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2013.04.12
太平記の舞台を散策する1   新田庄 (にった の しょう ; 太田市 尾島)

アクセス;
 東武伊勢崎線 ― 世良田(せらだ)駅

カメラ;
 RICOH CAPLIO GX−100 24mm F2.4 〜 72mm F4.4
 (画像添付時に約30%程度に圧縮)

関連のページ;
のんびり 行こうよ:「2013.04.09  徳川家発祥の地を散策する 世良田・得川」
のんびり 行こうよ:「2013.04.14  太平記の舞台を散策する 2 世良田(せらだ)」


 去年の暮れの事になる。

 年の瀬も迫った11月、蕎麦の香りを愉しもうと「足利(あしかが)」の街へポタリング(自転車による散策)した。足利への移動はJR両毛線の列車によってだったが、市内の散策には広域の移動が出来る自転車を使った。輪行したのだった。

 足利での手打ち蕎麦は「弁慶」さんという未知の店に出会えて随分愉しめたが、当初の目的を達することはできなかった。そのために再度、師走(12月の初旬)に訪れて、今度はうまい具合に目指す「八蔵(はちぞう)」さんの営業時間に間に合った。そこで無事に「鴨のつけ汁」のせいろ蕎麦を、心置きなく味わう事ができたのだった。

 足利の街には83軒もの蕎麦屋さんが立ち並んでいる。そこは手打ち蕎麦の一大メッカともいえる土地なのだが、多くの店の中でも蕎麦打ち名人会とでもいうべき集まりがあって、市街中心にある10軒の趣向を凝らした名店「足利手打ち蕎麦の会」や、蕎麦以外の店とも組んで作られている「うまいもの会」に属する蕎麦屋さんが有名だ。

 また足利の街は、蕎麦と共に伝統産業である「織物のまち」としても有名なところだ。

 さらに時代を遡れば足利幕府の開幕の当事者で室町初代将軍の「足利尊氏(あしかが たかうじ)」から続く足利一族の本貫(ほんがん)地でもある。そのためか、古い遺構も大切にされている歴史の街でもあった。

足利氏館跡の鑁阿寺(ばんなじ)

2012.12.02 撮影
 足利氏館跡の鑁阿寺(ばんなじ)。
足利氏館跡


栃木県足利市
足利学校や足利累代の墓所があり、
堀と土塁に囲まれている。
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 足利(あしかが)家は源氏の嫡流を名乗っている清和源氏の流れを汲む武家中の名家。平安期に足利(現在では北関東の小都市)を本拠として土着した武家貴族の一族であり、源氏の中では河内源氏の有力氏族、義家(よしいえ)流の源氏の血脈を継いでいる。

 鎌倉幕府を開いた「源頼朝(みなもと の よりとも)」の係累であり、執権職を世襲していた北条家とは重ねての婚姻関係によって深い絆を作り上げていた。そのために幕府内では重きを置き、権勢を誇った家柄だった。

 そうした鎌倉時代(1185年〜1333年)を通じて、足利一族の活動の中心地は政都である鎌倉にあった広大な足利館であった。足利の里は、平安時代(794年〜1185年)の後期に都から落ちて築いた一族の本営ともいうべき土地だったが、鎌倉時代となるとそこはもはや父祖伝来の開拓地(荘園)に過ぎないという状況になっていたようだ。それでも、広大な館や義康(よしやす)から始まる累代の墓などを始め、有名な足利学校なども置かれた一族の勢力拠点として、そこは存在していた。

 そうした往時を偲ぶに充分な遺構や町並みの佇まいが大切に保護されていて、街の到る所にそれらが残されており、今に繋がっている。長年に渡る街の人達の努力のお陰で、私達は楽しい歴史探訪が味わえる訳である。

 足利の街に残る歴史的な建造物を楽しみつつ、足利家の歩みや歴史の流れなどを再確認したのが年末に行った「足利詣で」のポタリング(のんびり行こうよ ポタリング 2012.11.02 「北関東 足利詣で」 2012.12.09 「足利詣で ふたたび」)で、それは美味しい蕎麦を愉しむための企画だったのだが、今回の旅は残念ながら蕎麦は登場して来ない。しかし、歴史探訪の続編ともいえる内容になっている。

 ただし今回は足利や足利の街が舞台ではなく、渡良瀬川を挟んで、その南に位置する場所が話題の中心になる。

 同じ清和源氏の一族ではあるが、足利一門の手で葬られてしまった氏族について書こうと思っている。足利氏一族と共に太平記にまつわる、武家の本流である「新田(にった)」氏の歩みに触れてみよう、というのがその中身となるものだ。

渡良瀬橋に沈む夕日 2013.04.14撮影   <渡良瀬橋に沈む夕日>

撮影は14日。
この日は新田庄の続編として鎌倉へ向かった新田義貞の足跡を追いかけた。
生品神社や兜掛けの松、矢止めの松、などの旧跡を巡った。

その帰路、足利の夕日を見たくなって東武線で渡良瀬川へ向かったのだった。
世良田の東照宮を参拝し、駅へ向かってから東武線で輪行して足利市駅へ。
東武(浅草)線の足利市駅はJR両毛線の足利駅とは渡良瀬(わたらせ)川を挟んで街の対岸(右岸側)になる。


ポタリングのページ「足利詣で」の際も触れたが、
名曲「♪渡良瀬橋」は森高千里さんの作詞だ。


渡良瀬川の岸辺に立って川面に沈む夕日を眺めていたら、北風が強くて風邪をひいてしまった
という可愛らしい歌詞に出てくる「渡良瀬の夕日」を見たくて
私達は足利の街へと向かった。

題名になった「渡良瀬橋」が見える川岸へと降りて、しばらくの間、沈み行く夕日を眺めたのだった。
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早川の畔

世良田(せらだ)へと流れる早川の畔。
川岸はサイクリングロードなので気持ちよく走れる。
早川の畔(サイクリングロード)

赤城の麓にある国定(くにさだ)方面からの川の流れは、
笠懸(かさがけ)野を南北に、南に向かって流れ下り、
新田庄(にったのしょう)を潤してその西端を進む。

川はやがて東西へ流れの向きを変える。
庄の南端を東へ向けて抜けて行き、その先で利根川に合流する。

<平安時代の貴族政治  − その政治機構と主な職制>

 藤原氏が「摂政(せっしょう)」に就いて統治した平安の世、政治の中心は言うまでもなく平安京が置かれた帝都、京都の街であった。

 関白や大臣(太政大臣、右大臣、左大臣)、大納言や博士といった律令制(りつりょうせい)に定められた役職の行政長官や、太政官(だじょうかん)に置かれた令外官である中納言・少納言、参議、内大臣といった役職や、蔵人(くらんど)や検非違使(けびいし)といった官吏など各種の職に就いていた貴族達はみな、政治の中心地である平安京(都)に住まっていた。

 都から地方(大宰や国や郡、里または郷、あるいは荘園など)を統括するために任命されて「国司(こくし;当初は任期6年で後に4年に変更された)」や「郡司(ぐんじ)」となって現地へ赴任したりもするが、代理権者を送って間接的に統治を行う場合が多かった。このような統治形式を「遥任(ようにん)」と呼ぶのだが、そうした学術的な個別名称が出来ている事を考えると、公卿(くぎょう)達の間では、任地へ赴かずに都に留まるのが一般的だったようだ。

 「摂政(せっしょう)」とは、執政職であり、天皇統治体制における政治代行者だ。幼少あるいは病気の天皇を代行して政治を司る役務を持つ公卿をさした。「関白(かんぱく)」は摂政と同様に執権職であり、天皇に対する政治代行者である。摂政は基本的に政治代行するのは天皇未成人の間だけだが、関白は成人後も代行した。代行というよりも、関白職が任命されていた期間は、むしろ天皇は政治から退いていたといえよう。あるいは、政治を司る大権を剥奪されていた、と言うべきか・・・。

 ちなみに「公卿」とは貴族一般を指さず、太政官組織の幹部となっている貴族に限って呼称する。つまり大臣、大納言、中納言、参議の職にあった三位以上の高級貴族を指す言葉である。
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大慶寺(だいけいじ)

