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2012.05.04
赤城神社(あかぎ じんじゃ) 前橋市 三夜沢(みよさわ)
アクセス;
前橋(中央前橋駅)より上毛電鉄に乗り「大胡」 しかし自家用車でないと公共交通網での移動は無理。
カメラ;
RICOH
CAPLIO GX−100 24mm F2.4 〜 72mm F4.4
iPhone 4S
(画像添付時に約30%程度に圧縮)
9月30日に、故郷の前橋を舞台にした大きなレースが開催される。「赤城山ヒルクライムレース」というもので、全国から自転車乗りが集まって、市街地から赤城の山頂を目指して登る、という内容のもの。
故郷で繰り広げられる山岳登攀レースへの出場
(のんびり 行こうよ 「赤城山ヒルクライムに向けて(HARP C2900改修・交換)」)
を目指して、山坂を走るトレーニングしていたが、ただ坂道を登るだけでは芸がない。そこでどうせならと「赤城神社」へ登ってみたのだった。
二之宮(にのみや)
辺りから見る
赤城山の様子
2012.02.11撮影
<二之宮赤城神社>
2011.09.24撮影
「赤城(あかぎ)神社」は、赤城山に芽生えた山岳信仰が基になって、その後、神道と結んで大きな規模となった神社である。
神道を統べる吉田家から江戸時代中期に正一位の地位を受けているが、この神社の格式は古くから高いもので上野国の二の宮である。一の宮は藤岡の「貫前(ぬきさき)神社」で、ここはその次の位になる。だから、太古から県域を代表する格式を誇った、由緒ある伝統をもっている。
赤城神社という神社は、県内の各地に多くの分社がある。それらの源流、根本の社がここにある赤城神社なのだった。
<二之宮 赤城神社の春の祭礼>
二之宮(にのみや)の地に、
集落の規模には不釣合いとも思える
大きな神社がある。
古い社があって、それが大切に保存されている。
参道は長く、長屋門のような門を潜る。
その造りは、むしろ寺院の様だ。
少し、不思議な雰囲気を持っている。
前橋の東方郊外にある二之宮赤城神社
満開の桜に飾られる春の祭礼の様子
2012.04.15撮影
しかし、調べてみると、神社の来歴には諸説があった。
二之宮(前橋の東方郊外)にある赤城神社が本社で、こちらはその里社から分かれた後に出来た山社とする説もあるのだ。
県内だけでなく、関東の各地で見られる数多くの赤城神社を統べるその根本は二之宮の地にある神社であって、赤城の中腹にあるこちらのほうはそこから分社したものであるという話なのだが、真偽のほどは今となっては判らない。
さらに、他の説もある。それは他の仮説とは異なって一風変わったものだ。
基の話というか、そうした説が出てくる根拠が何処かにあってそれで発生したのだろうが、その説はにわかに信じがたい内容のものだ。
二之宮から程近い地にある古社で「産泰(さんたい)神社」というものがある。その神社が、古くは赤城神社の本社であったとする説もあるのだった。ここは我が家の子供が七五三参りをして、御祓いをして頂いたところ。古い社殿が今でも残っていて、境内に踏み入れると、そこには何ともいえない厳かな雰囲気が漂っている。周りとは少し空気の感じが違うのだ。あおれはいかにも神域といった感じで、それが強く肌に伝わってくる。
そうした作用もあってか、地元では格別の親しみを込めて「産泰さま」と呼ばれるその神社も、地域の信仰は非常に篤い。
残念な事に後北条家(初代当主の早雲:そううん)が小田原を拠点化する騒乱の際に社歴を記した文書が焼失し、現在では神社の由来は明確ではない。伝説に過ぎないが「日本武尊(やまと たける)の東征」の折に、この丘で祈りを捧げたことから、社が始まったという。
安産と子育ての神として、多くの人が祈願や社殿での御祓いをし、霊験の高い御札を頂くために訪れている。
二之宮赤城神社の拝殿に連なる本殿の様子。
桧皮葺の屋根や本殿そのものを守るために、
