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2013.04.14
太平記の舞台を散策する その2 世良田 (せらだ ; 太田市 世良田)
アクセス;
東武伊勢崎線 ― 世良田(せらだ)駅
カメラ;
RICOH
CAPLIO GX−100 24mm F2.4 〜 72mm F4.4
(画像添付時に約30%程度に圧縮)
関連のページ;
のんびり 行こうよ:「2013.04.09 徳川家発祥の地を散策する 世良田・得川」
のんびり 行こうよ:「2013.04.12 太平記の舞台を散策する1 新田庄(にったのしょう)」
先日(12日)、太平記の一方の主役である「新田義貞(にった よしさだ)」にちなんで、新田一族の根拠地であった「新田庄(にったのしょう)」を訪ねた。
そもそもは昨年末に足利の街を散策したのが歴史物語の「太平記」に因んだ一連の散策の始まりだった。はじめは「足利の街で美味しい蕎麦を愉しもう」という試みだったが、何時しかそれが歴史探訪となり、足利氏の拠点を訪ねたからにはその続編として新田氏の拠点も歩いてみるべきだろう、と考えたのだった。
そうした経緯で、太平記の主体であり鎌倉幕府を倒した武将「新田義貞(にった よしさだ; 正式名は<源 義貞>である)」の本拠であった新田庄の遺構を訪ねた訳だ。
ところで、新田庄内には多くの遺構や歴史的な建造物が現存しているが、国指定の「新田庄遺跡」として11箇所の遺構が保護されている。それらを経巡って新田に残る歴史を愉しもうというのが、その目論見の中身だった。
今回は、前回に続いて新田庄遺跡に留まらず、義貞の挙兵にまつわる場所を訪ねたい、と考えている。
国指定「新田庄遺跡」のひとつである「生品(いくしな)神社」に建つ、新田義貞の銅像。
近年、盗難にあって失われ、これは再建されたもの。
何時の世も、欲に眼のくらんだ愚か者は後を絶たないようだ。
それが後世に造られた銅像だから、まだ諦めがつくが、当時に作成された木像などであれば、もう取り返しが付かない。
「神様は 見てござる 人はみずとも」
この一文は、品川駅前の高山神社に掲示されていた味わい深い標語。
さて、新田一族が越を据えて本拠とした「新田庄(にったのしょう)」とは、そもそもどのような経緯で誰によって成立したものなのか。そこは、奈良時代に始まる律令のころからの荘園であって、時を経て平安時代に入り、江戸期に繋がる発展を遂げてきたものなのだろうか?。
その答えの前段となる知識として、清和源氏(せいわげんじ)の流れの中で、新田氏の祖となる「河内源氏(かわちげんじ)」の宗家である「源義家(みなもと の よしいえ)」を中心として、律令制が充分に成熟していた平安時代(奈良から鎌倉にいたるおよそ400年間、794年から始まり1185年に終焉する時代)という長い安定した時代の背景を含めて、前回は話を進めたのだった。
ここで、義貞の話を始める前に、もう一度おさらいしておこうと考えている。
復習して頭に入れておかないと、繋がりや流れ、関係などが複雑で、人や家の関係が不明瞭となってしまうからだ。そもそも、武家の名前自体が「偏諱(へんき;上位者の名前の一文字を下賜される事 臣下への恩恵の付与のひとつ)」であったり、あるいは先祖伝来の特有の一文字を引き継ぐ(家祖の「義家」から分かれる子息や数代先の当主であれば「家」の一文字など)ので、誰も同じように見えてしまい、私などはすっかり混同してしまう。
また平安後期の時代背景や制度も押さえておかないと、行動の理由がつかめなかったり、話の主人公が置かれた立場など、が判らなくなったりしてしまう。
こうした訳で、しばらくの間、前回までの事を復習するための話を進めようと考えている。
なお、同じ要件に関しては掘り下げて加筆していたり、視点を変えたりしているので、前回書き記した内容の抜粋を再掲載しているのではない。
さて、それでは義貞に到るまでの新田の歴史話を始めようか。
新田庄の南部境界を流れる
「利根川(とねがわ)」の様子。
「刀水橋(とうすいばし)」を埼玉側から渡り、
利根の上流方向を望んだところ。
<新田家の概略を復習する :新田庄成立を助けた時代背景>
新田(にった)の地は、義家流の源氏宗家の嫡男「源義国(みなもと の よしくに)」と彼の長男「義重(よししげ)」の父子が都を離れて自らの開拓した「下野国 足利庄(あしかがのしょう)」へ定着して氏の本拠地とし、そこを足掛かりとして熱心に開拓した土地(足利の南方の平坦地)だった。
北関東に位置しており、その地勢は扇状地というかデルタ地帯とでも言うべきものか。南に関東平野の広がりを持ち、北には赤城(あかぎ)山が遥かに望まれ、桐生・足尾の山並みが迫りくる土地だ。関東平野の終端に近い位置にあるわけだが、まだ北部の山稜の間には伊勢崎(いせさき)や薮塚(やぶづか)や桐生(きりゅう)、太田(おおや)などの笠懸(かさがけ)の地が山からの防壁のように連なっている。
新田庄遺跡の残る領域(以下の文章中では、この領域を単に「新田庄」と呼称することにする)は、ごく平坦な土地であり、穏やかに開けている。北に向かって、ごく緩やかな斜度を持つが傾斜地ということではない。石田川、大川、高寺川、聖川、蛇川、八瀬川などの幾筋もの河川が北方にある赤城山の南麓や桐生や薮塚方面から流れ来たって、新田庄(にったのしょう)内を潤して南へ向かって穏やかに流れ下って抜け、やがて領域の南端を横切る早川(はやかわ)や利根川(とねがわ)に合流するという土地である。
新田庄の北方には「笠懸(かさがけ)野」が広がり、その北側を渡良瀬(わたらせ)の大河が流れ、その先は次第に斜度を強めていって、やがて赤城(あかぎ)山の麓や梅田の山並みに到る。利根川の広い流れを庄の南端とし、西側を笠懸野以北を源とする早川が南へと向かって流れ下り、石田川や幾筋もの河川が流れ下るという視界の開けた土地である。地理的にみると、渡良瀬の流域南に開けた「大間々扇状地」と呼ばれる土地であるため、地域内の湧水地を水源として流れる河川の数が実に多いのが特徴だろう。
そこは列島の内陸部であって、まるで海に近くはないのだが、平野部に開けた稀有な肥沃さを持った土地、と言えようか。
しかし、そこに定着して「新田」氏を名乗り始める義重がこの地を開拓した頃は、1108年の浅間山(あさまやま)大噴火により地域全域に火山灰が厚く堆積し、荒廃しつくしていた。浅間は活火山なので、小規模な噴火を常時繰り返している、関東全域に計り知れない災害をもたらす荒い山である。この1108年の出来事は、後に後に「天仁(てんじん)の大噴火」と呼ばれる事になる大規模な噴火だった。
新田庄の北部境界、
笠懸と足利庄との境界を流れる
渡良瀬川(わたらせ)の様子。
笠懸の東北方、桐生を抜けて足利へ入る少し手前の辺り。
ご存知のように、上信国境にある浅間山は数百年の間隔で大噴火を起す活火山である。江戸時代の「天明の飢饉」の原因となる天明大噴火などが、大きな被害をもたらした噴火としては有名なものだ。
さて、「天仁の大噴火」の際に新田の地に降り積もった火山灰は、なんと厚さが30cmに達して、郷内のすべての農地を覆いつくしたと伝わっている。埋もれた地層の発掘調査の結果も踏まえると、この伝承は正確な量を伝えているものらしいから、驚いてしまう。
調査・研究の結果で当寺の噴火の凄まじい規模がはっきりとしいているのだが、噴出された火山灰の推定量は<30億トン>に達するということだ。数字で書くと大きすぎて私などは茫洋としてしまう。
その噴出物は、10トン積みのダンプカーが3億台、荷台を満載状態にして並び連なって積み出さないとその堆積物は取り除けない、という事になる。日本橋を基点にて車を縦に並べてみれば、その車列は一体どこまで到達してしまうのだろう。仮にダンプ(愛川欣也さんが主役の菅原文太さんと映画「トラック屋朗」で乗っていた「砂利トラ」)の車体長を10mとして計算した場合。