<大慶寺(だいけいじ)>

新田庄の南西地域にある大慶寺は東武伊勢崎線の世良田よりも「木崎駅」からになる(車で15分)。

訪れた時には、すでに多くの牡丹が盛んに咲いていた。
この寺は新田氏の縁がある古刹。

新田家の祖「義重(よししげ)」の娘である「妙満尼」の開基といわれている。

源義平(よしひら)の妻となり、綿打郷に移って亡き夫の冥福を祈ると共に出家し、「妙満尼」となってこの寺を創建したという。

江戸時代を通じて徳川氏より厚く庇護されて、50世の法灯を継ぐ歴史ある名刹だ。


源義国の息子、長男である義重の家系が新田氏の祖となる。
その弟の「義康(よしやす)」は足利の地に留まり足利氏の祖となる。

なお両兄弟の父の義国は、長男のいる新田の地で没している。


以下にしばらく続く話題が律令制での用語解説となっている。

このため、「少し柔らかく、花などを」と考えて大慶寺で咲いていた牡丹の花姿を掲載する事にした。

 さて、律令制(奈良、平安に制定))は江戸の話などと違って大分昔の事である。用語に関しても今と違う用法をする部分もあり、機構も複雑だ。

 そうした訳で、以下にこの時代の歴史的な用語の意味を解説しておこうと思う。

<官名> <読み>  < 内 容 >
 神祇官  しんぎかん 朝廷の祭祀を担当する官種(機関の分類)。

太政官の下位にあり、平安後期には国衙と同位に地位が低下した。太政官の上位にあると思われがちだがそうではない。
 太政官  だじょうかん 政府としての最高機関を指す。

太政大臣、右大臣、左大臣、大納言の各階位の公卿で当初は構成されたが、後に中納言や参議が加わった。
(余談だが、1868年の明治維新でこの制度は復活し、1885年まで存続した。)

 これらは律令制における天皇の下に位置する官種である。

 なお、<官(かん)>は現在の官僚や官吏ではなく、部局や機構組織そのものを表す。機関のことを意味する用語なので注意を要する。

 上記の太政官と神祇官を合わせて「二官(にかん)」と呼ぶ。一般的には後述する政府機関である省(しょう)と合わせて「ニ官八省(にかんはっしょう)」の体制というのが平安時代の政治機構だ。
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大慶寺(だいけいじ) 本堂

大慶寺(真言宗)の本堂と鐘楼の様子
大慶寺 鐘楼

江戸時代、三代将軍の徳川家光により厚い庇護を受け、 元禄期には京都醍醐寺の末寺となって栄えた。

 また、「八省(はっしょう)」と呼ばれた機関は太政官のもとに設置されていて、そこが政務(実務)を担当した。

 後述するが最高政府機関である太政官以外の組織・職制が後に設けられ、そこが政務・実務を担当する様になる。この組織制度は律令外のものなので「令外官(れいがいかん)」と呼ぶものだ。

 太政官職位の下に位置する左弁官(さべんかん)と右弁官(うべんかん)の各部局は太政官組織にあって、彼らが事務局としてこれを統括したのだった。なお、左弁官局は中務省・式部省・治部省・民部省を、右弁官局は兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省を管轄した。

<省名> <読み>  < 内 容 >
 中務  なかつかさ 天皇側近、詔勅を起草する最重要な部局
 式部  しきぶ 文官人事、学校を司る
 治部  じぶ 墓陵や外交を司る
 民部  みんぶ 戸籍、租庸調、田畑の登記を司る
 兵部  ひょうぶ 武官人事、軍事を宰領
 刑部  ぎょうぶ 刑罰や良賤を決す
 大蔵  おおくら 出納、度量衡、物価を決する
 宮内  くない 宮中の食事、工房を司る

 いずれの省も、共に枢要な政府機構の部局を指している。

 太政官に置かれた従四位上から正五位下までの官位の左弁官・右弁官が八省を宰領し、部局である省機関には四等官として、卿(長官)−大輔・少輔(次官)−大丞・少丞(判官)−大録・少録(主典)の職位があり、それぞれの職位にあった叙任された位階者がこれを統括した。

 能力や実績が重視され登用されたわけだが、律令上の階位を保持していないと、役務に就任する事はできなかった。
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大慶寺 牡丹園 大慶寺 牡丹園

大慶寺は新田義重(よししげ)の娘が夫の菩提を弔うために出家して開基した寺だ。

新田庄の最高権威者の娘(未亡人)の創設であるため、極めて広い寺域を持っていた。

いまも、その寺の結構が偲ばれる、実に広い境内を持っている。

この寺の仁王門を潜った境内には大きな藤棚がある。
そして鐘楼の裏手(参道の奥)には無料開放されている牡丹園があって有名で、この季節には多くの来場者がある。

150種、3500株もの牡丹が咲き誇る花の名所となっている。
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大慶寺(だいけいじ) 牡丹が150種もあるとはこの大慶寺を訪れるまで、まるで知らないことだった。

さすがに、牡丹の花は古くから愛されてきた園芸種だけの事はあるようだ。

薔薇の花の様に、
世代を越えて多くの愛好家の手で、盛んに改良が成されたのだろう。

 さらに八省のもとには「職(しき)、寮(りょう)、司(つかさ)」と呼ばれる実務機関(事務部門や実働部署)が複数設置されていた。

 「職(しき)」や「寮(りょう)」は八省の統括下にあるが独立性をも保っていた。一方、「司(つかさ)」は完全に八省の下部組織としての機関であった。

 話はそれろが、「陰陽師(おんみょうじ)」で登場する「安部清明(あべ の せいめい)」は類まれな能力を発揮した人だ。

 彼が属していたのは中務省の配下にあった組織の「陰陽寮」。陰陽寮は小寮組織であったが、清明はそこに属していた技術系の官人であった。陰陽道や天文道を学んでこれを修め、役所内の技官長である「天文博士」について学ぶ「天文得業生」であった。

 類まれな陰陽五行思想による呪術的な力により次第に重用され、ついに天文博士(博士の職は通常留学生の学僧など最高有識者が就任するもの)に就任し、一条天皇や藤原道長らによって重用された。陰陽としての祈祷など、数々の儀式を要請に基づいて執り行い名声を高めた。

 その後、天文学で培った計算能力を評価かされて主計寮へ移動するのを皮切りに、高位を賜る出世を遂げた。最終的に手にした位階はきわめて高く、従四位下、官位は播磨守であった。その後、彼の家が陰陽師を世襲していくことになる。
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大慶寺 牡丹園

淡い花色の花弁をもった牡丹。
大慶寺 牡丹園裏に咲くシャガ

大慶寺の牡丹園の裏手には、竹林が茂っている。

その脇の隅(北側の奥)に「シャガ」の花の群落があった。

奥武蔵の低山ハイクではおなじみの花で、この時期、「吾野(あがの)」辺りの斜面でも一面に咲いている。

<機関> <読み>  < 内 容 >
 職  しき 中務省と宮内省の下に置かれた機関。
中宮職(以下職を略す)・修理・春宮の各機関が大職に、大膳・左京・右京・摂津の各機関が小職に置かれた。

四等官として、大夫(長官)−亮(次官)−進(判官)−属(主典)の職位があり、従四位下から従八位上までの官位の者が大職、小職を宰領した。
 寮  つかさ、りょう 中務、式部、治部、民部、宮内の5省の元に置かれた機関。
大舎人寮(以下寮を略す)・図書・内匠・大学・雅楽・玄蕃・主計・主税などの大寮(他多数)があり、陰陽・散位・大炊・主殿・典薬・掃部などの小寮があった。

四等官として、頭(長官)−助(次官)−允(判官)−属(主典)の職位があり、従五位上から従八位下までの官位の者が大寮、小寮を宰領した。
 司  つかさ、し 実務を担当する機関で、大司、中司、小司、下司に区分され多数の司が設置された。
図工司(以下司を略す)・内薬・兵馬・造兵・造酒・鍛冶などをはじめとする多数の大司、内礼・織部・采女など(他多数)の中司、主水・内掃部などの小司、主膳監、舎人監などの監(小司相当)、主鷹司などの下司、主殿署・主馬署などの署(下司相当)があった。

四等官だが組織には次官が置かれず、正(長官)-佑(判官)-令史(主典)の職位があり、大司のみ令史として大令司、少令司の区分があった。正六位上から少初位下までの官位のものがこれをを宰領した。
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大慶寺 牡丹園 こちらは斑入りの牡丹。

残念ながら花の名前をメモしておくのを忘れてしまった。
このため、花の種類が今となっては判らない。

 しかし、時代が進んで社会が複雑化してくると、二官八省の組織機構だけ統治や行政にそぐわない事態となってくる。このため、律令の規定を外れて実務に即した組織化が行われ始める。

 要するに、さらに専門分化された知識も必要となったし、役務の専任者としての経験や技術職としての能力も必要となって来たのだろう。考えてみれば、司法や行政組織として脱皮して進化を遂げるべきなのは至極もっともな事だ。そこで置かれたのが律令外の組織であり、職制である、「令外官(れいがいかん)」だった。

 太政官の下部組織ともいえる令外官について、以下に書いておこう。(ちなみにこれらは職位であり職務内容では無いので、念のためにそれだけ断っておく。)

<職位> <読み>  < 内  容 >
 中納言  ちゅうなごん 「介(すけ)」に相当;参議を15年以上務めた従三位の貴族が就任する。
 少納言  しょうなごん 「掾(じょう)」に相当;従五位下。
 参議  さんぎ 四等官の介に相当する役職。四位以上であるが階位の規定は無かった。
このために高位の貴族も就任した。
 内大臣  ないだいじん 摂関家の若手公卿に付与されたもので、正・従二位の殿上人が就任する。
 蔵人  くらんど 天皇側近で機密文書や訴訟を扱う官吏。
 検非違使  けびいし 犯罪者の捕縛、裁判を執行する行政官。
都の警察裁判権を司る要職で、後に国々にも置かれた。
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大慶寺 3500株が植えられている大慶寺の牡丹園。