さらに上段に屋根が覆っている。
本殿の造りを観察すると、その木工技術に眼を見張る。
<赤城大沼(大洞)>
大洞(だいどう)赤城神社
は赤城大沼の湖畔にある。
小島の様に湖に突き出た半島状の地にある。
2009.05.03撮影
赤城山の大沼(おおぬま)の畔には、やはり大きな神社が建っている。ここも同じく「赤城神社」なのだった。
混乱するので、この地の神社を「三夜沢(みよさわ)赤城神社」、山頂のものを「大洞(だいどう)赤城神社」と呼びならされている。しかし、それぞれの神社を守る土地の人達は勿論、みな同じ呼称を使っているのだった。
何処へ行っても「赤城神社」だけで呼ばれている。他の神社の事など、始めから念頭にないのだ。
下界(さいたま)の様子。
ソメイヨシノが散ったあと、この時期は八重桜が満開となる。
赤城の春は遅い。
ゴールデンウィークの頭では、姫百合駐車場脇の沢に
カタクリの花が咲く。
その辺りは赤城神社よりも少し海抜が高いので、山桜がその時期でも咲いている。
江戸時代の寛政期(11代、家斉:いえなり の治世 1790年代)、本社はどちらかを巡って争いがあった。そうした係争が起こった背景には、浅間山の噴火で未曾有の大飢饉となった天明(天明の大飢饉)から時間が経って郷村での社会生活が潤いを増した証左だろう。
しかし、時の老中首座、松平定信(白河藩主 まつだいら さだのぶ)が天明期から行った幕政改革である「寛政のご改革」は、先の田沼意次(老中 たぬま おきつぐ)が推し進めた<重商主義>を否定し、緊縮財政を行うものだった。
彼が執り行った改革は、朱子学的な道徳観による超保守主義によるものだった。田沼老中が活躍した前政権でせっかく進んだ「商業や流通や殖産に立脚した貨幣経済の立ち上げ」の方向から完全に逆行する流れのものと言ってよかろう。
江戸期を彩った<農本主義>の本流を成す考え方で、見るべき内容は何もない。後の世に影響を与えるような時代を先取りした政策はただひとつ。「人足寄せ場の設立」だけだろう。
<三夜沢(みよさわ) 赤城神社>
入り口の脇に、深く水をためた池があった。
時代小説家の池波正太郎さんがライフワークとして書き継いだ連続短編集の「鬼平判科帳」。その主人公で有名な長谷川平蔵(はせがわ へいぞう)は実在の旗本だった。
彼の役務は「幕府お先手組(先鋒の精鋭部隊) 組頭」というもの。番方(武官)のトップの役職である。そのお先手組の加役として「火付け盗賊改め方」の長官でもあった。西の丸御書院番から出仕を始めた生粋の武官(父親は京都町奉行を勤めている。親は「文吏」といった趣きがある)であるが、凶悪犯罪の捜査・検挙・裁判、そして刑の執行に当って治安を守ったが、それだけではなく、根本政策に関する献策も行った。
犯罪の発生と再発を防ぐための仕組みである「人足寄場」の設立を嘆願し、政権中枢に決裁させるための運動を行って、これを見事に設立させたのだ。手に職が付けば「博打(ばくち;当時はご禁制)」に走る必要もないし、犯罪に身を染める心配も無くなる。無頼の徒で暮らすのではなく、真っ当な職業に誰もが着くことが出来るのだ。
「人足寄せ場」の他に白河侯:定信のとった政策と言ったら、どれも発展しつつあった流通経済への潮流を否定するものにしか過ぎない。それはもう眼を覆うばかりだ。「棄損令」や「蘭学の否定」といった彼が推進した主要な政策などは、どれをとってみても時代の流れを数十年は後戻りしてしまうといったもの。武士階級の矜持は大切だったかもしれないが、みな時代錯誤の間違った方向の施策だったと言えよう。
所詮は政治好きな一橋(ひとつばし)家の御曹司の器にしか過ぎず、彼によって失脚させられた老中「田沼意次(たぬま おきつぐ)」よりも政治家としての先見の明もなく、時代が必要とした経済感覚にもひどく乏しい。数段、政治的な能力が低い人ではなかったか、と私はその人の施政を評価している。彼の潔癖と思われる性格の是非はともかくとして・・。
