小さな旅の空の下 のインデックスページへもどる小さな旅の空の下 のページ   Top Pageへ移動 Top Pageへ移動          このページを閉じる 閉じる

2013.04.09
徳川家発祥の地を散策する 世良田 (せらだ ; 太田市 世良田)

アクセス;
 東武伊勢崎線 ― 世良田(せらだ)駅

カメラ;
 RICOH CAPLIO GX−100 24mm F2.4 〜 72mm F4.4
 (画像添付時に約30%程度に圧縮)

 「世良田(せらだ)」の町は、新田庄(にったのしょう)を構成する郷のひとつであった「世良田郷」がその基になっている土地だ。

 新田庄は平安後期の1157年からその歴史が始まるのだが、世良田の地は荘園化が成された初期の19郷の内のひとつである。

 1170年までの僅かな間に新田庄は19郷から56郷へと広がりをみせ、大いに発展を遂げるのだが、庄を構成する多くの郷のなかでも、世良田の地は言わば中心的な郷といえようか。新田氏宗家の主が暮らした郷という訳ではなかったが、極めて有力な支族が暮らしていた土地であるからだ。

 新田家の祖、「源義重(みなもと の よししげ)」によって19郷に及ぶ農地が「空閑地(こかんち)」から開発されて、「藤原忠雅(ふじわら ただまさ;後に太政大臣となる人物;当時の有力公卿)」を「領家(りょうけ)」として荘園化が成された。義重は1157年に荘園の「下司職(げししき)」に任命され新田庄の領主の地位を確定するが、以来「新田」を姓として名乗り、一族はそれを苗字としていく。新田家の歴史はその時から始まるのであった。

 その後、義重は周辺の開発を進めて勢力を大きく伸ばしていくが、四男の「義季(よしすえ)」に1168年、女塚郷、押切郷、世良田郷、得川郷、三ツ木郷、上平塚郷、下平塚郷からなる南東部の各郷を譲リ渡す。

 義季はその相続を期に、新田宗家から別家を起し、世良田郷に腰を据えて本拠地とする。父であり、新田一族の家祖となる義重は自らの宗家の土地も息子の「義兼(よしかね)」へ譲ってついに引退し、義季の元に隠棲したのだった。

 義重の四男(嫡男の義兼とは同母となる)である義季が、宗家より世良田郷を相続した事から始まる世良田氏の一族は、新田一門として新田庄内の世良田郷を拠点として、その地で勢力を張った一族だった。

 (ところで、これは余談だが、皇后美智子妃の実家である館林の正田(しょうだ)家は、この新田義季の末である。)

 世良田郷の隣には「得川(とくがわ)」という郷があった。後に徳川家の発祥の地とされ、室町期の荒廃を経た後の江戸時代、幕府の篤い保護に置かれて発展した土地だ。そこにも世良田と同様に多くの史跡・旧跡が残っているので、そのあたりを紹介したいと思っている。


 世良田郷や得川郷の歴史や、平安時代後期から末期、鎌倉時代(源氏将軍時代、北条執権時代)、室町時代、豊織時代(織田、豊臣の時代)の時代背景や制度などの紹介も含めて、もう少し話しを掘り下げつつ、このふたつの郷を中心に廻ってみたいと思う。

新田庄遺跡 反町館

今は「照明寺」として親しまれている新田氏の「反町館」跡。
写真は、堀を越えて館方向を望んだ様子。
国指定の「新田庄遺跡」のひとつ、

新田氏の居館跡だ。

「反町館(そりまちやかた)跡」の様子。

四囲を取り巻く堀や土塁が今に残っている。
しかし、居館は勿論、その遺構などは今に残ってはいない。

構造物など一切が今に留められていないのは、ここが足利一族によって殲滅された場所だからだ。

反町館は義貞(よしさだ)時代の新田氏宗家の本営であった。
ページTopへ移動
 京都の室町において「足利尊氏(あしかが たかうじ)」によって開幕されてから始まる室町時代(1338年〜1573年の240年間)、鎌倉中期から勢いを失い続けていた新田一族の状況は、さらに見る影も無くなってしまい、大いに繁栄していた「新田庄(にったのしょう)」も宗家や一族と共にすっかりと衰退してしまった。


 武家政権として安定していたかに思われた室町時代も中期以降になると戦乱が続き、中央では大きな動きが始まっていた。尊氏の始めた室町幕府が14代の将軍を継いだ後、中世の世界観の殻を打ち破るような多くの発想を持った英雄「織田信長(おだ のぶなが)」が、まるで彗星が現れる様に忽然と歴史上に登場してきたからだ。

 尾張領に向かって怒涛のように侵攻してくる今川勢を見事に打ち破り、尾張国内を統一し、更に美濃を攻略して、信長は戦国大名の一人として着実に勢力を伸ばしていった。当主である「今川義元(いまがわ よしもと)」を桶狭間(おけはざま)で混乱のうちに討たれてしまった今川家は、足利将軍家の当主が途絶えた際に将軍の継承者を出せる格式を持った家だった。清和源氏 義家流の流れを汲んでいる名家で新田氏や足利氏の同族であり室町幕府内でも重きを置いていた氏族だ。義元は高い官位を持つ貴族であって、駿河国の太守であった。

 一方でその優勢な一大勢力を討ち滅ぼした信長側を見てみよう。室町幕府内での役職を持たず朝廷からの官位も無い(「上総介」は自称)弱小領主に過ぎない存在だった信長だが、強大な駿河領主であった今川家を破った余勢を駆って、見事に尾張の統一を成し遂げる。その機動力に物を言わせて、放浪の途上にあった「足利義昭(よしあき)」を奉戴して都に登り、見事に彼を第15代目の将軍に就けた戦国ならではの「出来星」大名といえようか。

 その後、自らの制御下に将軍を置いて室町幕府を形骸化させて、尾張守護の座のみならず、さらに近畿一帯に及ぶ大きな実権を手中にした。

 信長の功績によって足利将軍家は都に復活したが、戦国の世が終焉して足利将軍が統治を行うという<室町幕府による秩序>が回復したわけではなかった。復興の多くは将軍や幕府組織によってではなく、「天下布武」を標榜する信長の実力(初めて兵農分離した専任の軍団)と資金力(津島港からの港湾収益など)を持って成されたものであった。

 それが要因となって義昭は信長との対立をしはじめ、次第に敵対関係ともいえる状態となっていく。信長包囲網を影で操りつつ、さらに対立を深めていった。

 しかし、姉川での浅井・朝倉連合軍の壊滅、それに続く石山本願寺の敗退、さらに上洛の期待を掛けた武田勢のあっけない敗北と倒潰、北陸・魚津の地で柴田勢(織田家 北国管領)によって釘付けとなった上杉勢の動揺、秀吉(織田家 鎮西軍団長 中国・山陰・山陽の攻略責任者)による毛利勢の膠着などで、包囲の企てはことごとく失敗し、遂に援軍を失って都から追放されることになってしまう。長く続いた室町幕府がそれで事実上は終焉し、織田信長による新しい治世が始まったのだった。

 実際には、義昭は毛利領に逃れて「鞆の浦(とものうら)」に将軍御所を構えて幕府を存続させており、なおも信長の勢力に対抗を続けていたのであったが、将軍から送られる密書に蜂起する武家衆はどこにも無く、まるでその効果は現れなかった。


 中世の世に現れた天才的な英雄、信長が打ち出した施政をざっと眺めてみよう。流通都市の創出(「楽市楽座」の制定などによる商業及び流通の促進、永楽銭に代表される貨幣経済の創出)、石垣を供えた天守という平地城塞の構築とそれを核に据えた城下町の形成、門跡や貴族層など中世的な既存権威の打破、徹底した能力主義の導入など、封土に縛られない機動軍団の創生など、実に後世から見ても驚くべき画期的な幾つもの取り組みを行った。

 しかしそれらは、中世的な概念を持つ層から見るとあまりに先進的でありすぎたため、重用して育成して来た家臣からでさえ反動・反発を買う結果となった。朝廷・「近衛前久;このえ さきひさ」に代表される藤原氏の一族や幕府・都落ちしていた将軍の義昭やその側近衆と結んで謀反を起した「明智光秀(あけち みつひで)」によって全国統一の道半ば(畿内の統一と中央集権の確立までが達成された事跡だった)でその偉業を絶たれ、非業の最期を燃え盛る本能寺で迎える結果を招いてしまう。


 封土に縛られない機動軍団などが意味していたのは、農閑期だけの行動であった武士達の部隊を兵農分離した専任軍化したというだけではなかった。その軍団長となる大将達も領土に縛られるものではないという方向性を信長は打ち出したのだ。信長配下の軍団中の最大戦力を機動的に運用し、しかも戦況に応じて統合・離散しつつ各所に迅速に投入する、という大胆な運用は他者には無い信長独自の画期的な着想だった。残念ながら、このことはあまりに先進的すぎて光秀ほどの怜悧な頭脳を持ってしても理解し得なかったのだ。だから「近江領、丹波領を召し上げ、今後は毛利領の切取り次第」と伝令された信長の真意―前述の運用転換の通達であるという事―がまるで読めず、封建的な領地を失うという恐怖のあまりからか、あのような発作的な挙動に出てしまったといえよう。

