古墳時代の中期、土師一族は古墳そのものを作ったり埋葬儀礼を取り仕切っていたのだという。埴輪を作るための工芸や陶工技術といい、測量や施工などの大規模な土木工事の技術といい、当時の日本においてはいずれも最先端の技術を駆使する集団なのだといえよう。伝来説話によれば、一族は帰化人系の技術者集団として列島へ渡来した人々をその祖としているとされ、それが定説として今に伝わっているようだ。
そして彼らの氏神である租神(おおもととなる氏神を祭ったのは大阪にある「道明寺」だと伝わっている)を祭ったのが、「土師神社」の流れで、ということなのだった。
多くの古墳造営や埴輪(はにわ)の考案などの大きな功績によって、さらに桓武天皇に姓(かばね)を与えられて、やがて一族は大江(おおえ)、菅原(すがわら)、秋篠(あきしの)の3氏へ氏族が分かれたのだという。
埴輪の考案以前においては、埋葬する霊を安らかにするための副葬としては実際のものを使っていた訳だ。そうした儀礼のあり方を考えると、その当時に存在した権力はやはり凄まじいものだったのだと思う。
愛馬であったり、甲冑や刀剣であったり、あるいは「人柱;ひとばしら」であったり。古墳に祭葬される大王(権力者)に対して、そういう実体を埋葬に合わせて石室内やその周辺に埋め込んだわけだ。埋葬に際しての埴輪の奉納は霊を鎮めるための儀礼として様式化されたに違いない。模造の収納という行為に改めて格式を付け、その副葬を意味のある儀礼としたはずだ。副葬に犠牲を払う事無く、武人や馬や武具などを模した手工芸品にそれを置き換えた訳だ。そして、模造に魂を込め、その後に副葬するという画期的な手法を野見宿禰(のみ の くすね)が考え出したという事。何とも素晴らしい発想ではないか。
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