そこには牡丹の花(150種)だけでなく、
ハナミズキの樹も植えられていた。

<平安時代の貴族政治  − 藤原時代における摂関政治 : 「摂政」>

 さて、「摂政(せっしょう)」は絶大な権勢を持った最高位の職制だが、清和天皇が幼少の折に「藤原良房(ふじわら の よしふさ;872年没 平安初期の公卿)」がこの職に就いたのがその始まりだ。

 元々有力貴族であった藤原氏であるが、なぜ良房がそのような権勢のある役務に付けたかと言えば、天皇の外戚となって皇室と密着したためだった。その関係から、政府(朝廷)の政治権力及び軍事権を掌握したのだといえよう。

 藤原時代の特色ともいえる「外戚」は藤原氏を支える政治手段として存分にその威力を発揮し続けるが、良房などはその好例と言えよう。

 彼は従五位下の蔵人(くらんど)から出世を遂げ、正三位・参議を経て右近衛大将、さらにそこから大納言・左近衛大将となり、その後には右大臣となった。そして遂には従一位を贈られ最高位の官位である太政大臣へと累進した、藤原北家の礎を築いた人物だ。「太政大臣」というのは、政府首脳であり、現在の首相は行政府のトップにしか過ぎないが、当時は行政だけでなく司法、立法、外交、軍事、警察など、すべての政治権力を集中させて掌握していた最高実力者だ。

 余談だが、「官位十二階の制」を整備したり、「遣隋使(けんずいし;小野妹子などが有名)」を隋(唐の前時代の中華王朝であり、当時アジアでの最先進国)に派遣するなど優秀な統治を行った事で有名な「聖徳太子(しょうとくたいし)」も奈良時代の「摂政」だが、彼は皇子であり天皇継承者であった。

 王位継承権を持たない人臣(皇族外の人)としては、この藤原良房が摂政についた初代の人となる。
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大慶寺(だいけいじ) 竹林

竹林で生えていたタケノコ。
大慶寺(だいけいじ) 竹林

<平安時代の貴族政治  − 藤原時代における摂関政治 : 「関白」>

 藤原氏は外戚関係を巧みに利用して次第に貴族の中で抜きん出た大きな実権を掌握し始め、「摂政」の最高職位を世襲し、さらに一門で主要な役職をほぼ独占するに到る。平安の長きに渡って最優位の貴族として、五摂家はいうに及ばず一門衆のすべてが、朝廷内で君臨する類ない一族として繁栄した。

 後の887年、宇多天皇の命(詔勅)で始まる「関白(かんぱく)」職は最高権威を持った行政長官であるが、この役職に関しても同じであった。

 関白の座には「藤原基経(ふじわら の もとつね; 891年没)」が初めて就くのだが、基経は良房に見込まれてその養子となった人物であり、当時の天皇にとっては伯父に当る人物だ。

 こうして、外戚にある藤原氏はおよそ400年に渡った平安の世にあって、「藤原時代」とも呼ばれる歴史に類を見ないほどの栄華を誇るのである。藤原氏は摂政の職だけでなく、その後、藤原一族だけで関白職をも独占していったのだった。

 後の戦国の世、長きに渡った戦乱の末、遂に全国統一を達成してその覇者となった「羽柴秀吉(はしば ひでよし)」の例などを考えると面白い。信長でさえ成し得なかった中国、四国、九州までをも席捲して統一の大願を果たした抜きん出る者の無い実力者なのだが、政権樹立時に彼の出自が足枷となって非常な苦労をするのだった。

 最終的に、秀吉は自らの政権を樹立させるために摂関家となることを選ぶのだ。時の藤原氏の氏の長者は前の関白「近衛前久(このえ さきひさ)」であったが、秀吉はこの漂白の関白に圧力と加えて、恫喝をもってその養子となり、藤原姓を手に入れる。これによって藤原秀吉となって藤原の姓を手に入れたことで、無事に関白職に就任するのであった。
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大慶寺(だいけいじ) 大慶寺(だいけいじ)

<摂関政治の終焉と天皇親政(院政)の始まり>

 「藤原基経(ふじわら の もとつね)」を初代の関白として任命した宇多天皇は、基経の死後には一転して天皇親政を行い始める。藤原氏の専制した摂関政治は淡く翳り始めるのだった。

 文章博士だった官僚の「菅原道真(すがわら の みちざね;)」をさらに高位の職制に登用し、遣唐大使や右大臣といった高位の役務に就けて藤原氏を牽制し始めるのだ。

 数代の天皇に渡って権勢を振るい、「和魂漢才」を唱えた道真は、やがて藤原基経との政争に敗れて大宰府へ左遷され、かの地で都への復帰を夢に見ながら死没してしまう。彼の死後、都は未曾有の災難(疫病や宮殿への落雷の直撃、基経長子である時平の死など)に襲われ始めるが、人は道真が怨霊と化して都から追い落とされた報復をしているのだと恐れた。

 そして非業の死を僻遠の地で迎えた彼を悼んで、盛んに追善供養を施しはじめる。しかし災厄は一向に収まらず、さらに人々を恐怖に落とし続ける。このため、道真の強力な霊を沈めるために死後にも関わらずさらに高位の官位を贈って、荒ぶる魂の慰撫に勤めた。

 霊を鎮撫するために、北野の地に壮大な天満宮を建立し、雷神と結びつけて平安期最大の怨霊と化した彼を崇め始めるのだった。北野、大宰府など各地の広大な天満宮やさら全国に広がる八幡社や天神様など多くの神社を建立したわけだが、彼は平安時代最大の恐るべき怨霊から一転して、今もなお神として祭られているのである。

 天皇による親政は、やがて上皇や法皇による院政へと発展していく。

 強力な権力を掌握した天皇が譲位後、上皇となって院を開き、そこを舞台に政治活動を続けるのであった。しかし、この統治は二重政権と言えるもので、やがて多くの弊害を生み始めることになる。
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国指定の新田庄遺跡  総持寺(山門と鐘撞堂)

国指定の新田庄(にったのしょう)遺跡のひとつ。

地域内には全部で11箇所、指定された遺構が残っている。
<総持寺(そうじじ)>

早川の畔に建つ壮大な寺院。

1193年に源頼朝が那須からの狩の旅の帰りに立ち寄った際の新田館がここだとされている伝説が残る。

しかし、館の主が誰であったかは諸説あって明快ではない。

現在は1Ha程の敷地であるが、往時は数倍の寺域を持っていたということだ。なお、館は一辺が200m(一町)の広さであり、領家旧の建築規模であったと言う。

西面を早川に望んで建っていて、残りの三方の敷地を取り巻く堀の痕跡がある。昭和初期まではそのように土塁に取り巻かれていたのだ、と言う。


1333年、鎌倉幕府の時の執権 「北条高時(たかとき)」が世良田の地は有徳の者多しとして、莫大な軍資金を課して、取立ての役人をこの地へ送りこんだ。

その徴税役人の傍若無人振りに怒った土地の所有者(荘園領主)である新田義貞がこれを切り、庄内で梟首したという話が「太平記」に記されている。

我の門前を汚す輩を許さず、とした館がこの地だと寺の掲示板は書いているが、それはどうだろう。義貞は青年期にはここより北東方にあった反町(そりまち)館に暮らしていたので、そこが我が館という事になる。それを考えると掲示内容は実態と食い違ってくるようだ。

<武家貴族の土着(武士団の形成)と権力の掌握>

 「大宝律令(たいほうりつりょう)」の発布によって始まった国家政策の枠組みである「律令制」では、日本の各地を国、郡、里に構成し、その三段階の階層的な支配体制によって精密に統治した。更に国をまとめて地方を統括する「大宰」としたのだった。

 たとえば、菅原道真が派遣された九州の「大宰府(だざいふ)」は九州にあった各国の上位にある地方政府であった。九州以西の9国3島の支配統括、及び海外との外交を掌握し、これを統括して治める権限をもっていた行政機関だ。勿論、独自に行動を起す場合もあるが、中央からの統御を受ける自治機関であった。

 国を統治する行政長官職が「国司(こくじ、くにのみやつこ)」であり、中央国家による国(分国された単位で、たとえば「上野国」など)の統治機関である「国衙(こくが)」を統治の拠点とした。

 その権限は絶大であり、司法、軍事、行政に渡って強い権能・権限をもった行政官であり、地方単位としての国の領主であり実質的な支配者といえる存在だった。(なお、国衙には直接の指揮下にある常設軍が置かれていた。)
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国指定の新田庄遺跡  総持寺(鐘撞堂)