当たり前のことだが、30億メートルは300万キロなのだ。
2020年までに到達する日本全国の自動車道路の総延長距離が300万キロに達する、とWEB上の記事で見かけたが、それに匹敵する。2020年の先に全国の道路のすべてを浅間の火山灰を満載したダンプが数珠つなぎになって覆いつくすという凄まじさ。それはもう、文系の私にとっては果てしが無いと思われるスケールの大きな数字だった。
新田庄の領域に入り、
北部地域の綿打郷(わたうち)を廻る。
さすがに新田の地は渡良瀬川(わたらせがわ)の扇状地。
こうした池(湧水地)が各所にある。
どこも多くの水に満ちていて、
豊富な水源としての様子が散見される。
たとえば、「天仁の大噴火」の際に噴出された物量(降灰等)を、別の判り易い例に置き換えてみよう。
私世代には懐かしいヒーローに登場願おうか。ウルトラマンの身長は400m、体重は3.5万トンとされている。はるかM75星雲の彼方から地球の危機を救うためにやって来てくれた変身後の彼の体で換算すれば、85714体のウルトラマンが浅間の山麓に立ち並んでしまう。54年に登場した初代ゴジラは体長50m、体重2万トン。芹沢博士の開発した「オキシゲン:デストロイヤー」によって水中の酸素を一瞬で破壊されて東京湾に沈んで死滅してしまった。当寺国民の10人に1人が観た計算になるという大ヒット映画の主役だが、、その体でなら15万頭が山肌を覆って群生することになる。スケールアップした84年版のゴジラは、その初代ゴジラが登場する続編として製作された映画の主役だが、体長80mで体重は5万トンになっていた。その84年版のゴジラでならもう少し数は少なくなるが、それでも6万頭程が浅間山の高原に立ち並ぶ。一体誰がその姿を想像しうるだろうか。
ナンセンスな例えを引き合いにしてしまい申し訳なかったが、天仁大噴火の被害というものは、もう途方もない規模の大災害であって、気の遠くなるような凄まじい降灰の量だった。
ところで、「天明の噴火(1783年8月)」では吾妻(あがつま)側へ溶岩流が噴出して甚大な被害を起し、その名残が群馬県内の観光名所(北軽井沢)の「鬼押し出し」の奇景として今に残っている。この噴火の際には火砕流も発生した。浅間山の斜面を一気に下り、遥か先にある吾妻川を堰きとめて増水させたのだった。
先ほど政権が変わって、再開発が話題になっている吾妻渓谷(あがつまけいこく)にある「八場(やんば)ダム」が建つ予定の場所よりも、長野原を越えてもっと奥まった位置だったのだろう。吾妻川は美しい渓谷をつくり、山間の底をV字に切って流れて下り、やがて吾妻地方の先にある渋川の白井で利根川へと合流する。吾妻地方有数の河川だが、その川を増水した激流が駆け下ったのだった。
さらに合流先の利根川をも巻き込んで、下流域に大洪水をもたらす激流を発生させたのだった。噴火による直接被害だけでなく、そうした二次災害も酷い状態だったのだ。(天明の噴火は江戸時代のことなので、被害状況などは文書として克明に記録されて今に残っている。)
一方で天仁期の噴火の被害は、残念ながらその様子が明確には伝わっていないのだった。この噴火の際は長野側に溶岩が流れ、火砕流が発生し被害が出たが、辛うじて水害までもたらすことは無かったようだ。
「天沼公園」(天沼湧水地)の様子。
新田庄内の段丘面上の窪地や宙水起源の
「自然湧水型」の湧水地として分類されている。
生品神社の南、
飛鳥時代からの幹線「東山道(とうざんどう;ひがしのやまのみち)」の遺跡跡、道路と宿駅の遺跡は発掘・調査が行われて埋め戻されて、今は公園になっている。
その北には広い農業用の貯水池があった。
東山道の分岐図
文書に記されて残っていないだけで、「天仁の噴火」は天明期のそれよりもはるかに大規模なものだった。記録の残った天明を例にとってみれば、その被害の規模を想像するのはさほど困難な事ではあるまい。
北関東の山稜に近い農地は言うに及ばず、上野国(群馬県)全域が噴火によって壊滅的な打撃を受けたという。吾妻(今では「高原キャベツ」の産地で有名な、穏やかな土地だ)など浅間山の麓の農地は平野部の被害どころではなく、降灰はもちろんの事、火山岩や火山弾の飛来などもあったろうし、さらに酷い有様だったに違いない。
火山灰に覆われてしまったために農地を放棄した場合も少なくあるまいし、「国衙(こくが)」領や「郡衙(ぐんが)」領などの公領や「御厨(みくりや)」、荘園(しょうえん)などもことごとく壊滅した事だろう。そうした公田はもはや農地足りえずに、土地を放棄した場合も多かっただろうし、遺棄しないまでも、「租(そ; 収税)」の復旧にはかなりの期間を要したことだろう。折角に開発を進めて開発領主となったのに、降灰の被害が凄まじくて棄農地とせざるを得なかった自作農民(規模の小さな開拓領主)も多かったのではなかろうか。
天仁噴火による上野国の被害は、平安後期に続いた戦乱による被害などのスケールを遥かに凌いでいて、比較にならない未曾有の災害であった。農地への打撃は凄まじく、被害は甚大なものだったのだ。何故かと言えば、噴火は7月(旧暦)の出来事なので、田植え後の稲の生育期に当る時期だった。稲作地に灰が積もれば、稲田はことごとく潰れ、農地は埋もれてしまって、完膚なきまでに壊滅してしまったことだろう。
強烈な低気圧の通過に伴って、「からッ風」に畑地が煽られたようだ。
地を覆うような大砂塵が舞って、見る間に視野を隠してしまった。
砂の直ぐ向こう側に農家やビニールハウスがあったのだが、一瞬で砂に覆われて見えなくなってしまった。
(2013.05.08 撮影)
さて、この噴火の例は自然災害であり極端な例なのだが、こうした荒蕪地を律令制下では「空閑地(こかんち)」と呼び、特殊な土地として区別されている。本来は未開発の荒れ野を指していて、その未利用地の積極的な開拓を行わせ、農地化する作業を促進させるためのものなのだろう。制度上の想定としては、決して罹災地(自然災害の発生による荒廃)を対象の念頭にはおいていなかったはずだ。
土地の記録簿である田帳(たちょう; 地目や郷内の農地面積や想定収穫量などを記載した文書)は「国衙(こくが)」や「郡衙(ぐんが)」にて管理されていたが、そこで「空閑地である」として指定登録された場合には、所有上の特例が設けられていたのだった。
当時運用されていた律令制の規定では、その指定地を開発すれば、開発者による私有が認めらるという制度になっていたのだった。浅間山が未曾有の規模で大噴火を起したことによって、上野国の全域が「空閑地」と化した訳であるが、このため、噴火の後は、上野国においては各地の荘園化が一気に進んだのだという。
「国衙(こくが)」とは
;
国を統治・管理する国家機関であり、国司が赴任して「租庸調(そ、よう、ちょう)」の受領や統治政務を行った。
さらに「公田割(くでんわり)」による収税だけでなく「公領」と呼ぶ国衙直轄の荘園農地を持ち、耕作を行っていた。
行政の実施は勿論、警察や裁判・調停までをも行い、治安維持も担当した。
国衙は国家による国(統治は国・郡・郷の郡里制を敷いて階層的に行った)単位の統治機関だが、
中央集権の証ともいえる特色を備えていた。
その特色とは、国衙独自の武力・兵力を備えていて、中央に対する国人・豪族・土豪の反乱鎮圧も行ったのだった。
「公田(くでん)」とは
;
律令制の基では、土地は国家の管理・所有するものであった。本来は農地の私有を認めるものではなかったのだ。
すべての農地は公領として管理され、その地での耕作に関しては一定の割合で税が掛けられた。
これが「祖」と呼ばれる税である。
