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2012.10.21
土師神社(はじ じんじゃ) 藤岡市

アクセス;
 JR八高(はちこう;高崎・八王子間を走る)線 ― 群馬藤岡駅よりバス

カメラ;
 RICOH CAPLIO GX−100 24mm F2.4 〜 72mm F4.4
 (画像添付時に約30%程度に圧縮)



 さて、何時ものようにわが実家、前橋にあるオヤジ仲間のネストに集合していたときの事だ。

 友人Sが、土岐神社というのが藤岡にあって、そこで「ヤブサメをやっているって知ってる?」と言い出した。流鏑馬(やぶさめ)といえば古都 鎌倉の「鶴が丘八幡宮」で開催されるものが関東では名高い。神事であり、武家の奉納行事(武運長久を願う)だが、それが群馬県の藤岡市で行われているとはまるで知らなかった。

利根川CRで土師(はじ)神社へ向かう サイクリングロードを進む
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 「土岐(とき)神社」、土岐氏といえばかの戦国武将の「明智光秀(あけち みつひで)」が自らの出自とした一族だ。鎌倉期からの由緒正しい武家の家柄なので、藤岡あたりにも幕府から有能な御家人が任命されて現地へと統治にいって、そこで土着したものだろうか。氏の嫡流では無いだろうが、そこで神社を建立して今に続くほどの勢力を誇ったものか。

 そう思って、改めて調べてみた。

 ところが「土岐神社」という呼称、友人のちょっとした覚え違いによる間違いだった。

 実はその神社、正しい名前は「土師(はじ)神社」というものだった。弥生式の土器で有名な「土師器(はじき)・須恵器(すえき)」の土師(はじ)と同じ文字を書く。

セルフ撮影 神流川(かんながわ)
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 「土師(はじ)」氏は太古の部族であり、後の菅原道真(すがわら みちざね)の祖となる一族だ。

 道真に関しては、以前、梅の写真 (のんびり行こうよ 2008.01.27 「梅は咲いたか、桜は・・・」)と共に書いたことがある。天神様として各地の天満宮や神社の祭神となっているが、その曽祖父が土師の一族で、功あって朝廷から「菅原」の姓を下賜されたという。

 だから、結局のところその一族は各地に広がる多くの神社の源流をなすもの、といっても良いかもしれない。

 もっとも、道真はその有能さ故か、あるいは栄華を誇った都(での生活)を追われて大宰府(だざいふ)の僻遠の地で落命した無念さ故にか、死して後に京の都に災いをなす恐るべき怨霊と化した。都における政治家の頂点を極める官位にまで登りつめていたが、朝廷内での政争に敗れ、地方長官として大宰府へ赴任したのだった。内容は完全に政治的な失脚であり、左遷であった。そして道真は都を懐かしむ失意の中で、その地で亡くなるのである。その直後から紫宸殿への落雷の直撃や疫病の流行など、都は未曾有の災難に襲われ始める。

 人々は彼の怒りや無念さを鎮めようとして、死して後にも関わらず改めて官位を贈り、そして神として崇め祭ったのだった。それが天満宮の始まりであり、各地に広がる八幡様や天神様の起こりとなっている。だから普通の、神格化された英雄(スサノオやヤマトタケルといったミコト達)が祭神として鎮座する神社の縁起とは少し方向が違うのではあるが・・・。

 「土師(はじ)」氏の一族は、日本書紀に登場する「野見宿禰(のみのくすね)」を祖とする有力な豪族だ。宿禰は古墳に埋葬される埴輪を考えた人として伝わっていて、天皇から土師の職(「職」は「つかさ」と読み、専門的な職能集団を意味する)を、その曾孫は「土師連(はじのむらじ)」姓を賜って、それ以来「土師」を一族の名乗りとしたのだという。

移動の手段は自転車 この日の移動は
自転車による。
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 古墳時代の中期、土師一族は古墳そのものを作ったり埋葬儀礼を取り仕切っていたのだという。埴輪を作るための工芸や陶工技術といい、測量や施工などの大規模な土木工事の技術といい、当時の日本においてはいずれも最先端の技術を駆使する集団なのだといえよう。伝来説話によれば、一族は帰化人系の技術者集団として列島へ渡来した人々をその祖としているとされ、それが定説として今に伝わっているようだ。