 冷静に考えれば、巨大な軍団の維持も、一族・郎党の暮らしも「俸給」や「禄米」によって成され得るのだが、農地で収穫される米収益が経済的な源泉という感覚や領地的な「封土」に縛られた中世の領主層が持っていた伝統的な意識が頭を占め、土地と切り離された貨幣経済での近世的な生活が光秀には理解できなかったのだ。米を経済の主軸に据えた重農主義で国家を経営し、流通経済(重商主義)をあまり考えなかった家康でさえ、膨大な員数となった家臣団の維持(旗本・御家人の保持)には同じ様に「知行取り」ではなく「禄米取り」の考えを用いたのだった。それが近世という時代感覚に相応しい、財政運用としての不可欠な着想であろう。

新田内 世良田郷入り口 新田内 世良田郷の入り口。

現、太田市世良田の交差点。
(旧「尾島町」は平成の大合併で
 太田市に編入された。)


県立の立派な歴史博物館があり、
新田関連の歴史資料を収蔵している。

しかしその施設は、世良田「東照宮」の裏にあって、表通りからだと少し判りずらいかも知れない。

 室町幕府の残存勢力や朝廷を取り巻く公家衆など、前時代の権威を担い、その権益を曳く反織田の勢力は光秀によって起された謀反によってそのままそこで温存され、後の豊臣氏の政権運営に深い影を落とす。

 信長譲りの奇抜な発想と機動力を発揮して全国を統一し、絢爛さを誇って信長に倣った武士による「貴族政治」を始めた秀吉であったが、それも瞬く間に幕を引くことに成る。政権樹立が成った際の自らの年齢、深い忠誠心を持った譜代家臣団を持っていない脆弱な出自、主家を支える一門衆の無い層の薄さ、さらには直系の有能な後継者の無い事が、秀吉の起した新政権に決定的に災いしたのだった。

 農本主義から重商主義的な色合いを秘めていた「豊織時代(織田・豊臣の政権時代)」。世界史の上での「大航海時代」に相応しい対応力と発展性をその時代の日本は持っていたと私は考えるのだが、両政権は呆気ないほどの僅かな期間で幕切れとなってしまった。

 豊織時代の絢爛や激動を経て後、まるで色彩の異なる江戸期に入ったのは、やはり時代のうねりによる反動ということだろうか。


 そこで新田庄に眼を転ずれば、その時になって初めて室町以降から続く長い<暗闇の時代>が漸く過ぎ去ったといえようか。といっても56郷から成る新田荘の全域ではないのだが、荘園の南東部の二つの郷の様相に変化が訪れることになる。

 しかしそれは、勿論、往時の新田一族による荘園としての復活では無かった。何故かと言えば、すでに全国に散在していた多くの荘園 −門跡や貴族が土地の名義上の所有者となっている開拓領主の私有農地− は、全国統一を成した秀吉によって終焉を見ていたためである。

 全国統一を成し遂げ、権力の座に着いた秀吉の行った「太閤検地(たいこうけんち)」によって租税地は新たな領主の下に管理される形となった。門跡や貴族による荘園の所有名義は消え去って私有農地は解体され、地元勢力によって温存されてきた荘園(制度に保護された開拓領主や室町幕府の任命した国主や地頭)は雨散霧消してしまっていたのだった・・・。
ページTopへ移動
新田内 得川郷 新田庄 得川郷の歴史地図。

現、太田市 徳川地区。

 室町時代の後半になって北条三代(「後北条家」)の初代、「伊勢新九郎 長氏(いせ しんくろう ながうじ);北条早雲」から始まる戦国大名の台頭、信長などの新興武家勢力(戦国大名)の登場によって、荘園を領有していた旧来の領主層の多く(郡司や地頭、国主である守護や守護代を含めて)は戦国の世の「下克上(げこくじょう)」に翻弄されてその淘汰を切り抜けられずにいた。

 自ら開拓した土地の領有権を失い、室町時代の後期に入ると、彼ら農地所有に立脚した権勢(農本主義的な領主権威や封土統治に対する権限)もすっかりと勢いを失ってしまった。そうした多くの例に漏れず、平安時代の後期に発展し繁栄を誇った新田庄は鎌倉時代に入るとにわかに翳りをみせ始め、さらに室町時代に入るとすっかり精彩を欠くことに成る。

 かつて繁栄を誇った新田庄や庄内の有力な郷はすっかりと廃れ果ててしまい、没落した領主一族と共に忘却の彼方にあった。

 しかし江戸時代への転換の時期になると、その土地が改めてにわかに脚光を浴びることになる。旧新田庄内の南東部に開かれたその土地こそが、「松平家康(まつだいら いえやす)」が父祖の地とした、旧「新田庄」内の「世良田(せらだ)」郷や「得川(とくがわ)」郷であった。

 江戸幕府の開始の直前になって「徳川」の姓を名乗り始める松平家が、「世良田や得川(とくがわ)こそが家祖発祥の地であり、我らは世良田義季の末裔であり、清和源氏の一族である」としたためだった。

 江戸幕府の開府当時は、秀吉の創り上げた貴族政権の残存勢力がまだ大阪にいて政権を担っていた。その勢力を相手にして、天下を二分した「関が原の合戦」で豊臣家を支えた残存勢力(秀吉子飼いの官僚や武将である石田三成や大谷吉継、有力な同盟者であった安国寺恵慶やキリシタン大名の小西行長、騎下の大名だった真田昌幸など)を打ち滅ぼした家康は、その後、豊臣政権の五大老であった毛利家や上杉家などの勢力を削いで征夷大将軍に補任されて江戸の地に幕府を開くに到る。

 秀吉による天下統一の最終戦となった小田原の北条攻めの恩賞として、秀吉によって与えられて駿河から転封した関八州の地。その領土統治の中心に据えたのが、江戸湾に面した低湿地帯であった江戸だった。その未開の土地を新たな一族の根拠地として開発を始めた家康は、古都でもあった鎌倉(関東管領の政務地であり、室町幕府の出先機関が置かれた関東統治の政治的な中心となる土地)や北条氏の開発によって大きく発展していた小田原や、武蔵国府が置かれ古くから開けていた府中などではなく、まるで開発途上にあった江戸の地を新たな政権の基盤地と定め、千代田の地に築城し、その城を中心にして城下の土木整備を始めるのだった。
ページTopへ移動
義季夫妻の墓所跡に建つ宝塔 新田義重(にった よししげ; 源義重)夫妻の墓所とされる一廓に建つ宝塔。

徳川地区(得川郷の中心)の東照宮裏手の畑の只中にごくひっそりと建っていた。

 将軍職拝命の条件である源氏の血統を支えた世良田・得川氏、その本貫となる根拠であった世良田の地は、徳川家が世襲した江戸幕府の歴代将軍家から篤い庇護を受けた。

 特別な土地になったために、そこに暮らす領民はまたとない多くの優遇を受けることになったのだ。例えば、得川郷は500石の朱印地を与えられて永代不税の地とされたし、世良田郷の農民も神社・仏閣の管理を名目に賦役からは除外されたのだった。そのように「租」(税)の徴収や「庸」(賦役)などの面に置いて行き届いた配慮がされることになったのだ。

 しかもそうした手当てが成された江戸初期の後、四代将軍以降の治世になっても、豊穣なその地域に藩が設置される事は無く、江戸期を通じて幕府の直轄領であった。そのため、他の天領や旗本領に見られるように、世良田郷や得川郷はそこに暮らす農民にとって実に安定していた暮らしゆきがたて易い、有難い土地柄であったといえよう。

 そこに暮らす農民や旧領主層の家(滅び去った新田の末裔)は幕府による特典に保護され、藩(幕府により任命された領主)による過酷な収奪に遭う事が一切無かったのだ。そのため、江戸期を通して世良田郷や得川郷は実に裕福な里であったようだ。

 今回は、歴史のページを紐解きながら、中世だけでなくそうした江戸初期に造られた遺構をも巡る予定だ。ゆっくりと郷の中を訪ね歩いてみれば判ると思うのだが、郷の家並みからは実に穏やかなゆったりとした雰囲気が溢れている事が感じられるはずだ。

 領内には目立つ戦国期の城址などは皆無なのだが、神社にも寺院も中世からの遺構であり、その豊かな味わいが色濃く残っている。歴史散策するには楽しい場所のひとつだろうと思う。
ページTopへ移動
得川・世良田氏の祖、新田義季の館跡 江戸時代初期の建立と考えられている。

石には天保年間の刻文があり、
当時の修復跡を物語っているものだという。




とても新田庄19郷を開発し、荘園化を果たした領主の慰霊のためのものとは思えない。

その質素過ぎる様子に、
正直少し面食らってしまったほどだ。

 荘園時代の趨勢を誇った時期から引き継がれずに荒廃してしまった神社や寺院・仏閣など、あるいはそこにあるべき門跡(神主や住職や僧侶)などは江戸幕府によって次々に再興された。

 幕府からの朱印地の交付が行われたためもあって、氏子や檀家などを構成する領民層が復活し、また荒れた建造物などの多くも、幕府による保護施政のために江戸初期に再興されたのだ。世良田には規模の有る神社や寺院が殊に多いのだが、鎌倉後期や室町期に一度は途絶えてしまった法灯も、江戸初期からの再興策によって復帰し、その多くが現存しいるのは嬉しいことだ。

 勿論、再興されるだけではなく、江戸初期に建造・移設された施設(建物)も多い。


 新田庄は「源義重(みなもと の よししげ)」が勢力を傾けて一心に開発した「荘園(しょうえん)」であり、荘園を構成する各郷には新田家の一門(息子達)を配して定着させた。