農民階級の者は、自由な住居地の移動や職業選択の余地が無く、土地(耕作地)にしっかりと縛られていた。
(律令制下の行政運営の基本は「国、郡、郷」からなる「郡里制」を敷き、重層的な行政単位として国家運営を行った。)
郷の内部は字や里に細分化されるが、さらに農地に関しては細かく区分けが行われた。
基本単位を統一するために同じ尺度で全国の農地の区画を碁盤の眼のように方形に割ったのだ。
これを「条里制」とよび、それぞれの土地の状況は台帳に記載されて、しっかりと管理されていた。
これが「田帳」と呼ばれる収税台帳であり、区画の管理簿である。
そして、この記録簿の維持管理(調査・登録、記載、確認、更新)、保管を行っていた最高機関が「国衙」であった。
国指定「新田庄遺跡」のひとつ。
新田一族の本拠地、
新田氏居館跡とされる「反町館(そりまちやかた)」跡。
これは土塁の外周にある堀の様子。
<新田家の概略を復習する :新田への定着と源義重(みなもと の よししげ)による農地開発>
「八幡太郎(はちまんたろう)」と言われた武家の英雄、「源義家(みなもと の よしいえ)」はその活躍から都人の尊敬をあつめ、畏敬を込めて義家流源氏と呼ばれて名を成し、清和源氏を代表する一族となっていた。
源氏一族の「氏の長者」であった訳だが、その三男として生まれた「義国(よしくに)」は、1142年に「足利庄(あしかがのしょう)」を成立させた。父親の義家が下野(しもつけ)国の国司となっていた関係もあろうが、それを足掛かりとして下野国や上野(こうずけ)国に勢力を扶植していったのだ。
義家の長男の家、義家流源氏の宗家は、四世代後に鎌倉幕府を成立させて武家政治を切り開いた「頼朝(よりとも)」へと続くのだが、三男の義国の家も後に大きな広がり見せて、東国を拠点とする武家の名族として発展していくのだった。
1150年、義国は都で問題を起し、足利の地にあった「別業(なりどころ;別邸)」に蟄居を命じられ、そこで謹慎を続ける。対立していた「藤原実能(ふじわら の さねのり;右大将)」の邸宅を私怨により焼き払った事件を譴責されたためだ。
ただの譴責ではなくこれは「勅勘(ちょっかん; 官僚ではなく天皇が発したお咎め処分)」であった。
1108年に「源義親(みなもと の よしちか)」が「平正盛(たいら の まさもり;清盛の祖父)」に追討され源氏は地位を落としていたし、鳥羽上皇による院政が1129年から始まっている時の話だ。蟄居の基となった勅勘を受けた後の1156年、都では「保元の乱(ほげんのらん)」が起きて後白河天皇が権力を掌握し、その3年後の1159年には「平治の乱」が起き、源氏を平氏という武家貴族の名門同士が入り組んで戦いを繰り広げる天下騒擾となる。
反町館(そりまちやかた)跡、樹木が植えられた部分が土塁。
反町館(そりまちやかた)跡、反町薬師の境内、
正式には「照明寺(しょうみょうじ)」と呼ぶ。
源氏一族は平氏一門によって倒されて「源義朝(みなもと の よしとも; 義家から三代のちの宗家当主)」は尾張で討たれ、その嫡子である「頼朝(よりとも)」は伊豆へ流罪となる。
義家流の源氏の家は、完全に平氏の軍門の下に跪いたのであった。そして義国の蟄居から17年後の1167年には、平治の乱の勝利で勢力を得た「平清盛(たいら の きよもり)」が太政大臣となって平氏政権を樹立する。
そのように時代は動いたが、「乱(政変)」発生の胎動は、藤原氏の後退と院政の開始や、源氏に変わっての平氏の台頭など、として密かに進んでいたわけだ。そうした微妙な政治的過渡期にあって、勅勘を受けてしまっては、力のあった義国であったとしても、まさにひれ伏して詫びて許しを請い、都を後に引下るしかなかったろう。
武家貴族の平氏が力を持って台頭を始めていた平安後期の院政期は、源氏一族は都では息を潜めた逼塞に近い状態であったろうから、義国が受けた朝廷の勘気を執り成して収めてくれる援助者は、どこにもいなかったに違いない。
都においては「式部太夫(しきぶたゆう; 式部省の次官)」であり、「加賀介(かがのすけ; 国司職であり、その次官)」の職にあった彼だが、このことが発端となって、遂に都を後にして、中央政官界から退身する事になる。
そうした経緯で都落ちをした訳で、官位を失った義国と義重の父子にとってみれば、残っている財政基盤は「足利荘園」のみだった。しかし、足利の地も安穏としていられる訳ではなかった。足利には源氏一族ではない秀郷流を継ぐ足利家があって彼らに対抗している状況であろ、安息の地とは言い切れなかったのだ。父子にすれば、この状況では一門の先細りは眼に見えていたのだろう。新天地を求めて一族の勢力を他所に展開する他に、一門が生き残る道は無かったのだ。
そうして、義国と義重の父子は足利の南方にあって「空閑」の地となっていた新田の様子に着目して、そこに進出した。義重の弟の義頼を足利庄に残し、全精力を傾けて新田の地の開拓(浅間山の噴火被害からの復旧)を進めて、やがて19郷を開発したのだった。
国指定「新田庄遺跡」のひとつ、新田氏居館である反町館(そりまちやかた)跡。
反町薬師(照明寺:しょうみょうじ)の境内。
土塁にたつ案内板。
<新田家の概略を復習する :新田庄の成立>
家の当主「義国(よしくに)」とともに新田に下り、その荒蕪地を開拓したのは長男の「義重(よししげ)」だった。そして、義重の弟の「義康(よしやす)」の方は、すでに義国の代に荘園として成立していた足利庄の地に留まり、その地を相続していた。
義重は見事に農地開発の大事業を達成し、農地化した土地を領有した。その土地を都の実力者である「藤原忠雅(ふじわら の ただまさ; 五摂家 「藤原北家」の当主)」へ寄進することで私有地の「荘園(しょうえん)」化を果たす事に成功したのだ。鳥羽上皇による院政が行われていていた、平安末期の1157年のことであった。
忠雅は新田庄の「領家(りょうけ; 土地の所有者)」となって、さらにそれを鳥羽院の勅願所であった金剛心院へ寄進し、これを「本家(ほんけ; 荘園土地の名義上の所有者)」とした。当時の平安期にあっては、開拓した荘園をその開発領主が都の権威ある領家・本家へ寄進する事は、荘園を国衙や郡衙の収公から逃れさせるための常套手段であった。
「公田(くでん)割り」と呼び、方形に区画された農地は記録され、本来すべて国有であって収税である「祖(そ)」の対象となっていた。だから農地は公の領地(公領)であるという前提なのだった。しかし、律令制の世も、ついに平安期の後半となると、実情が変わってきていたのだった。
公家の有力者や寺院・神社などといった「権門(けんもん)」衆は公田とは異なる独自の土地所有を行っていたのだ。それが開発領主を持つ「荘園」である。こうした荘園の制度ように<律令>制度での土地所有や収公には抜け穴があった。田帳に記載されていない開発農地は、公の土地(祖の対象農地)の限りでは無かったようだ。
反町館(そりまちやかた)跡、
反町薬師(照明寺)の境内。
館を取り巻く防壁としての土塁の様子が良く判る。
本当の農地開拓となれば明治初期の北海道などでの例を見るまでも無く、途方も無い困難が伴い、多くの労力を必要とする大事業となるはずだ。江戸期に行われた新田開発などは、大規模な土木工事を行えるだけの技術力があったから成しえた事業なのだ。灌漑用水の掘削や、干拓事業などの例が江戸時代を通じて幾つもあるが、どれもいわば国家規模のプロジェクトだったろう。幕藩体制下でも干拓を始めとした開拓事業は藩単位で散見されたが、それらでさえも容易に達成できた事業ではなく、「藩」という規模を持ってしても数年掛りで成しえるほどの大事業であった。
つまり新たな農地の開拓を一氏族で行う事は、事実上不可能な事業であるといえよう。では、何故、義重が19郷の荘園化を短期間で成し得たのか?