 そして彼らの氏神である租神(おおもととなる氏神を祭ったのは大阪にある「道明寺」だと伝わっている)を祭ったのが、「土師神社」の流れで、ということなのだった。

 多くの古墳造営や埴輪(はにわ)の考案などの大きな功績によって、さらに桓武天皇に姓(かばね)を与えられて、やがて一族は大江(おおえ)、菅原(すがわら)、秋篠(あきしの)の3氏へ氏族が分かれたのだという。


 埴輪の考案以前においては、埋葬する霊を安らかにするための副葬としては実際のものを使っていた訳だ。そうした儀礼のあり方を考えると、その当時に存在した権力はやはり凄まじいものだったのだと思う。

 愛馬であったり、甲冑や刀剣であったり、あるいは「人柱;ひとばしら」であったり。古墳に祭葬される大王(権力者)に対して、そういう実体を埋葬に合わせて石室内やその周辺に埋め込んだわけだ。埋葬に際しての埴輪の奉納は霊を鎮めるための儀礼として様式化されたに違いない。模造の収納という行為に改めて格式を付け、その副葬を意味のある儀礼としたはずだ。副葬に犠牲を払う事無く、武人や馬や武具などを模した手工芸品にそれを置き換えた訳だ。そして、模造に魂を込め、その後に副葬するという画期的な手法を野見宿禰(のみ の くすね)が考え出したという事。何とも素晴らしい発想ではないか。

レストアで復活を遂げた「クロスロード号」 先行する友人

神社に近い河川敷のCRを進む。
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 土師(はじ)神社に関して改めて調べて見ると、やがて「のみのくすね の説話」にたどり着く。

 「野見宿禰(のみ の くすね)」は出雲の人で、相撲の開祖として崇められた人物だった。当時無双の力持ちであった彼は出雲の地に暮らしていたが、天皇によって召しだされて、都で執り行われた相撲で見事に勝利を勝ち取ったという説話が伝わっている。

 宿禰は実在の人物だが、彼の功績を伝える説話の中で注目すべき点があるのにお気付きだろう。そこに「相撲」という、朝廷で執り行われた儀礼(ある種の神事としてのもの)が登場する事だ。相撲はそうした神話の世界ともいえる様な太古から現代に至るまで、連綿とその血脈を引き継いでいる事になる。

セルフ 神社へ向かうには、ちょっと便が悪い。

JRの高崎駅を始発駅とする「八高線(はちこうせん)」というローカル線。

八王子駅までの間、主に埼玉県西部の山稜部を走る。
その短い列車(3両から4両編成)はディーゼル起動車であり電車(列車)方式ではない。奥武蔵と呼ばれる山塊の北側を掠めて進むのだ。


列車の本数も多くはないのだが、この路線を使わないと藤岡市へ行くことは出来ない。
さらに、JR群馬藤岡駅から神社へと向かうには、
少ない営業本数のバス路線を利用しなければならない。


このため、今日の移動手段は自転車による。
前橋からは南部の玉村を経由してそこへ向かえば、その距離は近い。
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 やがて「相撲」は、平安時代においては宮廷行事としての「相撲節会(すまいのせちえ)」として国家主催の行事として執り行われる様になるのだが、さらに後世、やがて武家の間で根付いて武芸の一環(組討ちのための鍛錬)として扱われることになる。

 本来は神事であり、五穀豊穣の祈願とその年の作柄を占うという意味を持っていた儀礼的なもの。だから古くから神社で行う儀式として、年中行事の一つに組み入れられ、熱心に執り行われていたわけだ。

 それが時代が下って江戸初期になると「勧進相撲(かんじんずもう)」の興行が深川の富岡八幡宮で行われ始め、勧進(かんじん;喜捨、寄付を臨時に集う行為)の名目で始まった行事ではあったが、やがて時を経て木戸銭(きどせん;観覧料)をとって定期的に行われるようになった。

 だから、太古より行われていた「奉納神事としての相撲」と、江戸きっての盛り場であった両国を本拠にして行われる「興行相撲」は、元は同じ儀礼や様式から始まったものだが、実は別の流れといってよかろう。