国指定の新田庄遺跡  総持寺の鐘楼(鐘撞堂)
1731年、第21世の代 快瓣の住職時に造られたという梵鐘。

「いぼなしの鐘」といわれる類例を見ない仕上げがなされている。

旧尾島町商工観光課の解説では、その銘文は以下の内容という。

仏の説く教えが梵字で表されており、鐘音によってそれが伝わる。
暁の鐘がいんいんと響き渡ると、その音に接した人々の耳が洗われ、心が洗われる。そしてこの鐘音の届く処は、ことごとく清らかな世界になる。

鐘の一撞きによって人々が等しく苦界から救われ、自然の恵みを受け、豊かな社会が出現する、と記されていると言う。

 「国司(こくじ)」は律令制での官位であり、四等官の分類がある。守(かみ)や介(すけ:次官)や掾(じょう:判官)、目(さかん;主典)といった職制で階層化されていた。

 官職にある貴族が任期制でその任に就いた。当初の任期は6年であったが、後に4年へと改定された。後の大名領主による「国主」と違って、それは終身職ではなく有期職であった訳だ。

 国司はその地の戸籍を管理して人民を掌握し、「租庸調(そ・よう・ちょう)」の各種税を徴収して都へ納め、直轄領である「荘園(しょうえん)」を管理する事を役務とし、国営の地方統括機関である「国衙(こくが)」に常駐した地方官である。

 親王が国司に補任されるとそれを特に「太守(たいしゅ)」と呼んだが、彼らは高位の貴族であり王位継承者でもあるため、都に留まってその国を統治した。先に紹介した「遥任(ようにん)」での統治スタイルである。

 実際の統治管理は有力な貴族の中から下位職の「介」を選任し、現地統治者として赴任させ、都から指示を送って間接支配を行ったのであった。
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国指定の新田庄遺跡  総持寺(鐘撞堂) 総持寺

 一方の「郡司(ぐんじ、こおりのつかさ)」だが、こちらはその地の豪族が主体として任命され、国司を補佐するために設置された地方官としての役職名であり、「郡衙(ぐんか)」を拠点として統治を行った。

 律令制での官位の無い微妙な役務であったが、国司の下位職である。その意味では地方での統治が二重構造にあったといえるが、その権能は絶大なものを持っていた。

 そして国の下に分割された郡を統治するために任命されると、代々に渡ってその職を世襲した。

 彼らの多くは地方(郡)に根を張る豪族であったが、とはいっても彼らの源泉も都から派遣された官僚がその任地に土着した事から始まる氏族であって、多くは下位層の貴族を祖として持つ人々であった。

 だから彼らも地方独自の出自者ということは少なく、地方独自にそこで自然的に発生した勢力という事ではなくて、少なからず都との絆や深い関係を持っていたわけであった。
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国指定の新田庄遺跡  総持寺(鐘撞堂)

国指定の新田庄遺跡のひとつ(全11箇所の遺構がある)  総持寺の本堂

瓦には新田の紋、丸に一両引きの「大中黒」の家紋が見える。
総持寺

 赴任地である各地に貴族が根付いて、その土地の有力者とも婚姻し、次第に現地に土着してさらに勢力を増していったわけだ。

 こうした事もあってか、平安末期に平氏に追われた源氏の各氏族の根拠地が関東各地に点在している。河内源氏や近江源氏に表されるように、源氏の氏族の根拠地は都のある関西・近畿地方であったが、都から遠く離れた関東の地へ追われて、次第に坂東の地に地盤を築いたのだった。

 しかし関東には源氏だけでなく、古い時代に勢力を築いた土豪もいたし、源氏同様の武家貴族の流れである平氏の各氏族の根拠地も多かった。

 そのようにして元々は都周辺にあった武家貴族の一族達は、やがて多くの支流となって各地に散在し、さらにその地で婚姻や養子縁組などによって縁戚関係を結んで小勢力を参集した。

 狩を主体にして独自の武芸を磨いた強固な「坂東武者」という兵団(武士団)の基盤を作り上げていったのだった。
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大館(おおだち)八幡宮

新田庄の南端、大館地区にある「大館八幡宮」の拝殿の様子。

社伝によればその創建年代は不詳とのことだが、「大館家氏(いえうじ)」が勧進したとされる。

古い歴史をもった神社なのだが、本殿は大館氏の統治していた時代のものではなく江戸期に津軽氏(旗本)の領地となった際に再建されたものだ。


ちなみに、この神社の祭守は誉田別命(ほったわけのみこと)。
源氏の守護神である。
<大舘八幡宮 と 大舘氏居館跡>

神社勧進の主、
「大館家氏(おおだち いえうじ)」は、新田氏に連なる一族である。


新田義貞の曽祖父「政氏(まさうじ)」の弟の家氏がこの郷を本拠として定着して別家を起した。「大館(おおだち)」氏を名乗ったことから新田家の有力氏族である大館氏の歴史が始まる。


家氏の子である「大館宗氏(おおだち むねうじ)」は息子の幸氏、氏明、氏兼らとともに義貞の倒幕へ賛同し、一族郎党を従えて旗揚げに参集し、共に挙兵する。

鎌倉進撃では「極楽寺の切通し」を攻める第一軍の大将として本軍の義貞を支えた。
稲村ガ崎の浜を伝って鎌倉への突入を果たすが、防衛軍の抵抗が激しく、鎌倉市街戦でくしくも戦死してしまう。

残った息子の氏明は鎌倉攻め以後も義貞と行動を共にし、その側近にあって各地に転戦する。
義貞の死後も南朝側にあって主家(義貞弟の脇屋義助など)を支えて戦い続け、ついには九州の地で戦死する。

大舘一族はその後、許されて足利幕府内で将軍へ近侍することになる。

 摂政関白の職位を独占し、長きに渡って専制を行った藤原一族であるが、897年に即位し30年に渡って皇位にあった醍醐天皇によって親政が行われて、さらにその後、938年になると平将門が反乱を起すなど、平安期における政治主体の藤原政権は次第に翳りを見せ始める。

 そして平安後期になるとその勢力はさらに衰え、やがて平家一門の台頭によって武家政治(とはいっても平氏が行ったのは武家主体による貴族政治であった「院政」である)が始まり、その没落は決定的となるのだった。

 しかし、中央政界での平氏の登場以前に、地方においてはすでに大きな変化を宿し始めていたのだった。

 先に見たように、国衙(こくが)や郡衙(ぐんか)、貴族の支配する公領(国営農場とでもいうべきか)とは切り離れて、土地の所有や富の蓄積が独自に起こり始めていたのだ。

 地方においては土着の有力な勢力である各地に散在する「武士団」によって新たな農地が盛んに開拓され、その農園主である各地土着の武士層(武士団の長者)が新たな支配層となって大きな力を蓄積していたからだ。
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大館八幡宮 拝殿

三百年前の江戸時代、弘前(ひろさき)藩の分家、津軽氏の領地として二千石の飛び地であった。この地を統括する代官所である津軽陣屋がこの字(あざ)に置かれていた。

この八幡宮は飛び地の領主となった「津軽信敏(つがる のぶとし;1683年没)」によって社殿が再建されたもの。
村内に伝わる記銘によれば
「領主 津軽藤原朝臣(ふじわらのあそん)信敏、上州新田荘大館八幡宮奉再興」とあるという。

元々、新田支族の大館氏の本貫地であった。室町幕府瓦解後、大舘家は没落してしまった様だ。その後の江戸時代となると、豊かな郷もこの神社も荒廃してしまったのかもしれない。

津軽家は日本最北の大名家であるが、
「津軽信敏(つがる のぶとし;1683年没)」は藩主家とは別家の支族である。


後にその家系は領地を増やして「大名」に列する事になるが、信敏の代ではまだ四千石を納める旗本であった。


社殿を再建したのは、徳川家人の有力「旗本」の時代の話になる。

 ところで、藤原氏の趨勢を追い落としたのは院の権力であったが、そこで新たな政権を樹立した「平清盛(たいら の きよもり)」は桓武平氏(かんむへいし)を出自とした氏の長者だ。

 桓武天皇の子孫である高望王(たかもちおう)の時に「平(たいら)」姓を拝領して下野した事で始まった武家貴族の流れである。臣籍降下による氏姓の下賜によって、「平(たいら)」の氏姓が始まるのであった。

 「源平藤橘」と呼ばれ、平安貴族を代表する氏族のひとつであるが、藤原一族の専制によって一族は悉く閑職に追いやられ、源氏同様に常に藤原一門の風下にあった。

 こうした状況にあって平氏の人達は藤原一族の家臣となって、それをつてに官位に就く場合が多かったのだ。

 中央の貴族社会においては階層的な不満が高まっていたし、地方においても実力相応の富の確保を行うべきだ、という土地所有者としての不満も新しい勢力の中で膨張していたのだった。
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大館八幡宮 拝殿