それは、眼を付けた新田の地が、もとは肥沃な土地であり、開拓後の成果が見えていたからに他ならない。しかもその事業内容は土地改良ではなく、降灰を取り除くという復旧作業を主体としていたので、先に見た様な開墾作業のような土地改良を行う必要が無かった。
豊かな実りの期待できる「空閑地(こかんち)」を見つければ、開発領主となるために払う労力は最小限のもので済むことになる。
土地所有の権利関係は「空閑地」と明記されてはっきりしているから、開発さえ成しえればその土地に対する領有権が発生する。古くから開けて郡衙が置かれた「新田(にった)」の地であれば、農地開拓後の収穫量などの成果も容易に類推できるし、水利も開けているから開拓に要する労力も噴火被害からの復旧作業分だけで良い。
そうした訳で目ぼしい荒蕪地を見つけてそこへ乗り込んで定着し、私有化を目指して開拓を行ったのだろう。制度を逆手に取った素晴らしい、いかにも都に勢力を張った貴族らしい利口な発想だ。
こうした裏の事情とも言えるものがあって、郷の開拓が短期間に成しえたのだろう、と私は考えている。
「反町薬師」と地元で呼ばれている館跡の寺院は、正式には照明寺という。
大きな藤棚を満開に飾る藤の花が可憐に咲いていた。
こうして新田家の初代となる「源義重(みなもと の よししげ)」は新田郡内の「空閑地」を無事に開拓して見事に開発領主となり、さらに都の権威と結ぶことで、見事に藤原忠雅から荘園領有の制度上の「安堵」を得ることに成功する。都を落ちた中流の貴族であった義重は、新田の地の実質的な(土地の)新たな支配者となった訳だ。その後も荘園周辺の開拓を精力的に進めて、1157年には「下司職(げししき)」に任命され、正式な土地の支配権を確立する。
1157年といえば平治の乱の2年前だが、領家となった「藤原忠雅(ふじわら の ただまさ)」は平氏の権勢に連なる公卿であり、時勢に乗った実力を持っていた貴族だ。これが源氏系の公卿を領家としたのであったら、事はこうまで旨く運ばなかったのではなかろうか。
以来、新田庄は義重の代から始まる新田一族が納めて、育くみ拡張させた荘園となる。そして、今回の話の主役である「義貞(よしさだ)」は義国からは8代目に当る新田宗家の当主であった。新田庄は一族が築き上げ、平安(へいあん;784年〜1185年頃まで続く時代)末期に成立させ、その後も開発を進めた壮大な荘園であった。19郷の私有開拓の寄進から始まり、1170年というさほど時代を経ないうちに最終的には新田郡全域の56郷を庄内とする程の広域に、新田庄は発展したのであった。
「下司職」とは
;
下司(げし・げす)は「八省(はっしょう; 二官八省の律令制下の政府機関)」の下位にある
政府の行政機関の名称である。
しかし、義重が補任された「下司職」は荘園や公領の現地管理者を指している。
この職及び身分は勝手に名乗れるわけではなく、領家や本家から任命された正式な地位にある官吏である事を
示している。
国人や土豪の象徴的な権威づけのひとつでもあった。
下司職は庄内の「租庸調(そ・よう・ちょう; 年貢、公事、夫役)」の徴収、
さらに庄内の治安維持や紛争の調停や制圧などを行った。つまり荘園における単なる収税管理官ではない。
行政の最高責任者であり、地域の首長といっても良いほどの職制を持っていた。
要するに下司職は、
鎌倉時代に領地管理者として幕府から任命され各地に赴いて所領を統治した「地頭(じとう)」と同様の
職制だった、と思えば判りやすかろう。
「泣く子と地頭には勝てない」と言われ権勢を誇った地頭職とほぼ同じ権限を持ち、役務を負っていた訳だ。
都(本所・本家や領家)からの任命職なので本来は有期であったが、荘園の開発領主が開拓の見返りとして
任命される場合、その職を世襲したようだ。
<新田家の概略 復習の終わりに :新田家の顛末>
さて、没落した新田家の当主である「義貞(よしさだ)」)が歴史に名を残しているのは、鎌倉幕府を倒した立役者だからだ。彼の決起によって幕府が倒れ、武家による政治が終焉した。
しかし幕府を滅ぼした義貞は自らの政権を打ち立てる事無く、再び朝廷による政治支配が始まる。
律令制を主体とした天皇を退位した上皇・法皇(出家した上皇)による院政が始まる訳だが、しかしここで南朝と北朝の対立が起こる。南朝側に就いていた新田義貞は、激しい戦いの末、北朝側に殲滅されて滅んでしまう。
南北朝の動乱を収束し新しい武家社会を確立したのが「足利尊氏(あしかが たかうじ)」。そして征夷大将軍に補任され室町幕府の将軍となって、武家の頂点に立ったのが新田同族の足利(あしかが)一族であった。義貞が倒幕後も成しえなかった政権の樹立を尊氏は冷徹な戦略で成就したのだった。
そうした結末へ到る前段の知識として、律令制のおさらいや荘園としての新田庄の成立経緯、武家貴族の台頭と平安終焉から鎌倉幕府の成立への政治変遷、更には新田義貞や足利尊氏へと流れ到る清和源氏の名族である義家流源氏一族の血脈に関して、など諸々を前回の散策(
のんびり 行こうよ;2013.04..12 「太平記の里を散策する 新田庄」
)では考えたのだった。
そこで今回の話はその続編になる。
「平記の里を散策する 世良田」
であり、後編のはじまりだ。新田義貞による倒幕の旗揚げ(平氏である「北条」家倒滅の宣言)あたりから話を始め、鎌倉幕府の滅亡、武家政治の終焉と院政の始まり、あたりまでをみてみようと考えている。
裏にある庭園。
義貞の逸話の残る池は見えなかった。
<鎌倉幕府での新田家の地位 :弱小の御家人として (地方の小豪族扱いの格付け) >
さて、それでは時代を遡って我らが義貞が鎌倉幕府を倒幕する前のことに、話を戻そう。
上毛カルタでは 「
れ
) 歴史に名高い新田義貞」と謳われているから、群馬県人であれば誰もが知っている、鎌倉時代の武将の一人だろう。
足利一門は当主の「尊氏(たかうじ)」が征夷大将軍に補任されたことからも判るとおり、公にいうと「氏の長者(うじのちょうじゃ; 正統者)」である。源氏一族の頂点に立っているという権威をもって、義家流源氏(よしいえりゅうげんじ)の嫡流を唱えたわけだが、足利一族以上に源氏の嫡流といえる義家流の血脈を継いでいるのが「新田小太郎」と称された「源義貞(みなもと の よしさだ;1301年〜1338年没)」であった。
血筋、という事では源義家に代表される河内源氏の嫡流とも言える継承者は、足利氏ではなく新田氏のほうだった。しかし新田宗家は「義国(よしくに)」、「義重(よししげ)」「義兼(よしかね)」と続く氏の長者には違いないが、鎌倉幕府内で権勢を誇る足利氏に比べるべくも無く、実にみすぼらしい地位にいたようだ。新田宗家の第8代当主である義貞の家の権勢は、その時代、すでに見る影もないものに変わり果ててしまっていた。
義貞は、幕府内においては平の御家人であり、無位、無官であった。権勢には程遠い、ごく小さな存在だったのだ。
たとえば、時の幕府執権である「北条高時(ほうじょう たかとき)」が発給した土地売買の成立を証明する安堵状では、新田一族の当主であり鎌倉御家人であったのに、さらには日記や覚書などの私文書ではなく幕府発行の公式文書だったにも関わらず、義貞はその名前を逆(文書には「貞義」とある)に書かれてしまうほどであった。要するに彼も彼の家も、実に小さな存在にしか過ぎなかったのだ。
新田の地に「源義重(みなもと よししげ)」が土着し、そこを根拠とし荘園化した事から始まる新田一族の歴史は、その後に勢力を伸ばして新田庄とともに繁栄し、庄内の郷に定着していく多くの有能な支族を持つに到った。