一橋家は幕府御三卿の筆頭、当時の継承状況からすれば次期将軍の最有力候補だった訳だが、政権の配慮で養子となって白河藩主となった履歴を持つ。老中職に就任して実際の政治を行わずに虚飾としての将軍位に就いたほうが、彼自信にとっても後の歴史としても良かったのではと考えてしまう。なぜなら幕末へと続く幕府政権の衰退は、そのときから一気に加速し、もはや挽回の余地を失ってしまうからだ。経済史を学んだ者からすれば、田沼の時代こそが歴史上の大切な転換点であった。
田沼の失脚によって幕府が持つ最後の切り札を喪失してしまった、といえよう。何故ならその事が、財政の根本的な建て直しの貴重な機会を失うという意味を持っていたのだから。
徳川幕府はさらに衰退を重ねていって、とうとう「維新」という終末を向かえる。残念な事に破綻に瀕する幕府経済を救うほどの駿優はいっこうに現れず、田沼の失脚から幕末までのおよそ百年という長い時間を費やす必要があった。国家財政という規模での施政に関しては、敏腕で政治感覚に優れた勘定奉行「小栗上野介(おぐり こうずけのすけ);外国奉行と江戸町奉行も歴任」の出現を待つしかなかったのだ。
小栗が幕末ではなくあと50年ほど早く世に出ていれば、あるいは15代将軍の「慶喜(よしのぶ)」が大政奉還する時期を今暫く遅らせて踏みとどまっていたら、と考えてしまうのだ。さらには田沼が目指した施政をそのまま継続していたら、たとえば意次自身によってか、あるいはさらに優秀といわれた彼の嫡子の「意友(おきとも)に引き継いでの長期に渡って重商主義の政策を実施し続けていたら、と歴史のif(イフ)を思ってならない。そういえば、最後の将軍の徳川慶喜は水戸家(尾張、紀州とならび将軍位の継承権を持つ徳川家ご一門、徳川御三家の最下位の家柄)に産まれ、その後に一橋家へ養子へ入った。そして一橋の当主として過ごした後に、将軍位を継承した人であった。
神社の参道から脇を見る。
鬱蒼と茂った杉木立が
奥のほうまでずっと続いている。
大分話が横道にそれて、しかも長いものになってしまった。このあたりで閑話休題としよう。
さて、寛政期の寺社奉行にまで登って係争された互いの社格への吟味だが、互いに譲らずに格式を競っていたのはこの三夜沢と大洞の2社の間である。それぞれが、我こそは「総社、本社、正一位」だと、をお互いに主張して決して譲らなかったようだ。
この係争には経緯があって、全国の神社を古くから統べる吉田家への訴えや、吉田家と対抗する白川伯王家への訴え、そしてそれぞれからの認可を巡る紛糾というもの。
そこには吉田家と白川伯王家による全国の神社に及ぶ利権範囲の争い、その代理闘争のような側面もあったようだ。なかなか決着が着かずに、とうとう神社から時の寺社奉行へ訴状を出し、決裁を求めるまでに紛糾したという。
桃の木川CR(駒形)
から見る
赤城山の様子
2012.03.25撮影
私などは初めから認識が薄いから、それぞれの立地から判断して、それを下社・中社・奥社として格付けすればそれで解決するのでは、と思うのだが、そうは行かないようだ。お互いに歴史が古く、しかも地域への密着度が高い事。だから、住民だけでなく、後援する有力者(神社の庇護者=権力者)の面子にまで関わるのだろう。だから一層話が紛糾し、お互いの主張は平行線をたどる。
結局のところ何処までも係争が絶えることがない。
江戸の中期に奉納された常夜燈。
大きくて、実に立派なもの。
神社へ向かうには、自家用車でないと難しい。
赤城の中腹にあって、
そこへ直接のアクセスする手段がないからだ。
大胡(おおご)の町から「赤城1000本桜」を
目指すと、その奥に神社が佇んでいる。
「風っこ街道」と呼ばれる国道353号線上に
あるが、それは峠道と呼んでも良いカーブが
連続する厳しい道だ。
前橋からは、市の北方にある嶺(みね)に
登ってから山麓を横切る道(353号線)を
東進する。
そうして、もういいか、と思うような場所まで
道を一心に進んで、そこから北に登れば