社殿の再建は1682年のことで、現存するのは300年前の社殿である。

津軽信敏は「一町一業種一年間無税のお触れを発布したとされ、商業振興に勤めた英邁の領主だったという。
津軽信敏(つがる のぶとし)の家は、先に書いたようにやがて6世代後に黒石藩一万石を領する大名となる。

大館郷の八幡宮を再興した当時はまだ四千石の旗本の家だったが、大名家と違って旗本は出費が少なく、裕福な内情であった。

領地の四千石の半地は津軽一族の本拠である陸奥の地であるが、残る半地が飛び地であり、この上野国大館郷だった。


津軽家は源朝臣(みなもとのあそん)ではなく、当時最高の権勢を誇っていた藤原家に連なる氏族であった事が先の銘文からわかる。



平安朝からみた津軽の部族は、王朝にまつろわぬ北方の異民族を束ねる不思議な氏族であった。

<鎌倉幕府の成立と形骸化>

 貴族支配の政治体制を覆して真の意味での武士の世を実現した「源頼朝(みなもの の よりとも)」は新たな政治組織として「幕府」を興し、全国統治の拠点を京都ではなく鎌倉の地においた。

 前時代に平氏に追われた源氏の各氏族の根拠地(同時に平氏の各氏族の根拠地も多かった)が関東各地に点在していたためだ。

 三浦氏・土肥氏・和田氏、(後に江戸氏や河越氏が従う)といった相模の武士団、北条や宇佐美、(後に伊東氏が従う)といった伊豆の武士団、千葉氏や上総氏といった上総・下総の武士団、などの源氏の一族や平氏から頼朝に従った氏族などが関東一円に散らばっていたのだ。(地名との混同がある氏族名には「氏」を後ろにつけた。)

 彼らは当初、頼朝の挙兵に対立するが次第に協調して、最終的には新田氏や足利氏・小山氏・宇都宮氏・益子氏などの上野や下野の武家勢力、佐竹や大掾などの常陸の武家諸族、武田や秦野、比企氏や畠山や熊谷氏や村山などの武蔵や甲斐の武家氏族を加えて、関東全域を網羅する武士団として結束していく。(地名との混同がある氏族名には「氏」を後ろにつけた。)
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大舘八幡宮 境内の大ケヤキ

周囲は開けた田園地帯であり、古くからこの郷が実入りが高く、豊かだった事を思わせる。
大舘八幡宮 境内の大ケヤキ

大舘郷は、新田庄の南端に位置する。

目の前は南北に西端を流れていた早川が流れの向きを変えて、利根川に沿うようにして東へ向けて流れていく肥沃な土地だ。


新田庄の北端の笠懸野など伊勢崎や桐生・薮塚・太田に接した地域から考えると、ここは随分と穏やかな雰囲気がある。その地区に建っている屋敷が広くて大きいし、蔵が残された家も多い。


こうした様子は江戸時代の旗本領を感じさせるのに充分なものだろう。

 三方を山に囲まれ、前方に海が開けた四神相応の要塞都市ともいえる鎌倉の地に政府機関が置かれ、地方を管理する官吏(地頭)が任命されて赴任していった。彼ら「地頭」たちがその後に土着して武家勢力の新たな元となって行くのだが、武士達が直接統治するために各地へ散らばっていった。あるいは父祖からの開拓地を安堵されて、その地の正式な統治者として任命された。(安堵と奉公)

 しかし頼朝の直系は僅か三代で潰え、武家諸族の連合政権的な色彩を持った幕府政治はその後も続くが、それは源氏嫡流の将軍(征夷大将軍)によるのではなく「執権(しっけん)」職である北条氏が勢力を張ったものに変わっていったのだった。

 その北条家は平氏の一門であり、祖を高望王とする桓武平氏の流れであった。鎌倉幕府は清和源氏の宗家によって開府された武家(土地開拓者)による直接統治の政権であるが、それは連合政権であり、御家人と呼ばれる有力な武士団の将軍家奉載によるものであった。

 源氏宗家の源頼朝家の滅んだ後、最高勢力を誇った北条家により幕府将軍職は形骸化された。そして北条一門によって執権職を世襲する事で幕府体制は維持された。

 源氏の始めた政治統治は三代で滅び、同じ鎌倉幕府(鎌倉時代に分類される治世)とは呼んでも、その実質は平氏一門の末裔によって簒奪されたものに執り変わっていたのであった。

 「鎌倉時代(1185年頃〜1333年)」と一括りにいわれるが、それは本来、三代に渡った源宗家が滅んだあとは「北条時代」と呼ぶべきものだろう。なお、;「イイクニ創ろう鎌倉幕府」として覚えた1192年の幕府開始は今では塗り替えられて1185年が主流となっている。鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮で頼朝が「流鏑馬」を執り行うなど「幕府」機関の機構を整備し始め、守護・地頭の設置権を認められた年である。このため、征夷大将軍として補任された1192年からは時代開始が遡っている。
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普門寺(天台宗)

1012年、平安(藤原時代)の最盛期ともいえる熟成期に開かれた寺院。
当時から天台宗の寺院の中では、舎格が高かったのだろう。
<普門寺(ふもんじ)>

普門寺は天台宗の古刹である。

比叡山(天台宗の総本山)にある僧坊の学僧であった、静算と言う人物によって開山された寺院だという。


1012年から始まる寺の縁起に比すると梵鐘は比較的新しく、江戸初期の1681年に鋳造されたものだという。

その銘文には、
新田義貞の曽祖父の政氏(まさうじ)が祖先を崇めるために、1259年に八幡大神をこの地に建立したことが記されていると言う。

また、二十一世住職の心算の願いによって鐘を鋳造したことなども記されているという。

<建武(けんむ)の新政 (「建武の中興」)>

 1333年、後醍醐天皇からの綸旨を得て鎌倉へ攻め上り、形骸化された鎌倉幕府を潰えさせ、簒奪者である北条一族を滅亡させた兵(つわもの)がいた。その中心となった武将は源氏の一族ではあるが地方の小豪族にしか過ぎなかった弱小勢力の当主。頼朝の源宗家(源氏 嫡流の血脈)や足利一族と祖を同じくする清和源氏の一族である「新田義貞(にった よしさだ)」だった。

 新田の同族であり鎌倉幕府の実力者であった足利尊氏(あしかが たかうじ)は、幕府執権である北条家からの命を受けて幕府勢の総大将として鎌倉から出撃し、反乱勢力である朝廷側(上皇派)の鎮圧に向かう。しかし一転して幕府へ反旗を翻して、京都の「六波羅探題(ろくはらたんだい)」を攻略し始めるのだった。

 ところで「探題」とは幕府の役職名であり、また機関名でもある。六波羅は朝廷を統治するためのもので、京都周辺を中心に西日本を統括した政治府だ。同じく九州を統治するための政治府として「鎮西(ちんぜい)探題」があった。

 後に始まる室町幕府が「鎌倉公方(かまくらくぼう)」と呼ばれた「関東管領(かんとうかんれい)」を古都となった鎌倉に置いて関東を統治したのと同じで、いわば西日本(特に対朝廷を意識)に置かれたもうひとつの幕府である。室町時代には他に、鎮西探題に倣って「九州探題」を置いたが、他に「奥羽(おうう)探題」なども設置した。それらはみな同じ役割の政府機関である。
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普門寺の鐘撞堂 普門寺の梵鐘

第二次大戦の末期、日本の物資は欠乏し、銃弾を作る鉄さえ確保するのが大変な状態だった。

この瀬戸際、村に残る農耕馬などは軍馬として取り上げられ、寺にあった鐘などは皆、供出させられた。

日本全国の郷村で、実に多くの貴重な梵鐘が失われたのだ。

新田庄に残る寺院を廻ってみると、どの寺の鐘も今に残っている事に驚く他ない。
どの鐘も、その鋳造は江戸初期まで遡る訳だが、
類まれな文化的価値を軍部、あるいは在郷軍人会も了解していた、ということなのだろうか。

 天皇からの宣下(綸旨;りんじ)を受けた二人の武家の力による倒幕軍によって成された鎌倉の陥落と六波羅の崩壊により、鎌倉幕府はついに終焉した。そしてその後は「武家」による政治ではなく、再び「貴族による政治」が行われる事になる。

 武家を統括する貴族を主体にした天皇親政ともいうべき政治機構によって、平氏が支配する状態に変質してしまった鎌倉幕府に対する新しい統治体系が作られる。見落としがちだが、政治体制としては鎌倉幕府時代にあっても律令制は残っていて、いわば国家統治の機構上は朝廷と鎌倉による二重政権であった。それが鎌倉幕府の終焉によって藤原時代ともいうべき平安の旧に復し一本化された統一政権(行政府としての朝廷組織)となった訳だが、それは後に「建武(けんむ)の新政」と呼ばれる流れとなるものだった。