 郷を統治するために彼らを据え、これを別家として強固な支族関係を核とした支配体制を作り上げたところだった。

 別家と書いたのは、郷に定着した子孫達は通常は「新田」の氏を名乗らずに、各郷の名前をその名乗りの姓としてもちいたからだ。
 (しかし正式な場面となると、彼らはみな新田氏であり、正式文書などでは源氏の姓である「源(みなもと)」を用いた。)
ページTopへ移動
得川東照宮

得川(とくがわ)氏・世良田(せらだ)氏の祖、
新田義季(にった よしすえ)の館跡。今は東照宮がひっそりと建っている。
現 「徳川地区」。

新田庄内の得川郷は、
新田家を名乗り始めた当主、
義重(よししげ)の四男であった義季(よしすえ)が相続した土地だった。


同時に複数の郷を宗家から受け継いだが、
義季は得川郷を自らの一族の本拠に据えて、
領地となった郷の統治に当った。

その地で義季は勢力を蓄えて、
彼から始まる世良田氏一門を発展させた。

世良田郷に「長楽寺(ちょうらくじ)」を建立し、
そして得川郷に「満徳寺(まんとくじ)」を開基したのだった。

二つの寺は江戸初期に再興されて、古刹として今に繋がっている。

 新田の地は浅間山の1108年に発生した「天仁の大噴火」によって荒蕪地となっていて、農地は壊滅し、全域が遺棄された土地になっていた。

 その荒廃しつくした地域を開拓し、19郷の農地として再開発した貴族がいた。その開拓農地を自分の上位にある都の有力貴族に寄進することで荘園として成立させることに成功したのが1157年、鳥羽上皇による院政が行われていた平安後期の出来事だった。

 開発した主は、都で勢力を誇っていた「源義国(みなもと の よしくに)」と、その嫡男の「義重(よししげ)」の父子だった。

 主に義重が開拓を進めて開発領主となり、そうして得た私有地を荘園化して「不輸の権(ふゆのけん; 租の免除の権利)」を獲得し、勢力を張った。

 同時に「下司職(げすしき)」に任命されて晴れて荘園領主となった「源義重(みなもと の よししげ)」は<新田>の名前を苗字として用いて、自らの一族の名乗りとした。その時が新田家の初代当主の誕生であった。

 義家流源氏の名流である新田氏一族の歴史はそのときから始まった。

 新田の地を根拠地として開発領主の義重が「新田義重」を名乗って以来、新田一族は勢力を伸ばして新田庄とともに繁栄し、やがて多くの有能な支族を持つに到るのだった。
ページTopへ移動
得川郷を本拠に据えた義季(よしすえ)は、
この「(得川)東照宮」の建つ場所に居館を構えたのだ、という。
得川東照宮

 「新田庄」は成立時(1157年)の当初は19郷の荘園化からはじまったが、やがて1170年には56郷に及ぶ大規模な荘園へと瞬く間に成長した。

 その領域は「国衙(こくが)」の直轄した公領、各地にあった「御厨(みくりや; 皇室や寺院の直轄領)」、周辺の荘園をも凌ぐ規模といえようか。上野国を代表する、実に広大な荘園(「祖」の対象外の私有免税農地)であった。つまり、新田郡の全域に渡る大荘園が獲得されたのだった。

 荘園化当時の平安期の政治情勢は、藤原氏一門の北家独占による摂関政治から、天皇や上皇による院政(主体的には平氏ということだが・・)が始まる時期であった。およそ400年間に渡って続いた平安時代の、大きな政治的な変換期であった。(平安時代の後に、摂関の職位に就く藤原氏は五摂家とよばれる家に分流した。)

 開発領主の「義重(よししげ)」は、手腕に優れた才気をもって都の実力者となっていた平氏とその権門へ巧みに働きかけた。都における権威の変化を旨く捉えて、見事に<時流>をつかみ、そうして一族の勢力範囲を劇的に伸ばしたのだった。

 荘園の「領家(りょうけ; 名目上の土地所有者)」である「藤原忠雅(ふじわら ただまさ)」は時の権力者であった平氏一族に連なる公卿であった。19郷の開拓農地を寄進して成し遂げた新田庄成立の1157年から、さらに勢力を広げて、庄内の郷を拡大させていた。

 「義重(よししげ)」は、この領地化において深く、中央政界で勢力を得ていた「平氏の権威」と結んでいたのだった。荘園成立の当初は鳥羽上皇による院政期であるが、藤原忠雅はその後も順調に出世を遂げた。1170年に荘園が56郷に及ぶ領域にまで拡大する時期には、太政大臣の位に就いていた。つまり義重は国政のトップを勤める公卿と直接に繋がっていた訳である。
ページTopへ移動
 しかし、そうした繁栄も長く継続したわけではなかった。やがて時代が進んで、栄華を誇った平氏の専制を崩す動きが始まるからだ。

 同じ義家流源氏一門、新田家にとっては宗家(氏の長者)にあたる家の当主であった「源頼朝(みなもと の よりとも)」が、打倒平氏の旗を掲げて鎌倉の地で挙兵したのだった。

 こうした事態に同じ義家流の源氏一門は、続々と鎌倉へ我が軍勢を引き連れて、馳せ向かっていった。

 義重の弟の「義康(よしやす)」から始まる足利一門や、同じ新田支族の義重の子から始まる里見氏や山名氏、更にその次の世代になる江田氏や世良田氏などが、いち早く軍勢(一族郎党から成る手勢)を引き連れて頼朝の挙兵を助けるために駆けつけたのだった。


 しかし、「義国(よしくに)」は荘園化で深く中央の平氏との結びつきを持っていたがため、その権威を打ち崩そうとする鎌倉家への賛同を躊躇って、参陣についても半年にも及ぶ長い逡巡をしたのだろう、と私は思っている。諸手を挙げて挙兵に賛同すべき立場にあるのに、他家に先んじて鎌倉へと参陣していないからだ。

 そんな彼も、結局は平氏打倒の挙兵へ賛同する決意をするしかなかった。

 頼朝の父祖の代から宗家との間に婚姻して縁戚関係を深く結んでいた関係があって、頼朝の家とは極めて近い縁戚関係を持っていたからだ。それに義国は義家流の源氏一門を代表する長老格の人でもあった。

 逡巡を重ねた末に鎌倉へ馳せたのだが、義家流源氏宗家の当主である頼朝からは遅参を散々に叱責され、老人はすっかり立場を失うのだった。

得川東照宮の境内 義季の嫡男の「頼有(よりあり)」が得川郷を相続し、
次男が世良田郷を相続した。

次男の家はその後、「世良田」氏を名乗って発展を続けていく。

 そして代を重ねる内に、ついに栄華を誇った義国・義重父子の家も、鎌倉の末期には北関東の狭い地域の小さな家に変わってしまっていた。広大な新田庄内のほんの数郷のみを所有し、その狭い土地を拠点とする小豪族にしか過ぎない、弱小御家人の一族になリ果てていたのだった。

 その新田宗家は八代ののちに、当主「義貞(よしさだ)」が鎌倉幕府討幕のための軍事蜂起を行い、地元の新田支族を中心に決起し、次第に広がっていた新田の同族からの支援を援軍に向かえて勢力を増していく。

 義貞の同族は勿論、広く関東近縁に散らばる武家を糾合して軍団を形成し、見事に幕府を壊滅に追いやり、倒幕に成功する。

 倒幕の成功後、義貞は一門衆と共に都に上って高位に就くが、叛乱を起した「足利尊氏(あしかが たかうじ)」の鎮圧に続き、南北朝の動乱に巻き込まれていく。九州まで尊氏の勢力を追い落とすのだが、やがて尊氏は体制を立て直して勢力を盛り返し、遂には「錦の御旗」を掲げて立場を逆転させる。義貞は義国から始まる同族の当主である尊氏に滅ぼされてしまうのだった。

 その後、新田宗家は室町幕府から過酷な弾圧を受けて、新田宗家の一門衆は壊滅して消え去っていくのだった。
ページTopへ移動
得川郷が存在していた
現「徳川」地区に建っている得川東照宮。

世良田氏、得川氏の家祖である
新田義季(よしすえ)の館跡に
建立されたもの。
得川東照宮の拝殿

<世良田(せらだ)の地  徳川家発祥の地>

 新田庄は、1157年に新田氏(初代の義重;よししげ)によって荘園として成立した19郷をその基として、その後、新田宗家が心血を注いで開発をすすめたことで発展した、56郷(1170年に立券)からなる大荘園である。

 平安末期から開発された場所であり、鎌倉初期にはすでにある程度の発展を遂げていた。

 開拓当初は浅間山の火山灰が積もる荒蕪地であったが、それを一旦取り除ければ、降灰の下から現れる土地は実に肥沃なものであった。

 噴火以前の新田地域を調べてみると、そこは僻地ではなく郡衙がおかれていた土地だった。さらには都と東国を結ぶ列島の大動脈、東国への主要幹線道路である「東山道(とうざんどう)」が通っていた。

 世良田のすぐ北の場所(生品神社の南側)を宿駅として「東山道」は都に直結し、この地で府中方面へ向かう南下する路と、足利を経由して陸奥方面へ向かう北上する路とに分岐していた。新田は古代律令制の昔から開かれた、要衝の土地であった。


