取り締まるといっても、江戸時代当時、大名領での犯罪者は他領に入れば(そこは自藩からは治外法権になるので)捕らわれることは原則としてない。ただし例外はあって、「関八州(かんはっしゅう)」で手配された国定忠治などのお尋ね者(犯罪者)のみが広い地域(関東地区)で追縛される。
ちなみに関八州とは、相模(さがみ)・武蔵(むさし)・安房(あわ)・上総(かずさ)・下総(しもおさ)・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)・常陸(ひたち)の国を言い、江戸は「武蔵の国」の内になる。今で言えば神奈川(相模)、埼玉・東京(武蔵)、千葉(安房、上総、下総)、群馬(上野)、栃木(下野)、茨城(常陸)となる。
「関八州見回り役」という役職があるが、これら八国を巡回して広域氏名手配となった博徒や犯罪者などを捕縛する幕府機関で、勘定奉行の配下となり町奉行配下ではない。警察ではなく財務省配下の役人(Gメン)で暗黒街のギャングを相手としアル・カポネを逮捕した「アンタッチャブル」と同じだ。関八州の無宿人(渡世人)や博徒、武装集団だった侠客を取り締まるには警察とは別の組織が必要だったのだろう。時代と国が違っても状況が同じなら、有効な対応策も同じものになるらしい。
役職としては同心が8名前後でその任に当たっていた。だから、それぞれの地域では彼らの元で働く「目明し(めあかし)」 − 十手(じって)持ちの親分達 −がいた。多くは地元の勢力ある博徒であり、彼らは善悪「二足のわらじをはいていた」ということになる。
広域にもかかわらずそれを統括した同心の数は至極少ないが、親分衆の動員人数は大層なものであった。1842年に「国定忠治(くにさだ ちゅうじ)」の捕縛で上州:田部井村(ためがい)に向かった際は総勢300人の縛吏での出役だったという。田部井の地名は今も残っていて赤堀(伊勢崎、桐生の中間)周辺の町だ。(赤城山麓というほど山ではなく、関東平野の最北端というところ)
|