 朝廷支配の貴族政治の時代が二人の武家の棟梁達の活躍によって再び始まるわけである。しかし、この政治体制も、しばらく後には南北朝の動乱期に変わっていく。
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普門寺の鐘撞堂 1012年の普門寺開山から時代が下って室町の世となると、寺は宗門僧徒子弟の研修道場としての役割を持つにいたる。


その傘下に二百余の末寺をもつ大寺院となったということだ。

現在は全国のコンビニよりも寺の数の方が多いのだと言われるが、200の末寺をいうのは大した規模に違いない。

<源氏の血脈;新田氏の系譜  八幡太郎と呼ばれた「源義家(みなもと の よしいえ)」>

 そもそも源氏の姓は皇籍にあった親王(皇子)が下野する際に名乗りとする下賜姓である。その氏の系統には武家源氏と公家源氏があって、都合21家もの主要な家の流れがある。武家中の大氏族といえよう。

 坂東を根拠とする源氏の祖は清和天皇であり、第六皇子の貞純親王の子である経基王が下野する際に「源(みなもと)」姓を賜った事から始まる「清和源氏」の血脈だ。武家源氏を代表する氏族の一つであり、彼ら一族は本拠を河内国においたので「河内源氏」と呼ばれる。

 その清和源氏の流れにあって、新田氏の一族は鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝(みなもと の よりとも)の同流(源氏宗家:清和源氏の嫡流家である義家流源氏)から分かれた一族である。頼朝より四代前の当主が義家であり、嫡流家は義親(よしちか)が継いで、その弟である義国(よしくに;新田氏の祖)は宗家当主とはなれずに下野国の足利庄や上野国の新田庄を本拠地とし、そこで土着した。

 「義国(よしくに;1155年没)」の話をする前に系譜を明確にするため、ひとまず彼の父親である「義家(よしいえ;1106年没 義家流源氏の祖となる人物)」について紹介しておこう。
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普門寺 普門寺では、源氏ゆかりの寺としての特色があり、堂内には八幡神像が安置されているという。

「八幡神」は神像であり仏教のものではない。

しかし清和源氏の一族の守り神でもあるので、この千年を越える由緒ある寺にも安置されたものか。

なお、その像には、
1259年の背銘があるというから、開山からおよそ250年後の鎌倉時代に奉納(安置)されたという事になる。

 義家は「八幡太郎(はちまんたろう)」と呼ばれた清和源氏(河内源氏の一族)の嫡流であり、比叡山の強訴の鎮圧、鎮守府将軍で陸奥守であった父の「頼義(よりよし)」とともに従軍した「前九年の役」などで活躍する。

 そうした事柄の勲功を賞され出羽守に叙任され、1070年には下野守に叙任され、行幸の際の守護(つまりは北面の武士であり、衛士としての役務をこなした訳だ)を度々務める。

 その後の1083年には陸奥守となって清原氏の内紛に介入し「後三年の役」を起した。

 頼義は陸奥守として北方を鎮圧するに際して、土着の豪族である安部氏と激しく争った。長年の宿敵である安倍氏を倒して陸奥国の統治に成功したが、その際に清原氏を頼った事から、清原氏の台頭が始まる。そうした経緯に絡んで義家の代となった後、力を増した清原氏とは紛争状態を続けていたのだった。そして義家は激戦の末に遂には清原氏を打ち破るが、自らの近畿勢力だけでなく国衙の軍勢も動員して政府軍として戦って勝ち得たものだった。

 この清原氏との長い戦いが私戦とされて、勝利を得た翌年になると陸奥守を罷免されてしまう。それから10年の間、義家は閉塞状態にあるが、後の白河法皇による彼の登用によって再び表舞台に登場するのだった。

 義家は幾多の戦いにおいて大いに活躍した名将の誉れの高い武人であったし、朝廷での地位も高く、陸奥国主を勤めもした。

 白河法皇による院政時は丁度、時代の変節点であり、藤原氏による摂関政治から院政時代への節目の時期にあたる。このため、藤原氏の部族ではない源氏の一族が登用されたのでもあろうが、義家の才能の高さも抜擢の要因となったに違いない。

 最終的には閉塞を解かれて正四位に昇り、院への昇殿を許されるまでになる。晴れて高級貴族でる「殿昇人(てんじょうびと)」となるわけだ。
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反町館跡に残された堀

<国指定史跡 新田庄遺跡
   新田氏居館 反町館(そりまちやかた)跡 >


館跡に残された堀。

敷地の周囲を広い堀が取り巻いている。
いかにも中世の武家屋敷跡といった雰囲気が色濃く残る。
反町館跡に残された堀

<源氏の血脈;新田氏の系譜  義家の子、「源義国(みなもと の よしくに)」>

 有力な貴族として認知されて、「義家(よしいえ)」の子息もそれぞれ国司級の官位に就く。その子息中の三男(一説には四男とも言われる)が「義国(よしくに)」であり、式部丞(じょう)に叙任され加賀介(かがのすけ)を勤めた人物(加賀国の国司を補佐する次官級の国司)であった。

 義国は新田(にった)、足利(あしかが)両家の家祖となる人物だが、性格は荒くて度々問題を起して遂に別業(なりどころ;別邸)のあった下野国足利に蟄居させられてしまう。父の義家が下野守であった際に足利の地に領地を持っていたのだろう。

 その性格から「荒加賀入道」と呼ばれたり、蟄居謹慎地の名を採って「足利式部太夫」と呼ばれたという。「荒加賀入道」は加賀介の役務に就いているのに勝手に出家し、それが問題とされて朝廷の勘気を被ったため名付けられた通り名らしい。また、「足利式部太夫」のほうは式部丞という官位にあったために呼び習わされたものだろう。最後に就いた尊称の「太夫」は役職の総称である「諸太夫」から来ているはずだ。

 義国を根源とする清和源氏の末裔達はやがて多くの氏族に枝分かれしていく。

 しかし、そうした粗野とも取れる荒い性格の義国を祖としたにも拘らず、後世各地に散らばって大変に栄えたと言えよう。どの家も武人としての資質を義家や義国から引き継いだようで、その支族の当主達は武家としての才能に恵まれていた。繁栄はそうして受け継いだ才能のためと言えようが、相伝された家伝の役割(一子相伝として受け継ぐ家伝来の秘伝)も大きかったに違いない。

 義国は河内源氏の一族で都に勢力を張っていた武家貴族の当主である。

 加賀介であっても任地へは赴かずに都を生活の場としていたが、しかし時の内大臣を勤めていた「藤原実能(ふじわら の さねのり;右近衛大将)」との政争に破れ、下野国への下向を命じられる。いわば先の菅原道真のように力あるあまり、都から追い落とされてしまう訳だ。
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反町館跡に残された土塁 国指定 新田庄遺跡 「反町館」跡に残された土塁。

広い堀の内側を土塁が取り巻いている。

<源氏の血脈;新田氏の系譜  義国の子、「源義重(みなもと の よししげ)」>

 都を追われ、先に荘園化に成功していた足利の地に土着した義国。

 その義国の子息達の長男、「義重(よししげ;1202年没)」が上野国の新田を開拓してそこを荘園化することに成功し、その後、荘園を藤原氏へ寄進することで新田庄(にったのしょう)の下司職に補任され、支配を固めた。

 父が荘園領主として統治していた「足利庄(あしかがのしょう)」を離れて新田の地に移り、別家を建てたのだった。それが新田氏の祖となり、弟の「義康(よしやす;1157年没)」方が足利の地に残って足利氏の祖となる。義国の子供の代になって、清和源氏は新田、足利の両家に分かれたのだった。

 ところで「河内源氏(かわちげんじ)」というのは、河内に勢力を張った源氏の流れであり、清和源氏が出自を表す呼称であるのに対して、その勢力地盤を指す言葉だ。摂津源氏、大和源氏と共に源氏の三大主流であった。

 そのなかで河内源氏は後に分流して大いに栄え、石川源氏、甲斐源氏、常陸源氏、下野源氏(足利氏)、上野源氏(新田氏)などに分派していく。いずれも国主に任命された土地であったり、荘園主となった際の領地や別業(なりどころ;別荘地ともいうべき直轄領)の所在地だろう。任地で土着して勢力を張り、その地域で強固な地盤を固めて、どの流れも名家を誇る源氏の一族となっていった。

 そうした例に漏れず、義国の息子達も荘園領主となって、それぞれの支配拠点に土着していったのだった。長男の「義重(よししげ)」が新田(にった)氏の家祖となったわけだが、その経緯を記しておこう。

 当時の新田の地は1108年に起こった浅間山の大噴火で酷く荒廃していた。火山灰に覆われた(30cmほども積もっていたと考えられている)その荒蕪地、これを律令下では「空閑地(こかんち)」と呼ぶが、義重はそこを開拓したのだった。開拓というよりむしろ再開発したといった方が適していよう。