先の<おさらい>でも確認したように、「新田庄」は当初19郷の荘園化からはじまったが、やがて56郷に及ぶ大荘園へと成長するのだった。「国衙(こくが)」の直轄した公領や各地にあった「御厨(みくりや; 皇室や寺院の直轄領)」をも凌ぐ規模といえようか。上野国を代表する実に広大な荘園(納税農地)であったに違いない。
その頃の政治背景を見ると、藤原家による摂関政治から天皇や上皇による院政(主体的には平氏ということだが・・)が始まる時代の変換期でもあった。義重は手腕に優れた才気をもって、都の実力者となっていた平氏へ巧みに働きかけた。権威の変化を旨く捉えて一族の勢力範囲を劇的に伸ばしたのだった。
しかし、鎌倉時代に入ると次第に新田宗家は没落してしまう。新田庄内の郷を拠点として分家や支族が多く起こり、宗家の土地を分与して行ったからだ。やがて支族の中の有力な氏族の一門が幕府御家人 ― 新田支族の里見氏(義重の長男、新田義範が氏の祖)や山名氏(二男、新田義俊が氏の祖
のんびり 行こうよ ポタリング; 2013.06.09 「城下町 小幡を訪ねる 復路編(山名郷)」
)の両家は新田家とは別格の、独自の御家人とされた ― として認められたり、江田氏や世良田氏(義重の四男、新田義季が氏の祖)のように幕府から郷の「地頭(じとう)」職を命ぜられる家が出て来るに及んで、新田宗家は勢力を失っていく。
義重の息子である「義兼(よしかね)」に宗家を相続したが、足利、里見、山名
(のんびり 行こうよ ポタリング; 2013.06.09 「城下町 小幡を訪ねる 復路編(山名郷)」)
、世良田
(のんびり 行こうよ 散歩; 2013.04.09 「徳川家発祥の地を散策する 世良田(せらだ)」)
とその兄弟達に主家の土地や累代の財を分与したのが、新田氏宗家の規模縮小の始まりといえよう。
さらには頼朝挙兵に賛同せず(
足利、里見、山名
はいち早く鎌倉へ馳せ参じたが)、宗家当主の義重は鎌倉へは遂に参軍しなかった。このことが幕府内での不興の原因であり、後の一門の幕府役務就任の機会喪失や幕府内での低い地位を決定的なものにしてしまった。
反町館跡(照明寺)
の本堂。
荘園の「領家(りょうけ)」である「藤原忠雅(ふじわら のただまさ)」は平氏に連なる公卿である。
19郷の開拓農地を寄進した新田庄成立を契機にして、そこからから勢力を広げてさらに庄内の郷を拡大させていた義重は、この領地化において深く平氏の権威と結んでいたのだった。そして今後も、新田庄の勢力範囲の拡大を目指していた義重としては、おいそれと成功の不明な頼朝の挙兵に、諸手を挙げて賛同するわけには行かない事情があったのだ。
現に、開発をすすめて56郷の大規模な荘園化を果たした1170年には、忠雅は太政大臣の位に就いていた。それは、現行の行政制度上に置き換えれば内閣総理大臣に相当する官職の最高位である。
義重は、鎌倉家の動向を見守り、勝利が確信できる段階まで状況が明確にならない限り、鎌倉へは参集できない気持ちだったに違いない。万が一、平氏に対する挙兵を詰られて領家の忠雅や本家の金剛心院から下司職を罷免されてしまったら、権威の裏付けを失い、荘園土地の所有(開発領主としての地位の維持)も難しくなる、と思っていたのだろう。
しかし、結局、平氏打倒の挙兵へ賛同する事になる。何故かと言えば、義重は娘の婚姻などを通じて頼朝の家系とは極めて近い縁戚関係を持ち、源氏一門の長老格であったからだ。逡巡を重ねた末に鎌倉へ馳せたのだが、義家流源氏宗家の頼朝から遅参を散々に叱責され、老人は立場を失うのだった。
そして代を重ねる内に、ついに栄華を誇った義重の家も、鎌倉の末期には北関東の狭い地域(広大な新田庄のほんの数郷のみを所有)を拠点とする小豪族にしか過ぎない、在り来たり以下の武家一族になリ果ててしまうのだった。
照明寺(しょうみょうじ)の藤棚。
<鎌倉幕府に敵対する :決起する新田宗家>
新田氏の第八代目の当主である「新田義貞(にった よしさだ; 正式には源義貞)」は、朝廷からの綸旨を受けて蜂起した。
この綸旨の下賜は、後醍醐(ごだいご)天皇からの綸旨という話と、護良親王からの令旨という話があり、実はいまひとつ明瞭にはなっていない。1333年、「大番役(おおばんやく)」として上洛し、「元弘の乱」を戦い、「楠木正成(くすのき まさしげ)」を討伐するため千早城を攻めている最中のことであった。
その3月になると義貞は病気と称して戦線を離脱し、故郷の新田へと戻ってしまう。帰省は鎌倉幕府や六波羅探題には無届であり、戦場放棄は義貞の独断によるとの伝承がある。
しかし、不思議な事に歴史上、当然行われたはずの幕府からの公式な譴責措置が見当たらない。問責使が義貞の元に派遣された記録がどこにも残っていないのだ。このため、戦場離脱辺りの経緯や顛末の正確なところは、今もよく判らないのだった。
同じ1333年の5月、幕府から新田庄へ派遣されて来た二人の徴税使を切り倒して晒し(正副の2名中、幕府役職の高位にあった金沢出雲介は幽閉措置のみ)、とうとう「倒幕の旗」を打ち立てるに到る。
徴税は、楠木正成の倒滅のための派遣軍(鎌倉幕府側の正規軍)の軍費が不足し、それを広く調達するための特別徴収(有徳銭)であった。その成敗事件の直後に、新田庄内の古社である生品明神と地元で呼ばれていた「生品(いくしな)神社」で挙兵し、倒幕の姿勢を鮮明にしたのであった。
義貞は挙兵すると軍勢を進めて、幕府の中心拠点である鎌倉の地を目指して南下を始め、南下するごとに周辺の武士団を決起させ、武士達を糾合していく。
合流を得て勢力は膨らんでいくのだが、当初は同族を集めただけで蜂起したため、数百名といった一揆並みの武装勢力にしか過ぎなかった。生品神社で倒幕の旗を揚げ、挙兵した儀式(実際には儀礼は行われていないとする説もある)に集まった新田一族の武将(騎馬武者)は僅かに150名と伝わっているのだ。いかにも悲しいほどの小勢である。
国指定「新田庄遺跡」のひとつ、
新田義貞が倒幕の旗を掲げて挙兵した
「生品(いくしな)神社」
<生品(いくしな)神社 :新田一族との係わり合い>
余談であるが、生品神社は、家祖である「源義家(みなもと の よしいえ)」が奥州征伐への遠征の際にも戦勝祈願をした場所で、新田氏一族にとっては由緒がある神社だった。
義家による出陣の祈願は1083年、義家が「陸奥守(むつのかみ; 陸奥国の国司)」に任命され、「清原(きよはら)氏」との間で「後三年の役」を起した際の出来事であろうか。しかし、神社に置かれたパンフレットには祈願が成されたのが天喜年間(1035年〜57年)の事とある。
それでは義家の父「頼義(よりよし)」が陸奥守に任じられ安倍氏(陸奥土着の国人一族で有力な豪族)と戦った「前九年の役」の時点での出来事なのだろうか。
1051年に頼義が奥州へ赴任するための、都から陸奥国の「国衙(こくが)」へ向かう旅の最中のことかもしれない。でもそれであれば、社伝としては義家の奉納ではなく「頼義の奉納」として祈願の事が伝わっているはずだ。
頼義はその後の53年には「鎮守府将軍」に補任され57年頃にはその任を解かれて都へ帰還する。だが、それ以降も奥州では戦乱が続くので、奥州との関係が途絶える事はなかった。当然ながら息子である義家は、51年以降57年までの間、陸奥守となった父と共に国府(陸奥国衙 内)にあって、他所へ移動する余地は無かったはずだ。では義家は何時、この神社へやって来て戦勝を祈願したのだろうか、どうも良く判らない話であった。