やがて目指す神社へたどり着ける。
ところで、赤城山は側の麓から山を望んだ姿がいい。それは群馬だけの事でない。たとえば埼玉の本庄辺りから北方を見ても、その裾野を長く引いて広がる雄姿を認めることが出来る。
だから、その山の姿を目の当たりにすれば、心の奥に小さな信仰心が芽生えても少しの不思議もない。山稜まで行ってみれば、さらに雄大さに加えて険しい表情が増して来て、なお一層、その心の動きが強くなる。
二之宮の神社からは、北方に裾野を長く引いた大きな山(連峰)の姿が見える。そして三夜沢(みよさわ)へ行けば、そこはもう山の南面中腹の位置なので、赤城は平野の姿とは一味違った険しい表情を見せはじめる。
さらに山頂の大沼(カルデラ湖)湖畔まで行ってみると、水面はいたって静かで、水は深い色をたたえている。鏡のように凪いでいれば、その水面には黒檜や長七郎や地蔵岳など湖を取り囲んだ多くの外輪山が写される。その湖畔にあって、囲まれた山々を仰ぎ見れば、赤城の持つ神秘性が深く沁みてくる。
どの場所に位置する神社(二之宮、三夜沢、大洞の3箇所)に立ってみても、そこから望む赤城山はそれぞれの表情で望まれる。三つの場所で自然発生した山に対する信仰が、それぞれ発展していってその地に深く根付いとのだとしても、少しも不思議ではないと思われる。
さて神社という施設は、それ自体ではなかなか大きく立派にはならない。独自に何かを生産している訳ではなく他力に頼っているのだから、それは当たり前の事だといえよう。
時の政治権力に庇護され篤く守られて、そうした権威者から充分な寄進を受けなければ、勇壮な社殿を維持できないのは自明の理だろう。それが無く、神社を支える氏子(うじこ)からの喜捨だけでは屋根の修繕程度もままならないだろうと思う。だから大きな古い社殿が現存していれば、そうした保護を必ず受けていたと考えて間違いないのではなかろうか。
たとえば三つの赤城神社を観察してみるとそれが良く判る。
それぞれの神社の社殿が充分に維持されている様子から、篤く庇護されてきたことが伺えるからだ。調べてみると、江戸初期に「厩橋(うまやばし;前橋の改名前の古い地名)」に入った「酒井忠清(さかい ただきよ)」によって大洞(だいどう;赤城大沼を指す)の神社が大きく庇護されたという歴史があった。そして歴代の厩橋(前橋)藩主は大洞の古い社で執り行われる式典(例大祭)に参列もしていたという事が、古文書などによって今に伝わっている。
さらに続く酒井一族の藩主期に、大洞と同じように三夜沢(みよさわ;赤城山の南麓にある)の神社へも手厚い保護がされた。新たに50石の社領の寄進が藩主からあったのだという。この社領は永代のはずだから、かなりの振る舞いと思ってよかろう。馬廻り衆(親衛隊)や小姓(秘書官)、勘定方肝煎り(経理、出納部長)といった役どころの中級藩士の石高が100石ほどだから、その額は大きなものといって良いだろう。
<拝殿の様子>
この時期、三夜沢の赤城神社への道筋は、躑躅(つつじ)の花で華麗に彩られる。
神社の立地は「風っこ街道」と呼ばれる国道353号線沿いにあるが、それは赤城山の中腹を東西に横切った道であり、カーブが多い道だ。鍋割や荒山などの幾つもの尾根筋を横切って越えるので、アップダウンもきつい。
峠道といった登り調子だけではないが、神社の入り口になる大きな交差点からは、真っ直ぐ北に向かって道が伸びる。盛んに咲くツツジの赤い色を横手に見て、それを楽しみながら長い登り道を進んで行く。
するとやがて道は左にカーブしてそこで見えなくなる。そしてカーブの奥に神社の鳥居が見えてくるのだった。
三夜沢 赤城神社の東宮跡
こちらにも、大きな門が残っている。
私達は、この神社へのアクセスとしてトレーニングを兼ねて自転車でやって来たのだが、その神社前の登り道はことにキツかった。前橋から芳賀(はが)方面へ登っていって嶺(みね)を越えて小坂子(こざかし)へ向かい、国道へ出たところでその道を東へ進む。