 当時の制度においては「空閑地」は公領(国衙や郡衙の支配地域;国家農園地)とは異っており、開墾によって私的所有が許されていた土地であった。

 1153年に義重は「内舎人(うどねり)」に任命され、院政を敷いた鳥羽法皇が建立する金剛心院の造営当初に「藤原忠雅(ふじわら ただまさ)」へ開墾地を寄進する事で、荘園として成立させた。荘園は領家の私有領となるもので国衙の収公の対象外の農園、「不輸の権」といい、祖(租税)の対象外の農地だが、この19郷の開拓農地をもって初期の新田庄が1157年に成立し、同年に下司職(げししき)に任命される事でその土地の実質的な支配権を確立させたのだった。新田庄はその後発展を重ねて、初期成立時の19郷を含んでさらに膨らみ、早くも1170年には56郷までに拡大する。新田郡内のすべての郷を構成する広い範囲を包括する大荘園へと変遷したのだ。

 新田の地に上野国の国府があった訳では無かったが、浅間噴火によって「空閑地」と化す前から発展していた事は、国家経営の主要幹線である東山道がここを通り、しかも他国への分岐点が置かれていたことや、日本最大規模の「郡衙(ぐんか; 「国衙 こくが」同様に郡を統治する国家機関)」が置かれていたことでも判る。奈良から始まる古代律令国家の成立初期から中央(政府)に直結して「租」の運脚や「庸」「調」の移動、さらには東征のための軍勢などが行き来をした街道の拠点でもあったのだ。


 いったいに気候の厳しい上野国にあって、山間部とは異なって国の最南端に新田庄は位置している。北西風の「空っ風(からっかぜ)」が吹き荒れるので冬場は勿論激しい状況だが、しかし降雪がある訳ではなく、また冷害の心配もない。以北の前橋や桐生などといった山稜に接する厳しい土地から比べれば、風土はよほど温暖で安定しており、過ごしやすい土地と言えよう。

 新田庄の中はいずれの郷も水利にも恵まれ、農耕に適した肥沃で安定した土地である。開拓により増産し、それによる増収が少しの努力を払うことで容易に入手できた場所ではないか、と思う。

 義重はそうして開拓を進めて所領を増やし、中央(都の平氏系の藤原氏)と結んで土地所有の「安堵」を得て、開発農地の支配権の裏打ちを得る事に成功していく。1159年には「大炊介(おおいのすけ)」へ任命され、68年には従五位下に叙任され、順調に立身を重ねて勢力を築き上げていく。そして子孫を荘園内の各郷へ配する事で、強固に一族の地盤を確立させていくのだった。


 高崎の「里見(さとみ)」氏や「山名(やまな)」氏(のんびり 行こうよ ポタリング;  2013.06.09 「城下町 小幡を訪ねる 復路編(山名郷)」)などの根拠となった郷は、新田からは遠隔の地である例だが、子供達の多くは地場の新田周辺で力をためていった。

 金山城主となり戦国大名へと成長していく岩松(いわまつ)氏や由良(ゆら)氏、徳川家の祖とされた世良田(せらだ)氏や得川(とくがわ)氏、新田庄北方に広がる笠懸野に土着する田部井(ためがい)氏、南部に定着する大舘(おおだち)氏、などの竜力な支族を構成するのだった。
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反町館跡に残された土塁。

照明寺(しょうめいじ;反町薬師)となった今は、この盛り土が武家屋敷の土塁(城壁としての石積みが成される以前の防御機構)である事をつい、見落としてしまう。

敷地はかなり広大であり、新田義貞はここに成人後に住んだとされる。往時は館だけでなく、さらに堀の外にも、幾多の一族縁者や臣下の建屋などが軒を並べていた事だろう。
反町館跡に残された土塁

<源氏の血脈;新田氏の系譜  義貞と新田宗家の支流>

 さて、新田義貞(にった よしさだ;1338年没)の事だ。

 義貞は「義国(よしくに)」の息子の兄方である「義重(よししげ)」の直系であり、新田本家の八代目当主であった。だから新田・足利の義国を祖とする両家にとって、新田本家の方が両家の祖である義家・義国・義重と続く、その嫡流の家柄なのだ、といえよう。

 血脈を大切にした当時の武家のあり方にとっては「血筋」は極めて重要なことであった。何故なら嫡流の相続者だけが「家伝(家重代の技)」や主要な土地(領土)、郎党達(兵力)を受け継いだからだ。

 新田氏の流れは系図上では義家流本家の「源頼朝(みなもと の よりとも)」とは極めて近い縁戚である訳だが、しかし鎌倉時代、家柄に比べて新田氏の勢いは幕府内では極めて弱いものだった。頼朝の幕府樹立の挙兵に、当寺の新田家の当主が賛同せず挙兵を躊躇ったため、幕府成立後に将軍家から疎まれてしまったのだ。

 しかも足利一門と異なって鎌倉家の外戚である北条一門(執権家)とは婚姻関係がなく、将軍家との血脈としては実に弱いものだった。
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反町館跡 照明寺(反町薬師) 照明寺(反町館跡)の佇まい。
(反町薬師とも呼ばれ親しまれている。)


さすがに館跡だけあって、実に落ち着いている。

寺域には、深い澄んだ空気が満ちているのが、感じられる。

 1333年。

 清和源氏一族の名門と呼べる新田家の当主であり、本来は将軍家を相続できる源氏の格式を持つのにも拘らず、執権の北条家の命令によって幕府の先鋒軍となり、千早城(ちはやじょう)に親王と共に立て籠もる後醍醐天皇側の名将「楠木正成 (くすのき まさしげ)」を攻めていた。

北条執権家は幕府の最高権力者だが、出自を見れば平家の一門である。源氏の嫡流である義貞は、旧来の敵方の命により、鎌倉の地からの遠征を余儀なくされていたのだった。

 そうした事も遠因となったに違いなく、やがて義貞は遠征していた戦場を3月になると離脱して故国へ戻り、そしてその年の5月、ついに「鎌倉倒幕」の旗を新田庄にて挙げる事になるのだった。

 しかし、倒幕の後に来る南北朝の動乱に巻き込まれて、同族の足利尊氏と雌雄を決する事になる。新田義貞は南朝側にあって善戦し、九州の地にまで尊氏を追い落とすが、やがて綸旨を得た尊氏の反激戦に敗北を重ねていく。不本意のままに北陸の地、越前の戦場で討死を遂げてしまう。さらに義貞の死後も戦闘を継続していた弟の「脇屋義助(わきや ぎすけ)」や同族の「大舘(おおだち)」氏も相次いで九州の地で倒れ、遂に新田宗家は滅亡する事となる。

 そうした経緯は「太平記」の内容なので、どなたもご存知のことだろう。
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反町館跡 照明寺(反町薬師) 反町館跡 照明寺(反町薬師)

反町館であった当時、ここにはどんな館が建っていたのだろう。

 さて、新田氏の祖となる「義重(よししげ)」の弟である「義康(よしやす)」の子孫から数代進んで、さらに分かれたのが足利氏の一族だ。

 だから鎌倉宗家からすれば、大分遠い縁戚となる一族だったはずだ。しかし足利氏の祖となる義康は鎌倉幕府を開いた頼朝とは婚姻により近い親戚関係にあり、義康の嫡子である「義兼(よしかね)」は「北条時政(ほうじょう ときまさ)」の娘「時子(ときこ)」を妻とした。

 このため、幕府での地位は北条氏(頼朝の妻である「政子(まさこ)」の実家)の次に位置するほどの高いものを持っていたのだった。源氏嫡流と異ならない新田家とは比較にならない程の知名度を持ち、地位的に優遇もされていた。その時代の足利一門は、すでに並びない権勢を持っていたといえよう。

 鎌倉幕府滅亡後に新しく室町幕府を興したのがその一族のお屋形様であり武家の棟梁と呼ばれた「尊氏(たかうじ;1358年没)」だった。義国から数えると、新田義貞とは同代(共に8代目の当主)の人という事にとなる。

 頼朝の家系が僅か三代で途絶えた後、さらに義重(左衛門尉、大炊助;新田太郎と呼ばれたの家系の祖)の直系が途絶え新田宗家は滅んで義家流源氏の嫡流は滅んでしまったが、山名(やまな)氏(のんびり 行こうよ ポタリング;  2013.06.09 「城下町 小幡を訪ねる 復路編(山名郷)」)や里見(さとみ)氏といった新田氏の支族は宗家と異なって滅亡から免れる事ができた。

 そのため、新田一族の血脈は無事に温存されて後世に受け継がれる事になる。
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反町館跡 照明寺(反町薬師) 手水の設えが実に素晴らしい。

竜頭だけではなく、克明な胴まである。

<源氏の血脈;新田氏の系譜  新田宗家の支流 : 山名、里見の流れ>

 新田氏の祖となる「義重(よしひげ)」の長男である「義範(よしのり)」が「山名三郎(やまな さぶろう)」と呼ばれて別家を興した(上野国多胡郡山名郷が本貫地)ものが山名氏の流れ、次男の「義俊(よしとし)」は「新田太郎(にった たろう)」と呼ばれていたが上野国碓氷(うすい)郡里見郷(現在の高崎市)に土着し別家を興したのが里見氏の流れであった。