このことが随分と気になったので、生品神社の周辺を廻って遺構などを少し調べてみた。そうしたら、新田の地はかつて交通の要衝であり、神社の南側には古道の宿駅が置かれていた事が判ったのだった。
飛鳥、奈良まで遡る古代律令制で設置された国家規模の主要道である「東山道(ひがしのやまのみち)」が新田を通っていて、しかもここは他国へと分岐する、極めて重要な場所なのだった。
「東山道」は都が置かれた奈良や京都と東日本を結ぶ古代律令制での中央道(七道のひとつ)であり、東国の下野から後に東北地方へと広がり、中央集権として成立した国家にとっては東国の支配強化や奥羽開拓を推し進めるための重要な交通路となった。
街道には30里ごとに駅が設けられ、道はどの部分でも10m程の広さで、宿駅の間を直線にて結んでいた。各駅には「駅馬(はゆま)」10頭を備えた駅家が置かれたが、それは近江国の「勢田(せた)」駅を起点とし街道中に設営された宿駅だった。
大勲位の筆による碑。
内閣総理大臣当時の「中曽根康弘」氏によるが、
さすがに出世の神と称えられる神社だけのことはある。
海軍の主計少尉から内閣総理大臣へ登りつめた、
昭和の大御所政治家(戦中派)のひとり。
なお、銅像は盗難で失われてしまった。
新しい銅像を制作したのは、新田義貞の弟の脇屋義助の子孫の方。
東山道の歴史は古く、近江、美濃、(飛騨)、信濃、上野、下野、(出羽)、陸奥の各国国府を通る奈良時代からの中路(官道のひとつ)に分類される幹線道である。(列記した国名の括弧付きの出羽と飛騨の国府を通る道は「中路」ではなく、そこから分岐した「小路」であった。)
道が制定されたのは古代であり、それは飛鳥時代にまで遡る事が文献で明らかにされている。
そして奈良時代に入って整備が進んで、平安時代には陸奥国府の「多賀城」までの間が平安京から新田を経て直接繋がった。都から始まる直線道路は、時代を経るとその先の鎮守府(ちんじゅふ)までを結んでいたのだった。鎮守府は国家の前哨であり、前線にある本営であった。出羽までの東国はすでに国家の枠組みに組み込まれていたので、この場合の鎮守府は奥羽地方征討、特に陸奥地方の征服のための国家機関であった。
新田の地では道はさらに広く、教育委員会の発掘結果から10mを越える規模であり、後に農業用水路として利用させる程の側溝を備えた、広い道であった事が判っている。そして新田の地で東山道は分岐して、「東山道武蔵路」となり南方の武蔵国府(府中)へと向かい、本道は新田から北上して下野国足利へと続き、さらに奥羽や陸奥の地まで延びていた。
新田の地に上野国の国府があった訳では無かったが、浅間噴火によって「空閑地」と化す前から発展していた事は、国家経営の主要幹線である東山道がここを通り、しかも他国への分岐点が置かれていたことや、最大規模の「郡衙(ぐんが)」が置かれていたことでも判る。中世初期から中央に直結して「租」の運脚や「庸」「調」の移動をした物資流通の街道であり、さらには東征のための軍勢などが行き来をした軍用道路であった。その国家幹線道路上の東国支配のための重要な拠点の地でもあったのだ。
「郡衙(ぐんが)」とは;
「国衙(こくが)」同様に郡を統治する国家機関であり、「国・郡・里(郷)」を統治単位として重層的に統治した
律令制度上の行政府である。
現在の市役所に相当する機関である。なお、郡衙の施設規模は、通常は50m四方であった。
設備としては、「正倉(しょうそう;租である米や調などの収納物の保管倉庫)」「郡庁(ぐんちょう)」「館(たち)」「厨(くりや)」
から成りたっている。
だが、「
新田郡衙
」内にある、郡司が政務を執る施設である「新田郡庁」跡は50x90mの規模の遺構が発掘された。
郡衙やその周辺の遺跡発掘をした太田市教育委員会によればその設備規模は「日本最大」だ、という。
(なお、平安期の上野国には14の郡が設置されていたが、新田郡衙はそのうちのひとつである。)
<生品(いくしな)神社 :鏑矢(かぶらや)の伝説として伝わるもの>
さて、義貞がこの神社で旗揚げしたにが小勢力からだったにも関わらず、その後見事に強大な幕府を倒潰させた吉事に因み、この生品神社が今では有名なパワースポットとして挙げられているのをご存知だろうか。
確かにその社域(境内やその前の広場)に伝わる空気感は独特の感じだった。霊験あらたかというのか、空気自体が清浄で、非常に荘厳な落ち着いた雰囲気に溢れている。神社の境内は隅々まで掃き清められていて、とても在にある神社とは思えない趣き深い様子なのだ。今もなお、5月8日には、義貞の出陣(倒幕の挙兵)を模した儀式である「鏑矢(かぶらや)祭り」が執り行われるという。祭りは8日の10時から開始され、地元の小学生の集団が衣服を袴と胴着の和装に改めて、勇壮な面持ちで弓に矢を番えて一斉に放つものである。
義貞が弓を引き、鎌倉へ向けて放ったとされる矢先の「鏑」には、私は「蟇目(ひきめ; 鏑に穿たれた四箇所の穴)」が入れられていたことだろう、と信じている。一般に蟇目を入れることで、矢が放たれた時に発する音響が「邪を払い場を清める」とされていたからだ。怨霊社会と言っても良い平安時代はとうに終焉して、鎌倉時代が幕開けて中世から近世が始まっていたいた訳だが、まだ「邪」なものなどの忌まわしいものへの呪術的な対応はなされていたのではないだろうか。
義貞は出陣に先立って、陣頭に立ち、弓を引き絞って、備えた鏑矢を鎌倉めがけて放ったのだという。今も神社の南方には「矢止めの松」が残っているが、義貞が放った矢が真っ直ぐにに飛来して、この松の樹で止まったのだという。
ちなみに松の木が祭られている場所は、神社から優に2キロ程も南方にある。
武家の棟梁として相応しい胆力を備えた武人。強弓を引き絞り、彼方まで矢を放つだけの技と力を持った者。義貞は神秘的な力の持ち主なのだ、という表現がこの説話から見て取れる。勿論、英雄にまつわる美しい伝説のひとつである。
境内入り口にある
「鎧掛けの松」。
出陣の集いの儀式の際に、
義貞は、この松に鎧を掛けたのだという。
<生品(いくしな)神社 :倒幕の旗の下に集った武士たち>
神社での旗揚げを挙行し、出陣を果たした騎馬武者(武将)が150騎であったと仮定すると、挙兵当初に神社へ集結した軍勢の規模は、武者に付属した家の子(一族)や郎党(臣下の武士達)を含めても、5・600名の戦闘集団というところだろうか。
その総勢は、小荷駄や大荷駄といった補給部隊を含めると700名規模といった程度になるだろう。そのスケールは戦国期で言えば主城や支城を守る部隊規模ではなく、例えばそれらを支えて前線に鎖状に構築された小さな砦の、守備隊程度の軍事勢力に相当する。
あるいは後の戦国期の合戦、例えば戦国初期の「川中島の合戦」程度の規模から、後期の「姉川の合戦」位までの戦いをはじめ、幾多の大会戦(長篠の合戦、天王山の戦いや賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の合戦)などでみれば、主力決戦の前に繰り出される威力偵察部隊程度の兵力と変わらない規模といえようか。
決起して集結した武者がその程度の勢力規模なので、鎌倉から派遣される正規の鎮圧軍団の主軍と激突すれば、もう只の一度の合戦で壊滅してもおかしくはない。当然ながら、万余で備える鎌倉の正規軍(政府軍)を相手にするには、悲惨なほどの弱小部隊であった。