 さて、時間軸を一旦元に戻そうか。

 朝廷で執り行われていた「節会」の行事が廃れて廃止となった頃に、ちょうど武家による統一政権である鎌倉幕府が成立している。源頼朝(みなもと の よりとも)は武芸の一環と認識して深く相撲を保護したという。そのためか、熱狂的なファンだった織田信長(おだ のぶなが)の例もあるように、後の世では武家行事のひとつとして定着していく。縁起を大切にした武家の間での一種の神事として保護されたものだ。

 江戸期に入ってからの事だが、大名お抱えの力士の名や武家主催で行った勝ち抜き戦の模様などをしるした文献が残っている。次第に武家の間でも興業化し始めると今度は力のある力士(相撲の先任者)を召抱えて養成し、勝ち抜きなどを行って技量の番付けをし、盛んに腕(力や技)自慢をさせはじめるのだ。

 あらためて言うまでもなく相撲は「国技」といえるものであるし、神事としてのその伝統はたとえば柔道・合気道や剣道といった武道(近代になってから体系化されたもの)を軽く圧倒しているし、あるいは柔術や剣術・槍弓術といった武芸・武術(平安中期からのもの)などから比べても途轍もなく古くて長い歴史を持っている。

 だから各地の神社の中には古くから奉納相撲が執り行われた伝統と格式を持つ社も多いし、神事の際の土俵なども保持されていたりと、地域によって伝統が大切に引き継がれている場合も多いといえよう。

CRから神社へ向かう 土師(はじ)神社の本殿
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 尽きるところ、友人Sの話に登場した「土岐(とき)」は「土師(はじ)」の間違いであったが、そこで秋に開催される「流鏑馬(やぶさめ)」の行事は、今年も開催される予定のようだ。

 由緒正しい、古い社殿や相撲の土俵を持つ神社(両国の力士で幕内を飾る人達が参拝に来るのだという)に関しても興味があった。社殿も気になるし、境内の様子も気にかかる。そしてなにより、境内の参道を舞台として行われる流鏑馬の行事に関しても、ひどく興味をそそられたのだった。

神社の様子 獅子舞の様子
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 これは、何を置いてもまずは神社へ行ってみて、この目で本物の流鏑馬を是非目の当たりにしたい。そこで繰り広げられる見事な武芸の技を直接見てみたいものだ、と思ったのだ。

 しかし、この伝統ある行事は古来より連綿として継続していたのではなく、近年になって再興されたものだという。一旦は流鏑馬の伝統は途絶えてしまうのだ。地元の有志によって行事が復活し、今年はその再出発から10年ほどが経つのだという。勿論、神事用の馬を飼育しているわけでは無いので、行事の際には村内ではなく外部からもろもろを調達しなければいけないようだ。

 幸いなことに、関東圏では栃木県の那須や日光を本拠として流鏑馬の流れが受け継がれており、馬も射手も居るのだという。行事はその稀有な団体を招いて、昔ながらの様相で盛大に行われるのだという。

拝殿に奉納される額 すでにその文字が読み取れない奉納額 (拝殿)
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 さて、「土師(はじ)神社」だが、その由緒ある古い社は群馬県の南西部、藤岡市の郊外にある。

 江戸時代の昔、その土地は幕府旗本の直轄領であったという。

 前橋や高崎、伊勢崎や藤岡などのように大名が統治した「藩領(はんりょう)」という事ではなく、有力旗本が直接に統治する土地だった。そうであれば、周辺の大名領とは様相が違って、厳しい年貢の簒奪が行われずに済んだはずだ。

 藩(領)では体面を維持するための経費も掛かるし、参勤交代の行列費用や幕府から一方的に達せられる普請命令などを受けての突然の出費など、常時、何かとお金が掛かってしまう。だから藩での租税は「六公四民(ろっこうしみん;収穫の6割を税として納め残りの四割を自分の取り分としたもの)」が一般的であり、ひどい場合は七公三民(高崎藩の例などは酷いもので八公ニ民と伝わっている)まであったという。これでは、入会地や隠し田、新田の開墾などがなければとても農民は生きてはいけない。厳しく取り立てるための検地などを行おうとすれば、たちまち一揆が勃発するのはそのためだ。