 しかし、そうして繁栄していた新田氏の滅亡と共に新田庄はいつの間にか精細を失ってしまう。それは足利に対抗した新田氏の一門衆に対して、室町幕府が徹底的に弾圧を加えていくからだ。新田本流に近い家は幕府内での地位もなく、新田の一族という出自さえも偽らなければ、家を存続できなかったようだ。

 足利家が将軍職として君臨して安定政権を築き上げたが、後には戦国の世となってしまった室町時代を通じて、庄や新田宗家の一門衆が脚光を浴びた事は無かったに違いない。規模の大きな寺院なども次第に荒廃し、郷民の力や富も薄れてしまい、由緒ある神社も廃れてしまったに違いない。

 新田庄の新田宗家があった郷は精彩をすっかり失ってしまい、さらに庄全域がひところの勢いを失ってしまった。歴史の彼方においていかれて、忘れられてしまった土地に成り果ててしまったと言えよう。

 新田宗家は、そのように完膚なきまでに滅んで、完全に消滅してしまったが、早い世代で分かれた新田支族は温存されていた。

 義重の子から始まった里見氏や山名氏(のんびり 行こうよ ポタリング;  2013.06.09 「城下町 小幡を訪ねる 復路編(山名郷)」)などは南北朝の動乱で足利氏に強力した事もあって室町幕府で高位について尊重され、権勢を誇っていたのだった。それに江田氏や世良田氏などの有力な新田支族は、滅びる事無く、しっかりと残存していた。
ページTopへ移動
社殿(拝殿)の様子 父、義季(よしすえ)から得川郷を相続した
嫡男の「頼有(よりあり)」は、
そこが義季の本拠を据えた地盤であるにも関わらず、
自分の養子となった「岩松政経(外孫でもあった)」に土地の権利を引き渡してしまう。


このため、得川氏にまつわる資料は霧散し、
残念ながら今に残ってはいないのだった。

 新田庄の南部地域を構成する世良田(せらだ)郷を相続した「義重(よししげ)」の四男である「義季(よしすえ)」は、その南部地域で勢力を拡張した。

 義季が相続したのは、女塚郷、押切郷、世良田郷、得川郷、三ツ木郷、上平塚郷、下平塚郷の各郷であった。南部に広がる極めて広域を相続したといえよう。こうしたことを背景にして、義季は義重の四男ではなく次男であったとする説も存在している。さらに、父である義重はその晩年を義季の基で過ごしていたのだった。


 新田宗家からそれらの郷を相続して、宗家とは別の領主として土地を領有し、統治をおこなったのだった。複数の郷に渡った領地たが、これらは新田庄では南東部に連なる場所であり、水利に優れた肥沃な土地であった。義季はこの統治に当って、得川郷に本拠を据えて館を設けたのだというが、「新田義季(にったよしすえ)」は世良田の郷を苗字として別家をおこして、郷の相続以降は「世良田義季」と名乗った。

 義季は郷をよく統治し、増産にも勤めたのだろう。やがて、得川郷には満得寺を建立し、世良田郷には「長楽寺」を1221年に建立した。満得寺の開基が不詳なのは、寺の火災によって古くからの伝書や資料等が灰燼に帰してしまったためである。


 義季は宗家から相続して領有した郷のうちから、嫡男の「頼有(よりあり)」には得川(とくがわ)郷を相続させて「得川頼有」とし、次男の「頼氏(よりうじ)」には世良田郷を継がせて「世良田頼氏」として、さらに郷の支配を強くして領主の地位を磐石に固めていった。

 嫡男が相続した郷は<得川>という漢字を書くのだが、この家が<徳川>家の発祥であり、三河松平郷へと流れてそこに定着し、松平氏の歴史が始まったという。松平家の系図にはそう記されてあるとして、家康は源氏一族の末裔を名乗ったのだった。

 松平家が新田義季の末裔であれば、本来松平家は人質として取られた今川家よりもずっと家格が上であり、今川氏の本家筋にあたる家になる。家康の幼少期が事実として長い人質暮らしであった以上、得川氏に繋がる出自・系図は捏造であったと思わずにはいられない。

 得川頼有の根拠とした得川郷は、養子であった「岩松政経(いわまつ まさつね)」に譲られて、得川家の後の経緯は詳らかではない。後は代々、得川家に変わって岩松家が統治を続けたからだ。

 しかし江戸時代に入る前後になると、松平家が先祖発祥の地としてそこを大切にし始めた。松平家は後に、この郷の名を苗字とし、「徳川」の家名とするのだった。江戸幕府将軍家として征夷大将軍に就任するに際して、にわかに脚光を浴びる形になり、郷はその後も幕府の厚い庇護に置かれることになるのであった。
ページTopへ移動
 歴史的な前例があって、源氏を標榜しなければ、「松平家康(まつだいら いえやす)」は征夷大将軍には就任できなかった。

 そこで老獪な家康は系図のはっきりしない源氏宗家に近い家名の流れを学識のある者に研究させたのだろう。

 世良田、得川両氏の祖となった新田義季(よしすえ)は生没年がはっきりとしていないし、彼から始まる得川氏の系図も、義季、頼有と続き、その先に行くと不明のところが多くなる。頼有が養子である「岩松政経(いわまつ まさつね; 外孫でもあった)」に土地を継承させ、得川郷の領主が変遷したので、細かい資料が残されていないからだ。そうした部分に着目して、得川氏の初代義季の孫の代にその家の者が松平郷へと流れたという図式を組み上げた。

 なぜそうまでして出自にこだわったのかといえば、時代が進んでも階位の制度や任官の仕組みは<律令制>の元にあって、必ず朝廷からの補任となるからだった。だから歴史上の前例が大切にされ、しっかりと守られていた。幕府を開くためには「征夷大将軍」として叙任される必要があり、しかも征夷大将軍職に就くためには、源氏の一族である事が必須の事柄だったのだ。

 その出自が立証できなければ、実力を持っていても政権府としての「幕府」は開けない。

 このため、世良田・得川の地にあった新田氏の末裔が松平郷へ流れ、そこで土着したことを家の祖とする系譜を、権力の掌握が迫った時期に家康は捏造した。いや、そうした事実の欠片があったのかもしれないが、今となってはもう判然としない。

 織田の同盟中にあった時には「平」の姓を名乗り、その後、秀吉の旗下に加わると、「藤原」を、さらに秀吉からその臣下(秀吉の妹「朝日姫」の婿でもあるので、家康は縁戚となっていた)として「豊臣」の姓を付与されると、それを名乗った。そして自らの権勢で天下を掌握すると、遂に武家の正統である「源氏」を名乗り始めるのだ。

 なりふり構わないほどの、無節操といっても良い、まことに巧みな変節振りだろう。
ページTopへ移動
満徳寺 江戸幕府の公認した縁切寺
満徳寺(まんとくじ)


<駆け込み門>

<時宗の尼寺 満得寺(まんとくじ:得川郷)>

 火災で焼失してしまったため、往時の広大な建物は失われているが、その礎石が敷地に残る遺構である。寺は世良田郷や得川郷を義重(よししげ)から相続した「新田義季(よしすえ)」が本拠をおいた得川郷に建っている。

 義季の館があった跡だ、として伝わっている「得川東照宮」のすぐ南にある広大な寺院だ。

 満得寺は、初代住職に未亡人となった自らの娘を据えた。その法名(出家名)を「浄念尼」といったという。その後数世に渡って、新田の女性が住職を務めたことが伝わっている。新田氏縁の菩提所だったのだろう。

 この寺は「時宗」(一遍上人が開いた漂白の修業僧を是とする宗派)の尼寺なので、檀家を一切持っていなかった。こうした宗派の特性が、新田宗家の一門の没落と運命を共にする結果となり、室町時代には新田宗家と共に荒廃してしまっていたようだ。

 徳川時代にはいると、長楽寺同様に荒廃していたこの寺を、家康は熱心に復興させた。しかし、長楽寺と異なって改宗する事無く、江戸時代を通じて時宗であり、檀家を持たない状態だった。

 家康は1591年にこの寺に100石の朱印地(領地)を寄進し、荒廃していた寺院を復興させ、縁切寺として公認した。以来、寺は幕府の庇護下に置かれる。

 なお、鎌倉に建つ「東慶寺(とうけいじ)」と得川郷「満徳寺(まんとくじ)」の2ヶ所だけが、幕府公認の「縁切寺」として存在していたものだ。

 江戸時代においては、制度として「女性からの申し出による離婚」は認められてはいなかった。離婚の申し渡しは男性からのみ有効な事柄で、「三行半(みくだりはん)」と呼ばれた去り状の引渡しで成立したものだった。

 女性からの申し出でにて離婚成立を保障するために、幕府は公認された機関として2ヶ所の「縁切寺(えんきりでら)」を設けたのであった。
ページTopへ移動
縁切り寺 満徳寺 この尼寺は檀家を持たず、墓地が無いのが特色であろう。

この寺の宗派である「時宗」はそもそも寺を持たずに行脚を続けるという宗派だからだろう。

寄進などは大いに行われていたのであろうが、朱印地である100石だけで存立を保っていたわけだ。


このため、幕府瓦解の明治維新と共に寺は終焉した。

 縁切寺は離婚を望む女性の緊急避難場所、無体な夫の仕打ちや嫁ぎ先による虐待から我が身を守るシェルターでもあったので、別名を「駆け込み寺」とも呼ばれた。

 写真にある「駆け込み門」に女性の体の一部でも入った場合は、いかなる場合でも連れ戻しはできない、というのが定法であった。それがたとえ夫であろうと権力をもった官吏であろうと、連れ戻す事は許されていなかったのだ。