それは軍事的な見地からいえば「軍」とはいえない規模であり、師団や大隊のさらに下の単位を構成する「中隊」規模の戦闘単位に過ぎないものだ。
決起した一族郎党は一気に鎮圧部隊によって殲滅される事が予測される。どの武者もみな、悲愴な決意を秘めて故郷の地を出立したに違いない、と私は思っている。
出陣の際に、義貞が床机を据えた場所。
挙兵の際に新田の旗印を立てたと伝わる
「旗立ての古木」。
後世から見れば倒幕の企ては成功すると分析され、必然の企てであったと理解されるものだが、経過や結末の見えていない蜂起当時にあってはまさに無計画な暴挙といっても過言ではないだろう。それほどに義貞の決起当初の勢力は小さな武者達を絵に描いたような、僅かな勢力に過ぎなかった。
新田宗家の一族、弟の「脇屋義助(わきや ぎすけ)」や義貞の子息が集ってた。しかし妻「安東聖秀(あんどう きよひで)の姪」の実家は北条執権家の被官の家なので支援は無かったのだろう。そうした家の一族、縁者や郎党は勿論だが、例えば、新田庄内部に別家を起した新田一族の支族達もまた、それぞれの郷を名乗る一門の武者達が挙兵に賛同して参集したのだった。
大舘(おおだち)氏の当主であり義貞の妹婿であった「大舘宗氏(おおだち むねうじ)」とその子息達。「氏明(うじあき)」、「幸氏(ゆきうじ)」、「氏兼(うじかね)」の三人の息子。「堀口貞満(ほりぐち さだみつ)や行義(いくよし)」の父子、「岩松経家(いわまつ つねいえ)」、「里見義胤(さとみ よしたね)」の一門衆、「江田行義(えだ いくよし)」や「田部井泰経(ためがい やすつね)や泰寛(やすひろ)」の父子、「大島義正(おおしまよしまさ)や守之(もりゆき)」の父子、「桃井尚義(ももい なおよし)」など、一族内での主要な家の当主達がその一族である子息や兄弟などを引き連れて、義貞が旗揚げをする「生品(いくしな)神社」へと集まった。
いずれも有能な武将であり、新田勢の結束は比類ないほどに固いものだったはずだ。(何せ、企て自体が決死のものである。)
しかし、いかにも庄内を拠点とする新田家一門だけでは小勢に過ぎない。幕府を敵に回すには圧倒的に武者の数が少ないのだ。彼ら一門や一族衆が、神社の境内に集結した時点で、自らの手によって倒幕が成功することを信じた者は、極めて少なかったに違いない。
生品神社の境内へ入るための橋(結界としての空橋)が見える。
入り口に建つ木製の赤い鳥居の内側なので、もうここは神域であり、神社の境内といえよう。
馬場のように広く取られた場所であった。
境内の2番目に建つ石組みの鳥居。
<挙兵した武士たち―1 大舘氏 堀口氏>
さて、倒幕の挙兵に従った一族のその後に触れておこう。生品(いくしな)神社に集いし150騎の武将達の結末を見てみようと思う。大舘氏や堀口氏の挙兵後の顛末というか、その後の運命を思うと、胸が詰まるものがあるからだ。
「大舘宗氏(おおだち むねうじ)」は、新田支族の大舘氏の当主。新田政義の次男であった「家氏(いえうじ)」が新田庄内の大舘郷に土着し、以来「大舘」氏を名乗ったのが家の始まりだ。
討幕軍中の第一軍の大将(右大将)であった。勇猛果敢な武将であり、鎌倉への突破を果たすが市街戦で討死してしまう。ともに挙兵した子息の氏明は倒幕後にその戦功によって伊予国の守護に任命される。しかし建武の中興後に勃発する南北朝の動乱で北朝により殲滅される事になる。
また、「堀口貞満(ほりぐち さだみつ)」は新田支族として庄の東南端、堀口郷を統治していた。大舘宗氏の兄の「貞氏(さだうじ)」が堀口郷へ定着して「堀口」を名乗り別家を起した家の当主だ。
だから新田支族ではあるが、血縁の度合いで言えば「大舘一族」といった色彩のほうが濃い。倒幕後は従五位上 美濃守に叙任される。義貞に従って転戦して主家を助けて活躍するが、義貞と共に越前の地で彼も戦没する。
鳥居に掛けられた
「注連縄」が真新しい。
<挙兵した武士たち―2 里見氏>
「里見義胤(さとみ たねあつ)」は里見郷(現高崎市)という遠隔地を拠点とした一門衆。里見氏総領家の当主である。
新田氏の家祖「義重(よししげ; 義家の長男)」の子息、長男「義俊(よしとし)」が里見氏を、弟の「義範(よしのり)」が山名氏の祖となり、末子の「義兼(よしかね)」が新田宗家を相続したことは、前回の<新田家の血脈の紹介>でも書いた事だ。
里見一族は、後に里見氏、大井田(越後の新田一門衆)氏、大島氏、烏山氏、田中氏へと分かれる大きな支族である。
なお、里見氏と山名氏とは新田義重と異なり頼朝挙兵に賛同して足利義俊(よしとし; 義重の弟)などと共にいち早く鎌倉へ馳せ参じた。遅参した新田宗家に風当たりは相当強かったが、頼朝の挙兵に参じた支族の家は新田一門としてではなく、それぞれが独立した鎌倉御家人の家として扱われ、その地位も宗家よりも高かった。
鎌倉にある北条家を打倒する倒幕の挙兵に新田宗家が立ち上がった時、保持されていた支族の勢力は優に宗家のそれを凌いでいた。
生品(いくしな)神社での挙兵時には参加しておらず、その後に義貞が兵を展開して南進を開始する際に合流したようだ。
こうした訳で里見一族は優勢な戦力であり、「大新田氏」と呼ばれる一門衆だった。里見氏宗家、越後里見家などの支流、大井田家、大島家、越後田中家など、多くの一族を引き連れて義貞の倒幕に参陣した。
境内の3番目
一番、拝殿側に建っている石組の鳥居。
<挙兵した武士たち―3 江田氏 田部井氏>
「江田行義(えだ いくよし)」は義重の四男・義季(よしすえ)を家の祖とする一族で、同じ義季からは世良田(せらだ)氏や得川(とくがわ)氏が発生する。
義季の息子の兄方が世良田郷を、弟が得川郷を地盤とした。江田行義は義季から4代後の新田一門衆である。後に江田氏は細っていくが、義季の息子達の嫡流家は世良田氏や得川氏として栄える事になる。極楽寺坂口攻めの大将として活躍した。
江田氏の居館が「江田館跡」として国指定の新田庄遺跡のひとつとして保存されている。
新田宗家の「反町館」同様に指定遺跡に揚げられている中世の平城遺構なのだが、周囲を堀と土塁で囲んだ中世の武家館の趣を今によく残している。室町幕府からの弾圧から逃れ、備後(びんご)国に潜伏し姓を「守下」に改称して存続を図り、10代の後の1593年、故郷の地へ帰還したという。
「田部井泰経(ためがい やすつね)」や「泰寛(やすひろ)」の父子は笠懸野にある田部井郷を地盤とする一門衆であり、「大島守之(おおしま もりゆき)」は大島郷を地盤とする一門衆だ。
生品神社の参道。
常夜灯には江戸時代の「天明」の字句が刻まれていた。
<挙兵した武士たち―4 岩松氏>
さて、大舘氏や堀口氏や他の一門衆とは少し違っているのが、岩松氏の位置づけだ。
「岩松経家(いわまつ つねいえ)」は足利の祖となった「義康(よしやす)」の孫、「義純(よしずみ)」と義重の孫女の間に生まれた「時兼(ときかね)」が新田荘岩松郷を本拠とし、そこで「岩松」氏を名乗ったことに始まる家だ。田部井(ためがい)、薮塚(やぶつか)、田島(たじま)などの郷に時兼の子息が定着して勢力を張った。
父方の祖は足利氏なので新田支族ではないが、通常は新田岩松氏と称されている。
岩松家は新田宗家の都での失態(当主の「政義(まさよし)」が京都大番役での上京中に鎌倉幕府に無断で出家してしまったことを問題とされた)によって没落すると、それに変わって台頭して宗家を凌駕し、一時は世良田家と共に新田庄の権利を獲得する。鎌倉幕府へも出仕をはじめ、勢力を増大させていくのだった。鎌倉幕府は政義の行為を譴責して、その処分として岩松家と世良田家の両氏を新田の新たな氏の長者と取り決めて処置し、さらに新田荘園の領地を宗家から剥奪して、半地割として両家へ与えてしまう。