 一方で、「旗本領(はたもとりょう)」や天領(てんりょう;幕府将軍家の直轄地)は到って穏やかなもの。三公七民などが一般的であり、多くても四公六民といった具合。この社域は旗本領であるから地域全体にゆとりがあったのだろうし、周辺に比べて人々の暮らしは豊かであったに違いない。社殿の改修や連綿と続く行事を守るためには、多くの寄進がなければ神社そのものと共に次第に神事は廃れてしまう。そうした諸々を支えるに充分な潤いのある農民の生活があったのだろうと思われる。

 以前、自転車での白井宿へのポタリング行のところでも書いたが、この神社が所在する土地が旗本領であったことが幸いしたのだと思う。

 その統治の歴史のおかげで、古い歴史を持つ神社とその神社にまつわる神事が、絶える事なく現代まで連綿と受け継がれる結果となったと考えられるからだ。これが、藩領であったら、とうに神社の神事は廃れてしまっていたことだろうと思われる。

待機する馬と騎手 待機する射手と馬
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 今の農村はどこも疲弊している。昭和の近代化の波に押され、さらにそれが平成になって一層加速したためだ。人々の流出で農事に就く後継者も次第に減って、村の様相はどんどん変化しているからだ。そうした時代背景の中で、一度は絶えてしまった伝統行事が無事に復活された。

 その実現の事では勿論、地域に根付いた住民の方々の並々ならぬ熱意があったからだろう。そこに古くから住まう人達の、復活に向けてのひたむきな努力の賜物だろうと思うのだ。

  私達の幸せは、その努力が実って無事に昔ながらの神事が復興し、それを身近に、しかも存分に楽しめるというところにあると思う。


 だから、どうせその神事を見物するのなら、訪れようとしている古くから守られた神社の来歴や由緒などを充分に調べて、その上で多くの努力の結晶として開催される素晴らしい行事を楽しもう、と考えたのだ。

獅子舞の様子 実は激しい気性の馬
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この地を統治していた旗本の鞍 保存された鞍


この地を統治していた
旗本所蔵の鞍

 土師(はじ)神社の境内は、少し辺りからは盛り上がったような、ちょっとした高台風の場所にあった。

 やがては烏川(からすがわ)と共に利根川へと合流する「神流川(かんながわ)」が、まだその素振りも見せずに単独で流れている広い河川敷から程近い場所にあるので、古くは流れを抑えるために作られた流域鎮撫のための守り神(たとえば洪水を防ぐための竜神さまとか、豊かに田へ水を供給する水神さまなど)を祭るといった内容だったのかもしれない。

 その社域はちょうど集落の入り口と思しい場所にあって、小川に囲まれて鬱蒼とした木立を備えている。

 村の入り口にある鎮守様といった雰囲気が溢れていて、一昔前の農村部ではよく見かけた様子なのだった。

神社の参道の様子 流鏑馬の開始が待たれる境内参道の様子。


参道は長く、200mほどの距離がある。
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獅子舞の人達 獅子舞の人たち

 私達は河川敷の土手にあるサイクリングロードを走って来て、そこから続く曲がりくねった村内への街道筋といった感じの畦道のような細い道を進んで、その木立を目指したのだった。

 もう、その木立の周辺には多くの人波みがあって、地域の人達がどんどん神社(裏手の茂み)へと向かっていく。境内の裏手を流れる小川の脇のちょっとした空き地に自転車を停めて、私達もその人波みに混じって木立を抜けて秋晴れの中を神社の境内へ向かった。

獅子舞 獅子舞は、境内の神楽殿前で行われる。


この写真は、流鏑馬が行われる前、
参道を練って行われた 行進の様子。
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地元代表

地元代表の射手の方
年季抜群の地元代表の射手

<土師(はじ)神社 の縁起>

 土師(はじ)神社は、全国的には珍しい神社である。

 そのご神体は先にも書いたとおり「野見宿禰(のみ の くすね)」となっている。


 ご神体の宿禰は日本書紀に登場する英傑なので、神社の縁起としてはかなりの古さを持っている。しかし、その英傑を祭ったこの神社の建立の時期に関しては、もうひとつ定かでは無いらしい。神話的な出雲の英雄である宿禰(くすね)を祭った古い来歴を持っているはずだが、古文書の類は少しも残っていないのだった。しかし、延喜式などによれば「正四位上として格つけられた神社」として記録に残っている。となれば勿論、古い歴史を持っているに違いない。