 このため、簪を門へ投げて刺したり、履いていた草履を門内へ投げ入れたり、それだけでも持ち主の女性が縁切り寺へ入ったと認められたという。

 満徳寺や東慶寺は、その領地近隣の民だけでなく、全国の駆け込みを認めていた。とはいっても、江戸時代においては女性の旅は厳しい状況だったので、関八州の住民などで無いと、駆け込むのは難しかったろう。

縁切り寺 満徳寺 寺は、駆け込みが行われると、女性の実家にまず連絡をとって復縁の可能性を探り、しかる後に離縁の調停に乗り出したという。

意外に民主的な仕組みなので、で調べてみて驚いてしまった。
ページTopへ移動
 しかし寺は、駆け込みが行われると、女性の実家にまず連絡をとって復縁の可能性を探り、しかる後に離縁の調停に乗り出したという。寺による離婚調停が不首尾に終わっても、修業期間を経て後(時代小説などでは3年間の奉公と書かれている)は、晴れて婚姻関係が解消された。


 家康は寺を復興させると共に、豊臣秀頼(とよとみ ひでより)に嫁していた孫の千姫を寺にいれ、豊臣氏との縁を切ったのだという。

縁切り寺 満徳寺

寺による離婚調停が不首尾に終わっても、修業期間を経て後は、晴れて婚姻関係が解消された。
縁切り寺 満徳寺

縁切寺は「駆け込み寺」とも呼ばれるが、
その保障制度を使う事で、初めて女性の側からの離婚申し入れが成立し、自由の身になれたのだった。
ページTopへ移動
 「縁切寺(えんきりでら)」へ入ることは女性の側から離縁を伝える為の<公認制度>として守られていた。

 寺の格式は高く、幕府が直轄する機関である。

 いってみればそこは官立の福祉機関であった。小石川療養所などの医療施設や人足寄せ場などの授産施設は、江戸中期に登場するが、この寺は開府と共に幕を開け、江戸期を通じて運用されていた。廃寺とされたのは、幕末を過ぎた明治5年であった。

 この寺では、たとえ国の守護であろうと不当な介入はできない決まりを持っていた。領主からの独立という、封建制の世にあっては極めて異例の権限を持っていたわけだ。

縁切り寺 満徳寺

封建の当時にあっては、婚姻関係の解消となる離縁状の引渡しは、公には男性の側からしか言い出せない事だった。
縁切り寺 満徳寺
ページTopへ移動
東陽寺 これは、得川(とくがわ)郷

東照宮や満得寺(まんとくじ)の南西方にある寺で、
「東陽寺(とうようじ)」というところ。


場違いに思えるほどの、本堂の大きな屋根が目立っていて
彼方から眼を引いた。

 世良田郷は早川の流れに西面と南面を囲まれた肥沃な土地だ。

 その開けた土地を拠点として、世良田氏の一門を発展させた。支族には世良田氏の本家の他に、得川(とくがわ)氏がある。得川郷は世良田郷の南隣に位置している土地だ。

 新田の祖である「義重(よししげ)」の四男、「義季(よしすえ)」が宗家より 世良田郷、得川郷、女塚郷、押切郷、三ツ木郷、上平塚郷、下平塚郷を相続し、世良田に本拠を据えた。そのため、別家として「世良田義季」を名乗ることから、新田支族の世良田一族の歴史が始まる。世良田氏は新田庄南部の地を地盤として、後に大きく繁栄していく。

新田庄 世良田郷 新田庄 世良田郷の地図。

現 太田市 世良田地区。


東照宮の周辺は歴史公園となっている。

東照宮の横に歴史博物館がある。
太田に編入される前の尾島町のころは「東毛歴史博物館」であったが、編入を期に運営内容を変えて新田庄に特化した。

今は「新田庄歴史博物館」となっている。
ページTopへ移動
 世良田郷、長楽寺は義季によって1221年に建立された大きな寺院だ。後に説明をするが、現在は天台宗の寺院に変わっており、寺領内には東照宮が置かれている。

 世良田義季の息子は「世良田頼氏(よりうじ;次男)」として世良田郷を継ぎ、嫡男が「得川頼有(よりあり)」として別家を起した。得川郷は早川の流れに面した場所だが、父祖が開発して本拠としたその場所よりも、次男が継承した世良田郷の方が後に栄える事に成る。

 徳川家康によって義季が開基した長楽寺が復興されたばかりでなく、三代家光によって寺領内に広大な東照宮が建立されるのだ。

世良田の東照宮 世良田の東照宮。

博物館や長楽寺と
合わせて、
一帯は歴史公園になっている。
ページTopへ移動
長楽寺の勅使門

長楽寺の勅使門。というよりも東照宮の勅使門だろう。

朝廷からの勅使、また幕府からの正式な使者が通る際にしか
この門が使われる事はない。
長楽寺の勅使門

<臨済宗の禅林 長楽寺(ちょうらくじ;世良田)>

 寺は東日本に初めて開かれた禅寺(修業道場)であった。1221年の開山にあたっては、「義季(よしすえ)」は日本臨済宗の祖「栄西(えいさい)」の高弟であった栄朝を都から招聘して、その初代に据えた。多くの名僧を輩出したという由緒ある寺院だ。

 世良田氏の一族は、新田宗家と異なって鎌倉幕府からも優遇されていたため、権勢も盛んだったようだ。世良田郷、得川郷、女塚郷、押切郷、三ツ木郷、上平塚郷、下平塚郷という肥沃な土地をを義季が新田宗家から相続し領有したためでもあろうか。檀家が裕福である証に鎌倉時代に入っても寺の勢いは盛んであって、6万坪の広大な境内に塔頭が並んでいたという。

長楽寺の総門

長楽寺の総門。
心字池に掛かる渡月橋

庭園の様子。(心字池に掛かる渡月橋)
ページTopへ移動
長い参道

さすがに1221年創建の東国初の禅寺。
その規模が素晴らしい。

これは総門を入った後に本堂へ続く長い参道だ。
長楽寺 三仏堂

長楽寺 三仏堂。

 東国初の禅寺である長楽寺は、やはり開山からの伝統に支えられ、何世にも渡って引き継がれた住職の作り出した深い伝統と、輩出されたる名僧達が担う歴史に裏打ちされていたのだろう。そこでは常時500名を越える学僧が学んでいたという。禅林としてはかなりの規模である。

 後に、義貞(新田家当主)から土地を買ったりもしている繁栄振りだったが、しかし、江戸初期までに寺は荒廃してしまったようだ。世良田を父祖の地ととなえた家康によって手厚く保護され、復興された。

長楽寺 三仏堂の香炉 長楽寺 三仏堂
ページTopへ移動
 家康は時宗の尼寺として復興させた満得寺の際とは異なって、この寺の住職として「天海大僧正(てんかい)」を据えて寺領100石の朱印を与え、臨済宗から天台宗へと改宗させた。1603年、征夷大将軍に補任された後のことであった。

 幕府は、境内や伽藍を修復して寺を篤く庇護した。南光坊天海(なんこうぼう てんかい;慈眼大師)は日光東照宮の住職であり、川越の東照宮などをも司った幕府ブレーンの一人、政治顧問であり将軍の相談役であったが、幕府内の役位は持っていない。しかし「黒衣の宰相」とも呼ばれた実力者で政策の決定などにも深く関わっていた。天海と同じような立場に「金地院崇伝(こんちいん すうでん)」という僧侶もいて、彼は豊臣秀頼が建立した鐘に因果をつけて「鐘銘事件」を起こし、関が原戦の口実を作った事で有名だ。天海は「大僧正(だいそうじょう)」という官僧位(国家が認定した僧侶;その身分としての最高位の階級)を持つ最高位の僧侶だ。天海の尽力(辣腕を振るって)にて、末寺700有余の大寺院へと発展させた。

 長楽寺には文殊山の中世石塔群が残るが、勅使門や三仏堂や太鼓門、開山堂などは江戸時代の建造物である。

 しかし、寺全体が国指定の「新田庄遺跡」のひとつに数えられ保護されている。

長楽寺 本堂 世良田郷、長楽寺は新田義重(よししげ)の四男、
義季(よしすえ)によって1221年に建立された。

世良田郷、得川郷、女塚郷、押切郷、三ツ木郷、
上平塚郷、下平塚郷を新田宗家から相続した。


世良田氏は新田庄南部の地を地盤として、後に繁栄する。

なお、長楽寺は東国初の禅寺であり、多くの名僧を輩出したという。
ページTopへ移動
 長楽寺は東国初の禅寺であり、多くの名僧を輩出した寺院であったが、その歴史も途絶えていたのだろう。天海大僧正によって天台宗の寺院として復活されたわけだが、臨済宗であった創建当時と同様に、天台宗の寺院となった後も寺の格式は極めて高いものだった。

 なお、その格式を示す便として、寺には大層立派な総門が設えられている。


 家康は死後、駿河「久能山(くのうさん)」に葬られ幕府の守神となった。さらに最高位の神である「権現」として奉られ、江戸の辰巳に位置する日光の地に祭られた。二代将軍の秀忠によって元和年間に造営されたのが日光東照宮である。

