小さな旅の空の下 のインデックスページへもどる小さな旅の空の下 のページ   Top Pageへ移動 Top Pageへ移動          このページを閉じる 閉じる

2009.09.13
三浦海岸の浜遊び と Y150(開国記念博)横浜 山手歩き

アクセス;
 三浦海岸;京浜急行  横浜;JR東海道線 湘南新宿線

カメラ;
 PENTAX K−10D

 RICOH CAPLIO GX−100 24−72mm

レンズ;
 PENTAX FA50mm F1.7
 PENTAX DFA100mm F2.8 MACRO


 さて、前日の土曜日は本来の予定を入れ替えて横浜のウォーターフロントを街歩き(2009.09.12 :横浜 街歩き)したのだが、今日は宿泊した三浦海岸で遊ぶ予定にしている。
ページTopへ移動
三浦海岸 三浦海岸での収穫

 日曜日は前夜の雷雨が嘘のように綺麗に晴れた。

 前日の雨や、晩の激しい雷雨で、どうなることかと思ったが、海で遊びたいという子供のリクエストに答えることが出来た。いろいろと考えるところがあって浜で遊ぶのは午前中だけになるが、保養所の前にある三浦海岸の砂浜に出て遊んだ。

 夏を過ぎた浜は静かなもので、タープを張ってバーベキューを楽しむ集団と幾組かの親子連れが遊ぶくらいで、あとは犬の散歩をする地元の人がいるくらいだ。閑散とまで寂しくは無いが、大分様子が違う。

 もうこの時期では遊泳時期は過ぎていて遊泳禁止となっているだろうから、泳ぐことは出来ない(しかもクラゲが沢山いるはず)が、こんな静かな浜も家族向きでいいものだ。

三浦海岸での収穫物
ページTopへ移動
三浦海岸

 帆船 日本丸(乗船見学と併設のみなと博物館)や日本郵船の歴史博物館を巡って随分と楽しんだ(2009..09..12 横浜;帆船 日本丸 スライドショー)が、そこで日本丸の帆布を広げる行事が年に数回行われることを知った。

 船内の講堂で流れていた説明ビデオで「そうはんてんぱん」を行うとあった。初めて聴くその言葉の意味が実は判らなかった。

 私はそれを聴いて「操帆伝播」だと思った。帆を張る作業の命令を順次呼称しながら伝えていく行為を意味するのだろうと思ったのだった。博物館の入り口に貼られたポスターでそれが「総帆展帆」と書くものであると判り、しかもそれが翌日の日曜日に行われることが記されていた。

 そこで、できれば横浜に戻ったときにそれを見ることにし、午前中は三浦半島で遊ぶことに予定を決めた。当初考えた葉山のヨットハーバー見物は取りやめることにした。
ページTopへ移動
 充分、浜で遊んだので、その後、帰路の途中にある「金沢文庫」へ向かうことにした。

 「金沢文庫」は歴史的な街なのだが、そこにある古刹の「称名寺(しょうみょうじ)」の庭園を見たかったためだ。

 京急の駅に貼ってある大型の観光ポスターでもその庭が紹介されている。1267年に開山された古い歴史を持ち、鎌倉幕府の滅亡と共に衰退したのだというが、赤門、仁王門、金堂などの建造物があり、浄土式の庭園は1987年に復元されたのだという。幾つかの国宝と夥しい数の重要文化財(仏像や書籍など)がある。

 美しい日本庭園を楽しみ、のんびりと出来そうだし、珍しい鎌倉時代の庭園を見学できる良い機会だ。

 駅からは徒歩でも20分ほどらしく、それならアクセスは楽そうだ。金沢文庫の駅前を走るバスの路線も寺院の近くを通るらしい。

金沢八景

 京急の「三浦半島フリー切符」であれば、フリー区間内の半島を縦横に走る路線バスもすべて無料になる。

 だから、金沢文庫駅で貰った簡単な地図(コピーされたもの)を頼りに路線バスで目的地へ向かうことにした。

 バスは軽快に走り出したが、次々にアナウンスされるバス停には、地図に記された目的の停留所は現れず、そうこうするうちに「金沢八景」の駅まで来てしまった。通り越してひと駅分戻ってしまったことになる。

 どうやら乗ったバスは別の路線のものであったようだ。仕方が無いので寺を訪れるのはあきらめて、改めて切符の起点となる横浜の街へ戻ることした。
ページTopへ移動
横浜駅にて昼を調達 野毛山公園