 この神社の伝統行事として、毎年秋の日に「流鏑馬(やぶさめ)」が奉納され、五穀豊穣や無病息災を含めた人々の幸せが祈願されている。

 地域の人達によって奉納のための獅子舞が行われて、一連の神事が始まる。獅子舞といっても、元日に家を回る江戸の風物を思わせる縁起のよい獅子舞(前後2人で組をなした良く見知ったお獅子の被り物での踊り)とはまた少し違っていて、その装束は古い伝統を偲ばせるものだ。
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射手 装束を固めた凛々しい射手

 それに続いて、200mほどの参道を「花馬(はなうま)」という引き馬が歩く。先に舞っていた獅子舞の人達、その後ろで演奏していたお囃子やお神楽連の人達など、多くの地域の人達と共に列をなして、地域の若衆の手で披露されるものだ。

 背中に多くの花飾りを付けているが、これらは魔除けと幸運のシンボルだろう。

 神社の関係者や獅子舞の舞手、花馬と村内の衆、それに流鏑馬の馬や射手などが続いてパレードを行う。

 神社を一旦後にして、その外に出て辺りを行進し、改めて神社へ戻ってくる。鳥居を潜って行列が続き、長い参道にもう一度戻ってくる。

 厳かで静かな、人々の練り歩く様は、本当に落ち着いた雰囲気が溢れている。その静かな様子を見つめていると、とてもでは無いが、これから行われる流鏑馬の激しい躍動と興奮を想像するのは難しい。

花馬の様子 花馬の様子
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 さて、乗馬クラブなどはどの土地にもあろうし、それ以外でも草競馬などが賑やかに行われる土地柄もあるだろう。しかし流鏑馬に関しては、乗馬クラブごときではとても手には負えまい。射手の技や乗馬の鍛錬などは、特別な要素を多く持ったものだろうと思う。

 当然の結果として、全国でも流鏑馬の伝統(流義)を今に伝える人々の数はきわめて少ないらしい。

 この神事で披露された技の持ち主達は、栃木の日光を本拠とする集団の方たちだという。その地で馬を飼育し、流鏑馬の技を練っているのだということだ。

 各地に遠征していることでも著名な、日光古式馬術保存会(日光鏑矢会)という集団だ。

 日光といえば那須にもほど近い。

 そのあたりを本領とする鎌倉御家人の「那須与一(なす の よいち)」が弓の名人としてひときわ有名で、彼の強弓の技は比類ないものだったという。揺れる船上にある、源氏に敵対する平家の姫が掲げた扇を見事遠方から射抜いたという伝説は誰もが知っているものと思う。

最初の一番(地元代表の人)は走らない 見事に的を射止める
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 平安時代や鎌倉時代といった比較的 太平なうちに明け暮れた、平氏や源氏の御世であったその昔。

 そこで繰り広げられたいくつかの争いは、決して総力戦や消耗戦などではなかった。

 その戦いは由緒正しい手順によって運ばれ、様式化された儀式をまず行ったものだった。

 まず、大きな合戦においては、始めに「言霊(ことだま)」による応酬を行う。武家の心得としてこうした言葉の応酬が出来なければ話にならなかったらしい。今で言えば、ディベートの術であり、これに研鑽を積んだのだということだ。

 そこでの戦いの内容は、といえば・・。

 自らの家の出自を語り、その技や今までの戦課などを誇り、今回の対戦にいたった道理を滔々と説く、というものだ。

疾駆する様子 目を見張る速度で
疾駆していく。


これを200mの間で
2回、

見事に的を射る。

 その後、集団内の技自慢のものが出て、その優れた武芸の技を披露する。

 戦いを目前にした味方への鼓舞である事は勿論だが、戦う前に相手を萎縮させるという役割を持つ。それはこれから始まる戦における、敵方の意を挫くための鋭い牽制という意味を持っている。