 長男や次男が宗家を相続せずに、末子相続であるのが面白い。これは、その母方の出自に関係している。

 私達の今の世の常識で考えれば、生年が早い方が本来であればその家の嫡男となるべきものだ、と思うのだが、正妻からの嫡出子でなかった場合や身分の低い女性からの出生であった子供は分家となって別の家を打ち立てたようだ。

 新田宗家は滅び去ってしまったが、新田氏の支流である山名氏の流れは「守護(しゅご;一国を支配する地方長官)」として強大な勢力を各国に張る家にまで成長することになるのだった。

 <関連ページ>
 のんびり 行こうよ ポタリング;  2013.06.09 「城下町 小幡を訪ねる 復路編(山名郷)」
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反町館跡 照明寺(反町薬師) ここでも、丸に一両引きの「大中黒」の家紋が見える。

瓦や幔幕など、随所に新田縁の場所である事を現している。

 足利氏によって始まった室町幕府の体制下にあって山名氏の一族はそこで勢力を誇り、但馬(たじま)をはじめ11カ国の守護職を務めるのだった。

 また、里見氏のほう、元は新田から離れて分流し榛名山南方(高崎の北)に勢力を持った豪族だが、安房(あわ)へ入り、そこで土着する。江戸時代の奇伝物語で有名な「南総里見八犬伝」の里見氏はこの一族である、などといったように勢力地盤の拠点を移し、その後も繁栄した。

 一方の義重の弟の義康(陸奥守、治部少輔、伊予守、兵庫助)の家系のほうはひどく繁栄して、世代を重ねて勢力を増していく。

 やがてその家は矢田氏、広沢氏、仁木氏、細川氏の流れ、畠山氏や桃井氏の流れ、そして吉良氏、今川氏、足利氏の流れに分かれていくのだった。さらに斯波氏、渋川氏、大崎氏、最上氏などの源氏を代表する有力な支族に分かれていく。先に書いた氏族のほうが嫡流に近く、新たな姓を名乗った世代が古いのだが、そうした中の一系統が足利氏の流れなのだった。
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反町館跡 照明寺(反町薬師)

寺の奥に雰囲気の違う一角が残っている。

このお堂こそが、本来の寺の姿であるに違いない。

館が置かれた時代から続くものではあるまいか。
反町館跡 照明寺(反町薬師)

<源氏の血脈;新田氏の系譜  新田宗家の支流 : 斯波、細川、畠山、足利の流れ>

 細川氏といえば室町幕府の管領職の家であり、今に続くあの戦国大名の家だ。「斯波(しば)」氏も同じく室町幕府の管領職で、越前・若狭・越中・山城(やましろ)・能登・遠江(とうとおみ)・信濃・尾張・加賀・安房(あわ)・佐渡などの11カ国を領した守護大名だ。

 斯波の祖は「足利家氏(あしかが いえうじ)」で、鎌倉御家人で尊氏の同族(本家筋)であったが北条一門の中の身分の低い女性を母に持ったため足利宗家を継がずに別家としての斯波家を起こしたのだった。

 当初は同じ足利の姓を名乗っていたが、後に彼は自らの名乗りを「斯波家氏」と変える。

 越前の地で南北朝の動乱を戦い、尊氏に敵対した新田義貞を討った功績で、後に始まる室町幕府内では先に挙げた様に絶大な権勢を誇った。室町幕府三管領家の筆頭であり、幕府の要職である奥州探題、羽州探題、九州探題、関東管領などの主要な職務を歴任する。
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反町館跡 照明寺(反町薬師)

 「畠山(はたけやま)」氏も管領職の家柄であり、紀伊・河内(かわち)・越中などの守護職である。

 「吉良(きら)」家や「今川」家については、改めて解説するまでもあるまい。足利の家系が途絶えた場合、この両家から継承者を出して幕府を存続させるという立場にあった家系だ。

 余談だが各地の守護職である斯波家は室町幕府管領職の筆頭にあったから極めて多忙で、守護代を任命して各地に置き、間接統治を行った。織田家は尾張の現地管理者で斯波家の被官、信長の家はその織田本家ではなく更に庶流の家だった。
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反町館跡 照明寺(反町薬師)の鐘撞堂 反町館跡

 平安時代の貴族社会にあって比類ない軍神として崇められた八幡太郎「義家(よしいえ)」から、新田氏の家系の歩みを見て来たわけだ。もう一度、簡単にまとめてみよう。

 義家は鎮守府将軍の職にあり、相模・武蔵(むさし)・陸奥(むつ)の三国の守護。つまり箱根以東の東国域の大きな支配権を持っていたということだ。左馬権頭(さまごんのかみ)、左近将監(さこんのしょうげん)、兵部太夫(ひょうぶたゆう)の要職にあった。今で言えば国軍を統括する国務大臣(防衛大臣;シビリアンコントロールのトップ)であり軍指揮命令系のトップ(統合幕僚長;制服組のトップ)という任務についていた訳だ。

 その子の「義国(よしくに)」は加賀介(かがのすけ)で式部丞(しきぶのじょう)、これは次官級の官僚ということだろう。父が偉大過ぎて貪欲さに欠けたと思われる節があり、いまひとつ立身できなかったようだ。その義国から7代目の子孫が新田義貞であり足利尊氏である。

 義国の子の代、「義重(よししげ)」、「義康(よしやす)」の兄弟という事だが、そこで義重に連なる新田の系列と義康に連なる足利の系列に別れたのだった。

 平安時代後期には、新田庄は盛んに発展を続けて19郷の荘園化から始まって遂には56郷の広大な郡全域を範囲とする大荘園となり、その主管者である新田家は大いに発展する。しかし鎌倉時代になって政治が変化するようになると新田主家の勢力は、様相が変わってくる。足利氏は頼朝の挙兵にもいち早く鎌倉へと馳せ参じ、さらに鎌倉の家と縁戚関係を結び外戚である北条家とも婚姻で関係を深めていた。そうした事もあって有力御家人の一人に列し、鎌倉の地に広大な館を持っていたが、新田氏の当主は鎌倉幕府設立の挙兵に参加しなかったために非常に冷遇を受けた。

 足利氏の本貫(ほんがん;本拠地)が「足利」の地であり、鎌倉御家人となる以前、都を追われた義国が足利の地に至ったのがその始まりの一歩。足利の地には藤原家郷(いえさと;武家貴族)の流れを汲む足利氏もいて混乱を深めるが、遂には都に戻る事無く土着して、この地で勢力を誇る有力な地方豪族となるのであった。広大な館が置かれる一族の本拠として選ばれたのが、「鑁阿(ばんな)寺」のある渡良瀬川のほとりの地であった。

 そして、義国の嫡男である義重が移り住んで盛んに勢力を傾けて開拓したのが火山灰に覆われた荒野地であり、後に実り豊かな豊穣な土地に変貌を遂げる新田の地であった。その開拓を足掛かりにして中央との結びつきを強めて郷の荘園化に成功し,新田家は次第に庄内の各郷で地盤を固めていって、遂には先に書いてきたような新田一族の歴史が始まるのだった。
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反町館跡 反町館跡に残る堀の様子。


それはもう「池」と呼んでも良いほど、幅の広いもの。


鬱蒼と茂った樹木は北西から吹く強い北風から屋敷を守るための屋敷林だ。

館としてあった当時、屋敷林に類する樹木があったのか、どうか。

矢の素材(兵器)、防御の具(鉄砲の弾丸貫通をふせぐ盾や竹矢来など)となるので、広い竹林は武家のたしなみとして敷地の中に当然あっただろう、とは思うが・・。

 さて、今回は先のポタリングでの「足利詣で」の続編で新田庄を廻った訳だが、それはまだ充分なものではない。

 何故かというと、新田氏の流れ(新田庄の成立や新田一族の歴史)は確認できたのだが、新田義貞の世代に到ってからの出来事について触れていないからだ。新田庄に多く残っている倒幕のための挙兵に由来する場所を廻っていないのだった。

 英雄として称えられている新田義貞にまつわる場所は、本当にこの地に多い。それは土地の人達が大切に守ってきたためである。その努力の賜物として、今もなお鎌倉倒幕の挙兵にちなんだ幾多の史跡が往時の姿や雰囲気を留めて残されている。

 新田庄にはまだまだ見所が沢山あるのだった。

 そこが室町時代の後に来る徳川幕府の礎とされた徳川氏発祥の地でもあった。世良田(せらだ)や得川(とくがわ)地区の事などを含めて、(それはこの続編にも繋がるが・・)また別のページ(のんびり 行こうよ:「2013.04.09  徳川家発祥の地を散策する 世良田(せらだ)」 )で紹介している。合わせてご参照頂ければ幸いだ。
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