 前日に貰った横浜の地図を京急の車内で眺めていたら、「日の出町」に大きな公園があるのを見つけた。

 「野毛山(のげやま)公園」といって丘陵全体が公園になっている。 動物園やアスレチックなどいくつもの施設がある、規模の大きなものだ。

 地図によれば、そこからなら、JRの桜木町駅もさほど遠くは無く、歩いて行けそうだ。

 公園で昼を食べてのんびりした上で、うまくいけば日本丸の「総帆展帆;すべての帆をはる作業」が観られるかも知れない。
ページTopへ移動
野毛山公園

 そんな訳で京急の「日の出町」駅で下車し、公園へ行ってみた。

 確かに地図で記されたように丘陵で、横浜図書館の裏手の丘全体が大きな公園になっていた。都会とは思えない山深い雰囲気を出した味わいのある公園だ。

 丘は幾つかの峰に別れているが、それが自然公園やアスレチック、動物園や広場という具合に奥深く広がっている。

野毛山公園
ページTopへ移動
野毛山公園 野毛山公園

 「佐久間象山(さくま ぞうざん)」の顕彰碑が丘の頂上に建っていた。天然石を利用した大きな石碑だ。

 象山は真田で有名な松代藩の学者で、幕末を代表する頭脳だった。

 市民の憩いの場であろう公園の中に、しかも周囲の自然と違和感が無い状態で、開国論者であった彼の功績が称えられている。こうしたところが横浜の港町としての歴史と、そうした歴史を大切にする気風を感じさせずにはいられない。
ページTopへ移動
夏の終わり

<佐久間象山(さくま ぞうざん)>

 藩主の真田幸貫(さなだ ゆきつら)が老中・海防掛に就任した際の顧問で、アヘン戦争などの海外事情を研究し、海防八策を献上した。

 象山は優秀な朱子学者だが、洋学の必要性を感じてオランダ語を学び、医書や兵書から知識を得、砲術・兵学の私塾を開くにいたった。

 その私塾では、勝海舟(かつ かいしゅう)、吉田松陰(よしだ しょういん)、坂本竜馬(さかもと りょうま)などが門人だったという。

 その後、藩軍議役(藩の軍事方針を決定する軍事顧問)に就任していたが、安政の大獄で、吉田松陰の密航に連座(松陰への渡海を薦めたのが象山)して松代での蟄居となった。

 蟄居で済んだのは、老中のブレーンで、藩の軍議という重職にあったからだろう。一方の松下村塾で優駿を育成した松陰は、士分にも拘らず伝馬町の獄中で刑死(切腹ではなく斬首)している。

 象山は元々、攘夷派であったが、蟄居中の洋学研究で「和親開国論」に転じた。幕命で蟄居が解かれて上京し、公武合体や開国を国是とするべく幕府要人へ具申し、通商交易の必要性を献策した。  時の将軍 徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)に招かれて「海陸御備向掛手付御雇」に就く。要は幕府の防衛担当顧問官だ。開明的な思想が仇となって惜しくも京都遊説中に尊皇攘夷派により暗殺された。

 当然、象山の影響を受けていた維新の主役達は、開国後にその功績を讃えただろう。
ページTopへ移動
狛犬に変化 狛犬に化しても、ここは神社じゃありません

 この碑自体は新しいもので、開国100年を記念して、国際港湾都市となった横浜開港の先駆者を改めて讃えて建立されたものだ。奇しくもまさに今開かれているのがY150、開国(開港)150年を記念する博覧会だから、丁度今から50年前という事になる。


 私達はそこで、用意したおにぎりを食べ、のんびりと休憩した。

 まだ子供には早いかと思ったが、そんな遠い時代に思いを馳せて、この碑が何か、この人が何をした人か、鎖国・開国とはなにか、を説明してみた。

美味しかった おにぎり 横浜のバス
ページTopへ移動
 動物園やその先の芝生の広場が本来の目的だったが、今から丘を降りていけば日本丸の帆を張った姿が見られるかも知れない。

 そんな訳で、丘を後にして桜木町の駅へ向かうことにした。

 街中を歩いていたら、片側2車線の大きな通りへ出た。交差点には地下への入り口があり、「桜木 ちかみち」と書かれた看板が出ていた。 そこで、近道をしようと地下へ降りたが、普通の地下街が広がっているばかりであった。しばらく歩いて地上に出てから気がついた。「ちかみち」は近道の意味ではなかったのだと・・・。

帆船 日本丸 もう大分、展開した帆が収納されてしまった。
ページTopへ移動
 桜木町の駅へ着いて、帆船を見ると美しく帆が張られていた。早く行かないと、展開した帆を畳む時間になってしまう。

 そう思いながら歩いている間に、何枚かの帆が巻かれて消えて行く。見る間にいくつかの帆が消えてしまったので、急ぎ足で近づいて行った。

 指揮する号令が聞こえ、ヤードに取り付いた小さな人が見えてきた。丁度、巻き上げ収容作業がたけなわで、パークの芝生斜面へ着いたときにはもう最後の帆を収容するところだった。

 参加して作業するのはボランティアの人達とポスターにあったが、思いのほか手早い作業だった。

収容中 帆船 日本丸
ページTopへ移動
みなとみらい21
ページTopへ移動