 また、そうした儀式のようなやりとりのなかには、「笛の上手」による演奏もあるし、騎馬を巧みに操って水を渡るといった内容のものも伝わっている。

 大分時代は下るが、信長を滅ぼした明智光秀の一族であり山崎の合戦での光秀を救援するため戦いに先駆けて琵琶湖を一騎で見事に渡ったという、「左馬助の湖水渡り」として名高い「明智秀光(あけち ひでみつ)」の例などもあるし、古くから合戦に先駆けて行われたという豪腕の一騎同士による槍合わせなどの例もある。

 先の弥一が遠く離れた船上にある小さな扇を見事に射抜いた事で、平家を追う源氏の集団が持つ弓の腕を広く披露したことなども、余興ではなくそういった意味での、立派な戦いの一部となるものだったのだ。

 鎌倉時代後期の蒙古来襲(もうこ らいしゅう)までの戦いは、いうまでもなくすべて国内戦だ。同じ民族、さらに多くは同族同士が争ったわけで、味方の犠牲を最小限に留め、双方の負傷や死傷者を最小限とするための先人の工夫だったと思う。

 しかし、そうした卓抜した技の披露の伝統も、ついに室町時代の後半で終わる。足利尊氏から始まった幕府の権威が失墜し、ついに下克上の戦国時代が到来すると、こうした名乗り合いや技比べによる前哨戦はなくなって、戦いの様相は一変していく。
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射た後はゆっくりと戻ってくる ざくっと的を割る

 さて、「流鏑馬(やぶさめ)」とは、疾駆する騎馬上から小さな的を矢で射抜くというもの。

 呪力をもった鏑矢(かぶらや;二股に先が分かれていて、射ると音を発するもの)を射ることで、神意を伺い、吉凶を占うために行われる。

 両腕を弓矢の操作でとられるので、巧みな乗馬の技術が必要なのは改めて言うまでも無い。

 さらに、小さな的を正確に射抜くためには巧みな弓の腕も必要となる。早足の馬に騎乗してバランスを保つのは難しく、まして細い参道上を行く馬は、早足なんてものではなくて、完全な全力疾走の状態なのだ。

 眼前に迫りくる的は、瞬く間にそこに現れる。しかも早い速度で非常に小さく感じるはずだ。疾駆する馬上からの騎射の技が、いかに凄いことかを想像するとゾッとしてしまう。
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射た後にゆっくりと戻ってくる 狩衣 :装束の様子

 鎌倉時代の始め、幕府開祖の「源 頼朝(みなもと よりとも)」が源氏の緒家に伝わる「武術」を取りまとめた。

 その事を「武芸故実の統合」と呼ぶのだが、各地の名高い武士の技を調べ、そうした腕自慢を集めてその家に伝わる武術(一家相伝として代々、その家の当主に受け継がれる)の聞き取りを行ったのだ。

 弓や乗馬など、実践的な武芸の数々。各地に散らばる源氏の一族や幕府御家人が鎌倉に衆参し、その技を披露した。そうした内容は中公新書の「武家の棟梁の条件」に詳しいが、以下はそこから得た知識。

華麗な装束でまとめる 馬は繰り返す事に入れ込んでくる

疾駆して的を射る。

射手の緊張は高まっているだろうが、
次第に馬の興奮も高くなる。

極度の「入れ込み」具合で、
こうなっては自在に扱うのも本当に難しい状態だ。
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 1182年の鎌倉の「由比ガ浜(ゆいがはま)」で行われた「牛追物(うしおうもの)」で下河辺・榛谷・和田・三浦・愛甲など弓の上手達による騎射の技が披露された。

 その後、1186年の西行からの兵法の聞き取りなど、盛んに執り行われたのだ。西行は放浪の法師だが、出家前は北面の武士。天皇のいる紫宸殿を守護する武家の嫡流で、藤原秀郷流の嫡家相伝者だ。

 私が中学生だった頃の定説は1192年開府となっていた。「イイクニ作ろう鎌倉幕府」としてその年号を記憶したのだが、35年以上も前のその説はいまでは修正されている。1185年が実際の開府の年だというのが、定説だ。

 そう考えると、頼朝は幕府設立の初期から計画的に、公務の一環として積極的に武芸・作法の統合を行い始めたということになる。

あっという間に行き過ぎる 信じられないような
加速度合い。

あっという間に
目の前を走りすぎる。
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この馬はまだ静かな状態 疾走を始める