太鼓門 長楽寺  太鼓門。

江戸時代初期の建造なので、長楽寺などと比較すると、大分新しい。

門なのだが、楼上に太鼓が置かれて、時を告げる合図とされた。
また、行事の際の合図にも使われたという。

 1639年の寛永期に秀忠は日光東照宮を立て替える。日光東照宮の大改築にあたり、日光輪王寺の住職でもあった天海僧正の要請によって旧施設である奥社拝殿・唐門・木造多宝塔などを、三代将軍の家光が世良田の長楽寺の寺域内へ移築した。

 本殿はその際に新築されて世良田東照宮が建立されたのだという。家光の治世だが、1640年の出来事だとも、1644年だとする説も有って判然としない。

 敷地の長楽寺は朱印地100石を与えられたが、寺域内に創建された世良田東照宮は朱印地として別に200石を与えられて、篤く庇護された。

 建立された東照宮には、長楽寺の総門とは別に、勅使や将軍家からの使者が用いるためだけの専用門が付けられた。東照宮は幕府による慰霊施設であり、公の宗教施設なので勿論疎かにはされないが、長楽寺も同様に大切にされた。寺は家康によって復興されたのだが、歴代将軍の庇護を受けていた。

 いまでは国指定の新田庄遺跡のひとつに数えられている。「世良田 東照宮」と「世良田 長楽寺」はともに指定の遺跡である。
ページTopへ移動
 長楽寺の三仏堂は、江戸時代初期の1651年、三代将軍の家光(いえみつ)の再建によるものだ。

 長楽寺は臨済宗をその宗派としていたが、密教に関しても学僧達が学んでいた。江戸時代の復興で天台宗に改宗されるのだが、以前の密教的な名残としてもその流れは保たれた。

 三仏堂に掲げられた大きな額「顕密禅」の字句はそれを意味している。なお、この堂には釈迦、阿弥陀、弥勒の仏像が安置(三世仏が安置)されている。それぞれが過去・現在・未来を表している。

太鼓門


太鼓門と透かし見た宝蔵と文殊山開山堂。
太鼓門
ページTopへ移動
 江戸幕府や家康の話題を進めなければおかしいところだが、出自ということに関しては豊臣氏での面白いエピソードがあるので、ここで少し寄り道をして、その話を紹介してみよう。


<自らの氏を捨てて姓を合成した秀吉 (木下 から 羽柴 への変貌)>

 浅井攻めでの武功を褒章されて、琵琶湖周辺の浅井家の旧領を拝領する立身をした秀吉は、統治の根拠地として湖岸の地を選んで築城した。「今浜」城主(領主)として城持ち大名のスタートを切ったのだ。その土地を「長浜」と改めて、城を中心に武家屋敷や町人などの住居などを整備し、城下町を形成した。

 中世の世がそろそろ終焉し、時代が近世に移ろうとしている時期であるが、この城下町の形成は画期であった。産業の中心は勿論農業にあるが、商業や流通という事を念頭に置いたのだ。岐阜や清洲で信長が始めた「楽市・楽座」は既存勢力ではなく、新興の商業主を育成する施策であって、秀吉もおおいにこれを手本としたのだった。

国指定 新田庄遺跡 「世良田 東照宮」

国指定 新田庄遺跡 「世良田 東照宮」

第三代将軍 「家光(いえみつ)」の将軍時代(1644年)、
日光東照宮の大改築にあたり、「天海僧正(てんかいそうじょう)」によって日光山東照宮の旧奥社拝殿などが世良田の地に移された。

そこから世良田東照宮の歴史が始まる。
(もとは、長楽寺の寺域であった。)
国指定 新田庄遺跡 「世良田 東照宮」

 晴れて城主の身分を手に入れた秀吉は、今後の統治においては当然ながら公式の文書を作成する必要があった。

 領主であるから当たり前の話なのだが、しかし、残念な事に、彼の出自では「触書」や「文書」に署名すべき「姓(かばね)」は持っていなかった。そこで秀吉は一計を案じて、織田家の家臣団中の長老格の二人から「偏諱(いみな)」のように苗字の一文字を頂く事にする。「丹羽長秀(にわ ながひで)」と「柴田勝家(しばた かついえ)」のおとな(年寄;家中の筆頭格の長老)で、「羽柴(はしば)」の姓を合成して、「木下」にかえてこれを真顔で用いた。

 尾張国愛知郡中村郷に地盤を持つ帰農の家に生まれるのだが、秀吉の父である「木下弥右衛門(きのした やえもん)」は織田家足軽組頭を務めて退身した者であった。下層武士であったか、または庄家階級の農家の当主あるいはその家の一員、であったと思われる。いずれにしても、郷の名主ではないので開発領主やその一門の富農層という事ではなかったようだ。

 一説には秀吉の父の弥右衛門は足軽であったとされるが、そうであれば小者であって武士身分(武家)ではないし、足軽組頭であれば禄は低いが身分は武士である。しかし、弥右衛門は秀吉の実母「なか」の後添いであって、秀吉は嫡子ではなかったという話もある。だから、秀吉の出自という事では微妙なところがあって、秀吉の家の微妙さとはまた違った伝承を呼ぶ事になってくる。出生ではなく家という事では、小作農の家でなかったことは明確だし、ましてや、世に言う「卑賤の出」という事では決してない。
ページTopへ移動
<「平氏」を名乗っていた織田家とその家臣団>

 室町幕府管領(かんれい)職である斯波家(足利家氏を家祖とする)の家宰の家の、その支族に過ぎない織田信長家中の武将達はみな、そうした氏素性の明瞭さという意味では同じであって、誰もが似たり寄ったりの横並びの状況だった。階級的には「国人」や「土豪」の域を出るような、高級な出自は持ち合わせていなかったのだ。

 こうした織田家中にあって、浪人から召抱えられた光秀のみが、源氏の名族である「土岐(とき)一族の末裔」を謳っていた。

 土岐氏は清和源氏を出自とする源氏の一族で、摂津源氏から美濃源氏へと分かれていった一族であった。当時においても、各地に散らばっている有力な支族がある武家貴族の名門の氏だった。光秀は後に信長を倒す謀反を決起するに到った理由のひとつとして、(土岐一族という出自を強調して)「源氏による平氏打倒は使命である」と唱えたのだった。

国指定 新田庄遺跡 「世良田 東照宮」 国指定 新田庄遺跡
「世良田 東照宮」

見てのとおり、
蕃所である。


神社は、守となった家康を祭っているので、蕃所が設けられていた。

東照大権現(とうしょうだいごんげん)というのが、家康の神号だ。

 さて、織田信長だが、彼は畿内統一を目前にしたある時点から「平氏」の一族である事を鮮明にし始める。

 しかし、この出自は多分に捏造の疑いが濃厚であって、これは政権樹立の布石であったと思われる節が感じられる。室町幕府の主である足利将軍家の「源氏」に対する、歴史上の対抗的な措置(氏による政権交代)だったのかもしれないからだ。

 このためか、織田信長旗下にある各方面を統括する軍団長の武将達はみな、全国制覇(天下布武)を目前にしたころに発給した正式な文書では、織田家の名乗りとした姓(かばね)である「平氏」を名乗っていた。例えば公式文書などに置いては「羽柴秀吉」とは明記しなかったのだ。

 「羽柴」の場合は特殊な例であり、自ら付けた苗字であったという理由も勿論あるのだが、それだけではなく主家の唱える姓を使っていたのだった。秀吉は文書発給においては「平 朝臣 秀吉」として署名していたのだった。
ページTopへ移動
<秀吉が主君 信長から受け継げ無かった大切なもの>

 信長が全国制覇を目前に本能寺で倒れ、その遺恨を秀吉は見事に晴らした。

 毛利と対陣していた中国から、変の発生を知るやいなや、疾風怒濤の快速で中央へ取って返し、その間に旧織田勢力の武将達を糾合していった。変を起した「明智光秀(あけち みつひで)」は織田家の機動部隊を掌握していた最大勢力の武将であったが、本来は彼の与力となる武将も、主家を討ったその挙動に動揺して、去就に迷っていたのだった。

 「ひとたらし」とも異名をとった秀吉は、彼らを完全に取りこむことに成功し、山崎の合戦(天王山の戦い)で光秀の勢力を撃破し、本拠地の「近江・坂本」や「丹波・亀山」などを制圧し、織田家中で並びない権勢を手中にする。

 「柴田勝家(しばた かついえ)」、「丹羽長秀:にわ ながひで)」や「滝川一益(たきがわ かずます)」、「池田恒興(いけだ つねおき; 乳母子:信長の乳兄弟出身の有力武将)」など首脳級の家中重鎮達も、「徳川家康(とくがわ いえやす)」という稀有の従順な同盟者も、「細川藤孝」「筒井順慶(つつい じゅんけい)」などの実力者達も、輝く秀吉の実績を前にしては、対抗するすべを持たなかったのだ。

  その後も秀吉は辣腕を発揮し続けて、信長嫡孫である三法師を擁立して織田家次男の「織田信雄(のぶかつ)」や三男の「織田信孝(のぶたか)」などの庶流の一門衆を押さえ込む。彼ら残された信長の実子といえども、嫡孫を盾にされてはとても口を挟む余地は無かったのだ。当時、信雄は名門「北畠(きたばたけ)」家(義家流源氏、新田家の支族)へ養子となっていたため北畠氏を名乗って「北畠信雄」であったし、信孝は伊勢の名族「神戸(かんべ)」家へ養子となっていたので神戸氏を名乗って「神戸信孝」となっていた。