鍋割山を眼前左手に見ながらずっと、連続する深くカーブした道を走るものだ。
カーブの連続だけではなく上り下りの斜度も加わり始めて、しばらく一心にペダルを回した。やがて大きな交差点に着いて、北に道をとリ直した。そこから嫌気が差すような長い坂を真っ直ぐに登ってきたのだった。
坂道のトレーニングとしてはまさにうってつけの内容だけれど、その最後に控えた長い直線の坂道はきつかった。しかし、苦労の先には由緒ある古い社殿をもった、厳かな空気に満ちた神社との出会いが待っていた。
満開のツツジの花を楽しみつつ、坂道を下る。
神社へ登る道の
直ぐ横に遊歩道が
用意されている。
そこでは眼を見張るような満開のツツジが
愉しめる。
距離にすれば、
およそ2Kmほども
あるだろうか。
あの交差点から続いた直線の坂道は、だから神社への参道なのだろう。
そうやって苦労して辿り着いた社域の入り口部分には大きな鳥居が聳えていて、その横には暗い池があった。
鳥居を抜けてそこから続く石段の参道を通って、斜面の先にある拝殿へと進んでいく。その参道の横には樹齢を経た大きな杉が何本も立っていた。幹の太さからすれば、どの樹木も相当の年月を経ているだろうと思われる。その数に圧倒されて進むうちに、やがて拝殿が現れた。
酒井侯が庇護を深めた江戸時代などは、さらに樹木の数は多かったのだろう、と想像する。
今でもその様子は鬱蒼とした神秘的なものだが、戸隠神社(とがくし;長野)や弥彦神社(やひこ;新潟)のような、辺りを圧倒して林立する古木立ちだったのではなかろうか。
ところで、この神社でも催しの内容をしらないのだが、麓にある二ノ宮の赤城神社の祭礼は大きなものだった。
桜の咲く頃
(のんびり 行こうよ 「2012.04.15 大胡、そして二之宮(前橋:坂道その2)」)
、友人のSがそこで御神楽をやるというので見学に行って楽しんだ。先に書いたように二之宮が赤城神社の源流で元祖、本家本元という説もあって、その判断が難しい。なぜなら三夜沢に劣らず、あの神社も大きな社殿を持っているからだ。
大きな拝殿に連結して古い桧皮葺の屋根を持った本殿が、その上に保護のための大屋根を設えて風雨に耐えて建っている。
友人Sの談によれば、そこの神社とこの三夜沢の間では往復が合って、古い時代には神輿の行幸が執り行われていたのだと言う。狩衣のような装束にしっかりと清めた身を固めた人達に担われた神輿が、それを紋付、袴の正装で供奉する行列を伴って山道を静かに登ってくる。そんな様を想像すると楽しいものがある。
<喫茶 柱時計>
三夜沢から戻ってきて、嶺に至る手前、
小坂子の並びに滝窪という地区がある。
この店は友人Tのお勧めの喫茶店。
店内には、気の休まる骨董が置かれている。
香りの高いコーヒーが味わえるし、
マスターが本当に気持ちの良い方だ。
以前にもこの店を紹介したが、
本当に気持ちが落ち着く
私好みの良い店だと思う。
先日などは、割れてしまうSPレコードを
往年の蓄音機で聴かせてくれた。
<美空ひばり> の古い唄声が入った
レコードなどは、まさに絶品。
思わず震えてしまったほどだ。
本当の宝物、といっても良いだろう。
(のんびり 行こうよ
「2012.04.22 大胡・滝窪から嶺公園へ」
<本日の旨い物>
前橋駅に程近い場所にある割烹料理店、「蚕豆(そらまめ)」さんの昼の定食。どちらも焼き魚定食だけれど、突合せが違う。これは食べた日が違うから。季節を追いかけて、小皿の内容も変えるという工夫が凝らされている。
ご主人は若い人だが、こうした気配りに客としては、顔が綻ぶ。
三夜沢の「赤城神社」へ登った翌日、この定食を楽しんだ。左は少し前、赤城神社へ向かう前日に撮ったもの。だから正確には、「本日の・・」ではない。悪しからず・・。
2012.03.24 の 焼き魚定食
こちらは、5月3日のびバージョン。
細部になるが、小皿などにご注目頂きたい。
勿論、ついてきたデザートは両日で別の内容だった。
川村インスパイア