 また、1187年には鶴ヶ丘八幡宮での放生会(ほうじょうえ)で流鏑馬が行われ諏訪家がその冴えた技を見せてたという。

 その後、武術の集大成として武田や海野や望月や藤沢といった信濃武士、小山や結城や那須などの源氏一族、小笠原・氏家・曽我・宇佐美などの幕府の有力御家人など、東国を代表する武家を鎌倉へ呼び集めて評議し、流鏑馬の技を次代に伝えた。

 秀郷流の故事など後に武家作法の基本となるもの、信濃諏訪神社(一の宮)に平安の昔から伝わる流鏑馬の作法、さらに各家に伝わる京都城南流の流鏑馬の作法などをそこでとりまとめ、その後の流鏑馬の作法を確立させたのだった。

見事な疾走 準備の体制を整える間もなく興奮した馬は駆け始める。


そのスピードたるや、
もう恐ろしいばかり。
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無事に騎射を終える 気性が荒い

輪のりをして必死に気持ちを静めようとするが、
興奮した馬は容易に静まらない。

 狩衣に菅笠といった服装(狩における武家の正式な装束)、弓の具合。そして的について(その大きさや数、的それぞれの距離、さらに走路と的までの位置)などの多くの事柄が、先に紹介した頼朝による評定のおかげで今に伝わり、大切に守られている訳だ。

 武士の嗜みから昇華されて、その後ついには神事となったが、そうした事柄がすべて鎌倉初期の評議で決められたのだった。

 勿論、鎌倉以降、室町幕府や織田・豊臣の治世、徳川幕府の統治まで、歴史としては多くの武家政権による長い歳月を経ているが、流鏑馬は神事となって伝えられているので、こうした決まり事を身勝手に曲げる湖とは許されなかったのだと思う。今から820年以上の昔から、連綿と同じ姿で続いているはずだ。

 その伝統は幾人もの担い手を経て、引き継がれて来たものなのだ。私達がそれを目のあたりにして、感動の気持ちが起こらないはずが無い。
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この日一番の加速を示す 輪乗りの状態から
突然 疾駆し始める。

確かな技術を持っていても、高まったこの馬の興奮を鎮めることは難しいようだ。

 流鏑馬と同じように神社を舞台にした奉納として行われる神事に、相撲がある。

 土師神社の祭神は相撲の開祖として伝わる力自慢の人でもあるので、実はこの神社の境内には大層立派な土俵も設えられている。このため辺鄙な場所ともいえるこの土地へ、現役の有名な幕内力士でさえも、この神社へ遠路を越えて、わざわざ参拝に来るのだという。歴史を秘めた土俵が境内に残っている。

突入を防いで疾駆する 一旦バランスを崩して
あわや客席へ突入か、と思われたが、
見事に立て直して疾駆に移る。

しかし、最初の的に向かって、弓を番えることが出来ない。
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さらに走る 騎射を終える

 今回の神事は神楽殿の前の境内で行われた「獅子舞」や、参道を舞台にした「流鏑馬」とそれに伴った花馬による「引き馬」だけで、相撲までは行われなかった。

 さて、境内には神楽用の舞台もある。だからここでは、他にもいろいろな神事が行われているのかもしれない。


 ところで、この神社の流鏑馬が行事として復活して、今年で十年ほど経つのだという。

 一旦は受け継がれていた伝統が途絶えてしまったので、地域にはその優美な技は根付いていないのだろうが、すぐ目前に見た疾駆する馬の躍動は素晴らしい迫力に溢れていた。

 私たちが見る馬といえば高原で草などを食んでいる穏やかな様子ばかりなのだが、走り始める前に、ひどく入れ込んで暴れる馬の様子からは、その静かさは微塵も無い。一走ごとに興奮が高まっていって、徐々に本来の激しい性格を露にしてくる。
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行司さんのような世話人の装束 花馬を準備する