 正式には両兄弟は織田家の者ではなく、それぞれ他家の当主であった。こうして秀吉は一門衆をも押さえ込む事に成功したのだ。織田家の持っていた大きな権勢だけでなく、世間の名声や信望を得たのはなおさらであったろう。

東照宮 東照宮

東照宮は、日光が本拠であるが、この世良田東照宮も意味深い。
徳川発祥の父祖の地であるからだ。

幕府はここを篤く保護していた。
ご神領として200石という規模は、極めて壮大。(長楽寺の100石の朱印地とは別途支給されたもの)

例えば、発祥の地である得川郷も保護下に置かれたが、郷全体で安堵されたのは500石。不税であり、守護不入の土地であった。
ページTopへ移動
 そうして権勢を掴んだ秀吉は、全国制覇を成し遂げて、信長でさえ成しえなかった武家による全国統一を達成する。

 1584年には筑前守から従五位下左近権少将に叙位任官されたのを皮切りに、従四位下参議、従三位権大納言(ごんだいなごん)となり公卿に列し、さらに官位を登りつめていく。翌1585年には正二位内大臣(ないだいじん)となる立身を遂げて、やがて主家であった織田家(信長は上総介からやがて「右府」と呼ばれた。最高官位は「右大臣」であった。)の身分を凌ぐ事になる。

 位を極めた秀吉であれば、織田家にあった際に名乗っていた姓の「平氏」を名乗れば無事に自らの政権を樹立できるはずだ。「平」の氏姓は「源平藤橘」の朝臣四姓のひとつなので、天皇直属の臣下の家として、その氏の長者であれば政権樹立が可能であったからだ。

 秀吉が以前使っていた平姓を名乗り、太政大臣の職位を手中にすれば、貴族政治をいかようにも始められたのだろうが、しかしそれは実現されなかった。

 勝家自刃後に引き取ったお市の娘三人、茶々や初や江達は自身の子として扱ったが、後に側室とした淀君は織田の血を引くがそれは浅井長政と信長の妹のお市の方との子であり、織田家の相続権は持っていない人だった。秀吉は遂に、織田家の唱えた「平氏」の継承者とはなれなかった。

 秀吉は織田家との関係においては結局のところ、「姓(かばね)」の獲得を実現させることはなかったのだ。

東照宮 東照宮

宝物館と授与所。

左写真の鉄灯篭は、1618年に総社藩主秋元越中守長朝の命により造られたもの。1658年にこの東照宮へ移されたという。

総社は、前橋市にあり、利根川の右岸(市街地の東)にある土地。
前橋(厩橋)よりも歴史が古く、古代から開けていた。
上野国の国府があった場所である。

当時は日本最大の規模の鉄灯篭だったという。
ページTopへ移動
 「平氏」の姓が名乗れなければ、太政大臣となっても政権は樹立できない。(いや、姓が無ければ内大臣には補任されても「太政大臣」には就任できなかったのかも知れない。)

 このため、苦肉の策として藤原家の後継騒動へ強引に介入し、藤原摂家への養子となることを前関白であった「近衛前久(このえ さきひさ)」に恫喝し、遂に秀吉は近衛家(藤原氏 五摂家)との縁組を達成する。

 その実現には、「流亡・漂白の関白」との異名をとった権謀術数に長けた前久の政治的な深い打算もあった事だろう。

 こうして辛うじて前久の子息となって「藤原姓」を得る事で、1585年、無事に関白職について新しい政治体制を敷くことが出来たのだった。この後になると正式の文書(外交文書)などで、秀吉は自らを「藤原 朝臣 秀吉(ふじわら の あそん ひでよし)」と書いている。


 翌1586年には「豊臣(とよとみ)姓」を朝廷から下賜され、これによって「源平藤橘」に次ぐ新たな姓をもった臣下の家が誕生する事になる。皇子の臣籍降下による氏姓の下賜ではなく、第5番目の姓が新たに生まれる事になったのだ。

 「豊臣 朝臣 秀吉(とよとみ の あそん)」となった秀吉は「聚楽第(じゅらきだい)」に壮大な本邸を構築し、その私邸に、遂に最高権位者である天皇の行幸を迎え受けるまでの栄誉を得る。栄達といったらこれ以上の誉れはない、という極みに達したわけであった。秀吉は人臣として官位を極めるわけだが、さらに考えれば、私邸へ天皇が御成りになるという例はそうあるものではない。

 武家時代の名字である「羽柴(はしば)」ではなく、公家となった際の「藤原」でもない姓(かばね)、「豊臣(とよとみ)」氏がここに誕生した。こうして、1586年末を境に公式記録として記される名前から、藤原秀吉の名が消えるのだった。

東照宮

世良田東照宮の御黒門。
前政権の担い手、豊臣秀吉も死して後、神となった。
「豊国大明神」が秀吉の神号である。

家康は明神様を破却し、全国で建立されたこの神社を、末社を含めて抹殺した。

自らは、明神様を上回る権現様となって、徳川家の守り神となったのだった。

通常は、先代の当主を院号(出家名、法名)で呼ぶが、家康のみは「神君、家康公」と呼び習わされた。
ページTopへ移動
 織田信長や羽柴秀吉の例は源氏の一族ではなかったための事例で、「幕府」という政治機関(政府)が開けなかった事を表している。

 武家政治の行政府が創れないとなると、残る手立ては律令制での官位を極めて政治を主導する以外に残されていない事になる。そのためには、太政大臣となり、「関白職(かんぱく; 摂政は病気や未成年の天皇を代行して役務を行う職制であり、藤原摂家である必要があった。関白は成年後の天皇の職務までをも代行できる職制であった。)に就任する必要があった訳だ。

 しかし、関白職への就任は藤原氏の一族としての血統が必要、という厳然とした伝統があった。藤原氏(平安時代であれば藤原北家、後には五摂家の者であり、それぞれの氏の長者であること)である事は必要な要件なのだった。平安時代の「藤原基経(もとつね)」の初代関白就任時からの事がその発生の源だ。基経の叙任が前例となって、以来鎌倉・室町と時代を過ぎてなお、連綿として続いていくのであった。

 豊臣姓の創出は、藤原氏に代わって関白職を世襲するための、布石であった。「豊臣姓」は本来はそうした意味と役割を持っていたものだった。

東照宮 東照宮の拝殿

壮麗な建築装飾が施された拝殿
ページTopへ移動
 閑話休題。

 豊臣の事になると、どうしても多くを語りたくなってしまって、長い話になってしまう。申し訳ない限りで、是非、許していただきたい。

 さて、話を戻して新田庄にある徳川発祥の地、世良田の事に話題を戻そう。


 見てきたように、政権の樹立は実に困難な事柄だ。実力を持っていればなんとでもなったわけではなく、そこには日本の政体の特殊性である朝廷の思惑が大きく関わっていた。

東照宮 境内にて

 「織田信長(おだ のぶなが)」は平氏の末裔を標榜するが遂に独自の政権を立てられなかったし、その平氏を討ち滅ぼした「明智光秀(あけち みつひで)」は征夷大将軍への就任を叶えられなかった。

 さらに「豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)」は大変な労力を払って藤原氏の姓を手に入れ、やっとの思いで太政大臣について「関白」職に就任して政権を樹立させた。

 当然ながら、「徳川家康(とくがわ いえやす)」も「関が原の合戦」以降、豊臣氏に代わって最高実力者となり全国を完全に統一したが、すぐに征夷大将軍へ就任できたわけではなかった。だからそれを目指して出自を細工して、義家流の源氏一門である(世良田)得川氏の末裔という系譜を創作したのだった。
ページTopへ移動
 さて、征夷大将軍に補任された際の氏の捏造の是非はひとまず置いておき、話を進めたい。

 徳川と名乗りを変えた「松平家康(まつだいら いえやす)」の開いた江戸幕府の体制は、武家政権としては鎌倉や室町の旧来の幕府体制とその構成を大分異にしていた。

 鎌倉のような有力な武家の協力(見返りとして幕府からの承認を与える)による連合政権ではなく、室町のように貴族化はしなかった。純度の高い硬質な武家政治を展開した徳川幕府は、「幕藩体制(ばくはんたいせい)」という、言わば地方自治の上に載った統括政権として位置し、国政の独裁者とはならなかったのだ。

 だから家康のとった精緻な体制は、明治の天皇親政が始まるまでの300年の長きに渡って維持される事になる。

 将軍は組織の頂点で君臨するが、統治は行わないというのがその基本構造だ。後の明治政府がこれを模して天皇に対して同じ姿勢をとる。

開運稲荷社 東照宮の敷地内にあり、
拝殿に隣接した稲荷社。

「開運稲荷社」は平成8年に再建されたもの。
ページTopへ移動
 しかし明治政府と江戸幕府とではその施政体制に大きな相違があった。

 明治の政体においては「元老(げんろう)」と呼ばれる「維新の元勲」がそれぞれの思想や意図で政治を制御したのだが、江戸幕府のやり方は異なっていた。

 家康の明晰さは統治手法において制度化されて、そこで充分に発揮された。幕府組織の機能的特性は、いかなる階層においても徹底的に合議制を用いて運営した、という事に最大の特徴があろう。

