に高いものがあった。

 さて、尊敬に値する上司に恵まれるかどうか、はサラリーマンとしての生活を左右する大きな問題だろう。

 今回の書いたような私の思惑とは別に、いやその思惑を支える大きなきっかけであったかもしれないが、この転籍には、そうした出会いの部分があった。
ページTopへ移動
 最初の転職に踏み切るきっかけとなった役員との出会いがあり、その恩人と別れてしまってから10年ほどが経つ。もうわが身の上にああした出会いは起こらないだろうと思っていたが、幸いなことに今回もそうした出会いがあったといえよう。

 改めて言うまでもなく、勿論の話なのだが、人は一人では仕事は出来ない。

 「組織」という表現を使うと、そこには排他的で一律的な、悪いイメージが想起される。だが、「個を大切にする組織体」も世の中にはごく少数だが存在している。今回の出合では、緩やかな接合で集団としての力を発揮している組織体が存在している事を知った。こうした環境に身を置くとき、その個人は<個>の存在以上の力を出せるだろう。

 思い描いていたような就業環境の選択が出来、そうした仲間(環境)に入れる。昨今の過酷な労働環境の中では、そうした機会に恵まれたことは実に幸せなのだと思わざるを得ない。

トマト2種類
ページTopへ移動
シソの葉

 そんな転職を機に、引越しをした。17年以上となるかもしれないが、新宿勤務となって以来住んできたところを引き払ったのだ。

 とはいえ、引越しは同じ「さいたま市中央区」の区内で、番地でいえば丁目がひとつ変わっただけだ。

 一度、「さいたま新都心(旧 与野地区)」に住んでしまうと、この地域からは俄かに離れがたい。

 24時間営業しているスーパーが数街区先にあるし、大規模なショッピングモールが直ぐ近く(やはり徒歩で数分の距離)にある。学校も病院も、銀行や区役所や図書館も、みな徒歩で数分の距離に纏まっている。

 さらに、この地域では晩秋から冬の間に吹き荒れる季節風もなく、安定した気候を享受できる。初夏から毎日訪れる夕立もない。ふるさと前橋のすさまじい「からっ風」から比べれば、この辺りの暮らし易さは言葉にならないほどだ。

シソの葉
ページTopへ移動
 新しく借りた住居は、以前と同じく鉄骨プレハブ的な構造で、部屋数は増えたのだが築年数はだいぶ古い。あまり長く住まうつもりは無く、気に入った物件が見つかるまでの短期的な賃借と考えているが、キッチン周り(シンクや給湯器)、玄関の靴入れ、各部屋の天井や壁のクロス、畳や襖など、すべてリフォームがされた。自分でも前の住居から付け替えたが、新たに一部屋にエアコンも付けてくれて、実に快適なものになっている。

 築年数の古さが示すとおり、どの部分に関しても昔風の間取りや設えとなっている。南には大きな吐き出しの窓があり、その外側はテラスになっている。テラスの前面には庭があって、陽光が盛んに降り注ぐ。大きな駐車場が住居の前にあって、都市部には珍しく日光をさえぎる障害物が東南面に無い状態なのだ。

 こうした俄かには信じがたい立地を利用しない手はあるまい。

 この環境であれば近所に畑を借りずとも、降り注ぐ陽光のもとで無農薬の植物が育てられるわけだ。昨今の流行のミニ菜園ができるということになる。

 梅雨前の一日、盛んに伸び始めた雑草取り、庭の草刈をした。狭いとは思っても普段した事のない園芸作業は、ちょっとした労働だった。やっとのことで草を抜き終えて土を慣らした。

 翌日、近くのショッピングモールに出かけていくつかの苗を買った。さらに上尾にあるホームセンタまで遠征して買い込んだ。こうして「自家菜園」の体裁が徐々に整っていった。一番栽培が楽そうなものを選んで植えたのだが、それはピーマン、トマト、なす、紫蘇の苗などだ。みな、2株づつ植えたのだが、大好きな紫蘇だけは3本の苗を植えた。

シソの葉

 これらの共通点がお判りだろうか。

 みな、「スパゲッティの具となる野菜類」ということだ。すべてを採り入れて、これらを素材にスパゲッティを作る。そんな収穫の日を夢見て、菜園での成長を見守っている。しかし、紫蘇だけは別格だ。グングンと葉を広げてしまうので、盛んに摘んで食べている。

 サラダや冷奴に散らすのだ。やはり大好きな豆腐に手でちぎって乗せると、豊かな香りが広がる。こうした楽しみや喜びは、また格別な趣きがある。「地物を食べる」というの事は、なんと素敵なことだろう。
ページTopへ移動