 それが逞しい四本の足を持った凶暴な獣なのだという事を、改めて思い知らされた。

 途中から、疾駆を始める参道の最前部へ移動したのだが、何度か、激しさを次第に増してくる馬と視線があった。視界に入る部分で声を出さないように、と相撲の行司風に身を固めた神官の世話役から声が掛かる。観客の声援やどよめき、子供達の高い声に、気を昂ぶらせてしまうのだという。

 荒れる馬の様子は、まるでピカソの描いた「ゲルニカ」の絵画で現れた馬のような雰囲気を持っている。

 敵意という事ではなかろうが、凶暴な激しさが次第に溢れ出して来るのだった。走るごとに盛んな歓声を浴びる馬の興奮は高まってきて、遂には馬上にある射手の走り始めるための準備が整わないまま、疾駆を開始し始めるのだった。

花馬も走り出す 花馬
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走り終えて静まる馬達 一息を入れる射手の人達

 さて、見事に射抜かれた的なのだが、流鏑馬の終了時、丁寧に拾い集められて改めて小分けにされて、この神社のお守りとなった。

 行事が終わると、そのアナウンスがあって販売されていたのだった。かなりの人気があって、すぐに売切れてしまったようだ。見事な技で射抜かれた的、その矢が神通力を秘めた鏑矢であるから、多くの魔や諸悪を打ち砕く強い力がこもったもの、それを身近に置いて神に通じる強い力にあやかろう、ということか。

 いかにも、流鏑馬というもの、繰り広げられた様子は圧倒的で力強い。一度は実際に見て、体験すべき、一流の神事であった。そうして振り返ってみると、古都 鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮の境内で行われる行事などは、さらに素敵なものなのかもしれない。
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本殿の様子 拝殿の木組み細工の様子

 集まる見物客の規模の程は比較とはならないだろうが、この神社があるのは江戸時代を通じて旗本領であった土地だ。

 都市化はされずに今ではすっかり郊外の地にあるわけだが、この地で大切に守り続けられて来た小さな神社を舞台としている掛替えの無い行事であることには違いない。

 そうだからこそ滲み出る温かみがあり、湧き出すその身近さは、代えがたい豊かな味が溢れている。だからこそ滲み出る温かみがあり、湧き出すその身近さは、代えがたい豊かな味が溢れている。
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虹鱒 銘酒 その名も流鏑馬

<本日の旨い物>

 さて、久しぶりに今日の「旨い物」をひとつ紹介しておこうか。

 藤岡は特にこれといった名物が無い。いや失礼、私が知らないだけだろうが・・・。

 町を外れる間際のあたりだったと思うが、正統派の美味しい「ソースかつ重」を食べさせてくれるのお店があった。浦和や蕨、川越などで見かける古いうなぎ家さんのような佇まい。料亭風の洒落たつくりの店で、値段もそれなりだったが記憶がある。藤岡新町のガス企業団は当時の私の担当だったのでよく仕事で出かけたのだが、そのたびに店に立ち寄よってその美味を良く楽しんだのは、かれこれもう25年以上も前の事。

 中心街の通り沿いにあって古い神社が店の近くにあった、懐かしい味を提供してくれた温かい店は、今も残っているものかどうか。


 そういったわけで、今日の旨い物は食べ物ではなく、お酒。

 日本酒党の間では人気の高い吟醸酒などではなく、いたって普通のものだが、この神社の神事にちなんだ地酒という事だ。勇壮だった流鏑馬に想いを馳せて、腰をすえてじっくりとそのお酒のうまみを味わおう。

 肴としてはいくつか用意したが、ここは季節感のある川魚をひとつ。今回の流鏑馬行に同行した友人Hからの嬉しい差し入れ、渓流に泳ぐ「虹鱒(にじます)」だ。

 パーマーク(体側の斑紋)が、まるで「あまご」や「岩魚(いわな)」の様に美しい。ひょっとして、これはイワナではないか?とも思ったが、どうだろうか。

 さて、料理。皮をぱリっと焼いてその独特の風味を楽しむのがやはり一番だろうか。活きの良いのをさばいてすぐに塩焼きにする。

 見事に焼けたその焼き具合もよかったが、頬張ってみると、淡白なその身から秋口の幸福が溢れ出してきた。

虹鱒 パーマーク(体側の斑紋)が実に見事。

これほどきれいな模様の虹鱒も珍しい。
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