 将軍家である松平家の家政のやり方が合議を主体としていたことに因を置くわけだが、しかしこの様式は稀有の統治機構であり、封建の思想で満ちた中世を引きずる江戸時代にあっては、まさに「天才的な発想」といってもよいだろう。歴史区分上は江戸時代からは近世となっているが、この幕府の組織上の特性があったから、近代に連続する前段階として「近世」と区分されたのかもしれない。

東照宮 人形代(ひとがたしろ)祈願所

人形代(ひとがたしろ)祈願所。

罪・けがれを人形代(ひとがたしろ)に移して、
それを祈願し、そのことで心身を祓い清め幸運に導くのだという。
東照宮 境内
ページTopへ移動
 江戸幕府の政策決定機構は松平家が敷いていた「年寄り」の制度による。

 前政権である「豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)」が五大老(三中老)五奉行をおいて政務を行ったのに、似ている。

 五大老の筆頭は「前田利家(まえだ としいえ)」であり、言わば身内である。同じ様に「宇喜多秀家(うきた ひでいえ)」も一門衆といえる。次席は「徳川家康(とくがわ いえやす)」であり、これは織田家の同盟者であり敵対勢力でもあった。

 「毛利元就(もうり もとなり)」「小早川隆景(こばやかわ たかかげ)」「上杉景勝(うえすぎ かげかつ)」などは外様の有力大名である。徳川氏だけがずば抜けて多い領地を持っているが、皆100万石級の領土を統治・領有していた太守であった。

 五奉行は「浅野長政(あさの ながまさ)」、彼は一門衆だし、「石田三成(いしだ みつなり)」は秀吉子飼いの大名であった。

 「増田長盛(ました ながもり」「長束正家(なつか まさいえ)」「前田玄以(まえだ げんい)」などは実務官僚の色合いが強い大名。実際には彼らが政権を維持運営していたといえよう。大老や中老から比べると、極く非力な所領しか持たない大名からなっていて、いわば事務官僚である。このため、豊臣政権の基盤は、崩壊以前からすこぶる脆弱な体質だった、といえよう。

 一方の徳川幕府は、「老中(ろうちゅう)」、「若年寄(わかどしより)」を中心において幕政を執り行った。

東照宮 お休み処

東照宮内にある、無料のお休み処。
中に入って休んでいたら、おばあちゃん達がこれを差し入れてくださった。
東照宮 お休み処

レーシングパンツにレーシングジャージという妙な格好に面食らった様子だったが、お茶を淹れて頂いた。

少しの間だったが、お話をして愉しんだ。
ページTopへ移動
 そしてそれぞれの配下に奉行職や評定所を置いた。

 老中は朝廷や公家、大名や寺社に関する事柄を決裁したが、定員は4・5名であり、5万石以上の譜代大名が就任した任期制の役務であった。

 下部組織として老中支配の「大目付」「町奉行」「遠国奉行」「勘定奉行や勘定吟味役」、その他「作事奉行」や「普請奉行」、「関東郡代」や「大番衆」などを統括・指揮した。普段は月番で政務全般の処理をおこなったが、重要事項は江戸城中の詰の間で合議し、処理を行った。奉行職など下位職のように政務の分掌はしていなかった。

 若年寄はやはり4名の任期選任者を定員とし、小録の譜代大名から選ばれて就任した。旗本や御家人を統括する役務を持っていたが、支配する下位の機関は多岐にわたり、老中支配以外の諸役人のすべてを統括した。

 奉行職は実務担当部門の長官である。その職制を分類されて担当分野が固定されていた。

 「勘定奉行」「寺社奉行」「町奉行」「遠国奉行」など、その職責範囲が明確に規定され、権限や運用は定めによってやはり規程されていた。この職は分野は固定であるが、やはり複数の長官職が運用にあたった。

 後の幕末期、時代変化に合わせて「外国奉行」や「海軍奉行」「陸軍奉行」を新たに置いて外交や軍事を取り仕切らせた。

東照宮 境内 真言院井戸

真言院 井戸。

真言院は鎌倉時代、長楽寺別院として境内に建立された。

この井戸は仏教儀式の際に浄水を得るためのもの。

 職制として実務部門と、それを総合的に判断する上位機関との連動によって政務を微細に運用する精緻な仕組み、が徳川政権にはあった訳だ。

 しかも指揮・判断する機能部分は上位の老中、若年寄においても下位の奉行職においても複数人による分担制が敷かれており、世襲ではなく補任制で運用されていた。

 こうした機構と組織体系であれば、癒着や収賄などの構造的な腐敗や人的な堕落が防止できるし、組織の刷新が制度上保障される。史上、行政機関の刷新が制度として保障された機構は、江戸幕府がとった奉行職制くらいなのではなかろうか。私は学生時代には政治学を専攻していたのだが、幕府組織の他にそうした運用例・機構例が思い浮かばない。
ページTopへ移動
 江戸幕府が敷いた官僚制度の優秀な点は幾つかある訳だが、その最右翼となる点を揚げれば、次の部分となるのではなかろうか。

 その機構は、もし指揮系統に問題が多ければ、(組織の機能を維持した状態のままで)首脳部だけを刷新すればよい、という特性を持っていた。

 目付職などの監察や取り締まり役として、そのための専門職として大目付や目付(めつけ)、さらには徒(かち)目付けやお小人(こびと)目付などの職制があった訳で、幕府が定めたお役(役務)に就いた武士の行動を常時、調査・検証していたのだった。そこで問題が発見されれば奉行職を罷免し、下位の行政官職の場合には御役御免にした。

 上位職であれば、さらに適任者を選出して旧職と交代させればよかったし、下位職であれば同じ職制の他家のもの(次男以下の子息を執り立てる)を抜擢するなどを行って補充すればよかった訳だ。

世良田 東照宮 東照宮 南面に建つ門

 上位の職制者の交代に関しては何時の世においても組織上の大きな難題となるが、それが幕府機関においては実に実施し易い機構になっていたのだった。

 なぜかといえば、奉行以下に置かれる与力や同心は幕府御家人という小録の徳川家の臣下の武士だが、彼らは代々、家の業を世襲してたからだ。各機関の掌握する行政範囲は明確に規定されているため、運営においては専門化が成されていた。

 与力や同心は、家重代の教えとしてそれを見習いの出仕から初めて一人前に成長するまでの間に、充分に叩き込まれる。モノにならなければ、廃嫡となる場合もあって、親と同じ「お役」には就けない仕組みであった。おのずと専門知識に長けた官吏として育成され、組み屋敷などに住まうので、周辺からの助力も容易に仰げた訳である。熟達した官吏の素養が培われた上で、役務にも精進したため、行政上の能力も高かったのだ。

 こうした熟練を得ている仕組みのお陰で、上位にある指揮命令系が滞っても、現場レベルでの運用が止まる心配は少なかったはずだ。
ページTopへ移動
 まあ、そうした江戸幕府のとった政治機構のために、政治機関としては腐敗・堕落に陥る事無く、さらに専制・専断といった弊害も生まれずに運用が成された。

 江戸時代は徳川家康の征夷大将軍への就任から始まる武家政権であるが、武士による政権であったからこそ、こうした運用が可能であったのだろう。

 実力で農地を開拓し、開発領主として勢力の地盤を築き上げ、戦国の世の凄まじい淘汰を潜り抜けてきた階層。その実績や実力や責任感といった独自の世界観が背景に無ければ、そうした政治機構の運営は難しかろう。

 しかも、そうした体制を生み出そうとする工夫は、貴族社会(不労階級)の階層からは生まれでなかったのではなかろうか。

 武士層は公家社会と異なって文化的な要素は薄かったが、これは幕府の主体となった徳川家の家風にもよるところが多かろう。質実剛健にして質素簡略、長い人質時代に家康に培われてしまった習性による部分が大きい、と思っている。

 信長が愛した絵画芸術や壮大な建築、秀吉が憧れた王朝文化とその引き寄せによる桃山文化の色彩や茶の湯の世界。さらに遡れば足利幕府時代の寺社建築の侘び寂びに通じる禅的な様子や庭園の美しさ。

 そうした文化的な色彩が徳川幕府には見られないのが、不思議に思えて仕方が無い。豊織時代に溢れた、あの極彩色の絢爛さはいったいどこに消え去ってしまったのだろう。

世良田 東照宮 今年は桜が早かった。


染井吉野はもう終わってしまって、境内の日本一とされる「御神域桜」は拝めなかった。

でも、ご覧のとおり、八重桜は最盛だった。

 元禄期に花開いた文化は江戸の街で暮らす町人の富裕層によるものであったし、江戸期から今に残る広大な日本庭園はすべて大名庭園であり、幕府や徳川家のものではない。

 そうして考えると、家康の趣味は鷹狩りくらいであって、将軍家が文化的に果たした役割が思い浮かんでこない。

 天皇の臨席を仰いで京都市中で執り行った大規模な馬揃えは、信長の実施したイベントの中でも稀有のものとして有名だ。醍醐の花見や、北野の大茶会など、秀吉の華美さを満たしたイベントも、その壮大さは今に伝わっている。しかし、将軍家となって権勢を手中に収めた徳川家によるそうした例が思い浮かばないのは、どうした訳であろう。

 僅かに、後世、将軍「吉宗(よしむね)」が江戸町民に花見を奨励して、大量の桜を植樹した「飛鳥山(あすかやま)」くらいしか、例が無いのではなかろうか。

 あの源頼朝でさえ、鎌倉の鶴岡八幡宮で大規模な流鏑馬を執り行ったというのに。
ページTopへ移動