後の戦国大名の割拠する世となると武家の出家は珍しくなく、後北条家の祖となった「北条早雲(ほうじょう そううん; 伊勢 盛時 いせ もりとき)」、「武田信玄(たけだ しんげん; 晴信 はるのぶ)」、「上杉謙信(うえすぎ けんしん; 影虎 かげとら)」など、例を挙げるときりが無いが、当時は隠居して家督を譲らない内は許されない事だったのだろうか。
この岩松家の歴史も波乱に飛んでいて、しかも多彩な展開であり、調べるほどに面白い。しかしここでは触れない事にしよう。
岩松氏にまつわる記録などでは新田宗家をないがしろにして従わなかった節(大舘氏との水争いの事例など)もあり、挙兵に賛同した事が実は不思議に思えている。
彼らの出自を考えてみても不自然さはあって、足利一門ともいうべき家なのだ。
それでも岩松一族が義貞の挙兵に初期段階から参加しているのは、挙兵前から足利尊氏との間で密約が成されていたという話(通説であり根拠がないもの)を、この事実が裏づけやしまいか。
その後の岩松家の変遷を調べるのも面白いのだが、義貞の挙兵に関しての事情を考えると、この岩松家の参加などもまた、少し面白い話ではないか。
生品神社の参道奥にある、
旗立ての古木。
<倒幕の旗印 :鎌倉を目指して南下する>
挙兵後の早い時期に越後から同族(里見一門)の大江田一族の数千騎が援軍として合流して、軍勢はやっと勢いづく。越後にあった新田一族である「大井田経隆(おおいだ つねたか)」とその子息の「経兼(つねかね;長男)」、「氏経(うじつね;次男)」の父子を中心とした勢力である。
その数五千と伝わっているが、そこまで多くはなかろう。騎馬武者で数百騎であり、言われる武者数には遠く満たないものではなかったろうか。騎馬武者を中心として周囲を取り巻く一族や郎党、小者などを併せて、さらに荷駄隊などの補給・支援部隊も併せた総勢を数えて、その勢力は千名ほどだったのではあるまいか。
当初、挙兵に当っては新田同族の勢力が優勢な越後へ移って、その地で兵力を蓄えてから行う、と義貞は考えたという。
それほど、新田庄内で参陣する同族の勢力は少ないものだったのだ。足利氏のように確固とした権勢を幕府内で得ていれば新田庄内に散在する一族の持つ軍事力もまた違ったのだろうが、地位の低い無官の御家人では養える兵力にも限りがあったろう。頼朝の鎌倉入りに義重が慎重な姿勢をとって不参加とした事が、後に幕府内での地位を決定的なものにしたのだが、その影響は計り知れない大きな結果をもたらしたようだ。
生品神社の拝殿。
しかし、大井田氏一族の大規模な増援を契機として援軍は続々とその後も集まり、甲斐や信濃に散っている新田同族、それに新田支族だけでなく信濃の仁科氏など源氏一族などの増援を得て、膨張していった。
一路、鎌倉へ向けて進軍を続ける軍勢は、そうして武士団を集めつつ、次第に膨らんでいくのだった。鎌倉に向けて南下する毎に各地に散らばる武家諸族からの援軍を加えていく。
軍団の兵員を増していって、ついに数万(武蔵国の府中に至った時点で四万の軍勢と伝わっている)を誇る大勢力となっていった。
さらにいずれも源氏の一族ではないが、武蔵からは河越氏、江戸氏、豊島氏、葛西氏が参陣して武蔵衆を構成し、下野からは小山氏や結城氏、上総・下総からは千葉氏などの多くの豪族達が参陣したのだった。
拝殿脇にあった祠。
<鎌倉への進軍 :小手指が原での戦い と 分倍河原での戦い>
戦闘の過程で武蔵野国の「国分寺(こくぶんじ;一国一寺として建立された国家護持の寺)」の大伽藍を焼失させたりして、新田軍は幕府勢力(反乱者を鎮圧する任を帯びて北上してきた軍団)と大いに戦う。
しかし同じ府中での戦いで「桜田貞国(さくらだ さだくに)」を大将とする幕府の制圧軍に敗れてしまう。
その後、相模の「三浦義勝(みうら よしかつ)」らが相模の有力な国人衆である松田、河村、土肥、土屋、本間、渋谷など諸氏からなる軍を引き連れて来援して、新田軍には新たに六千騎が合流する。総勢としては万余の陣容規模の軍団を連れて参陣したことで体勢を立て直したのだった。
その後、反乱の鎮圧支援に駆けつけて増援された「北条泰家(ほうじょう やすいえ)」を大将とした幕府軍と「分倍河原(ぶばいがわら)の合戦」で再度戦うことになる。
それは新田一族の存亡と起死回生を掛けた決戦であった。
一度、幕府軍に敗られているため、再度負ければ集まった軍団は崩壊し、倒幕勢力は霧消してしまうだろう。各地の有力武士団による連合軍とはいえ、増員を得た後の新田勢の結束は万全とは言えなかったからだ。
自らの勢力のみで主力を固められていれば違う戦い方もあろうが、その中心勢力の同族が僅かに数百騎という規模では、取れる戦術は限られたものだったはずだ。
後の世でいえば、その軍勢は国持ち大名の本隊の陣営(幕営陣)程度であり、当主の幕営を取り巻く馬廻り衆(旗本衆)と変わらない規模であるからだ。
例えば、信長の親衛隊である「黒母衣(くろほろしゅう)は乳母子である「池田恒興(いけだ つねおき)」を中心として組織された部隊から始まるものだが、彼らは10名ほどの武隊であり馬廻り衆から抜擢されていた。「佐々成政(さっさ なりまさ)」などが後に大名となり、有名だ。小姓衆の内から抜擢された「赤母衣(あかほろしゅう)」もあり、やはり10名程で構成されたので、合わせて20名。赤母衣衆では「前田利家(まえだ としいえ)」などが有名。いずれも軍事的な選抜者であり、信長の身辺を固めるエリート達なので、後に任命された多くの武者が大名となった。
かれら信長の選抜した母衣衆はそれぞれに自分の手勢を率いて迅速に行動し、機動部隊的な役割を構成していた。おのおので100名、都合、黒・赤両方で200名ほどの武者勢力であった。
統率の取れた勇猛果敢な先鋒や次鋒や中堅といった何段もの軍団で構成された主軍と、それを取り巻く遊軍や押さえとなる殿(しんがり)など、譜代衆で構成するからこそ底深い力を軍団は発揮する。そうしたすべての武隊を構成する主力が援軍だ、というような状況であっては、作戦も展開も、随分と制限されてしまうだろう。
しかし、倒幕軍には、奇跡的とも言える勝利が訪れることになる。
圧倒的な優勢(軍の規模)にあった北条軍に新田の軍勢は、機略を持ってこの戦いで勝利するのだ。その後は勢いを更に増して政治都市の鎌倉を目指し、軍団は一気に南下していくのだった。
拝殿裏に建つ「本殿」の様子。
三浦氏や千葉氏の一族は「源頼朝(みなもと の よりとも)」が流浪していた際の有力な後援者達であり、言ってみれば鎌倉幕府の成立に深く寄与した、政権の立役者でもあった。
本来は幕府支援の勢力となるはずの彼らであるが、参軍した武蔵衆などと同様に、北条家が権勢を振るっている時の幕府を見限ったのだ。
こうして新たな武士達(北条一門で占有された既得権益を持たない、冷遇された武家勢力)の統合勢力は、140年に渡って続いた幕府の本拠地、武家の都の鎌倉へと一丸となって攻め上って行くことになる。
新田義貞としては「倒幕」を掲げて蜂起した訳だが、相模衆が合流するまではそれを実現可能な企てとしては捕らえてはいなかった様に私は思う。
義貞が唱えた「倒幕」の声は、幕府と戦端を開くための主張としての旗印が必要だったためだろうし、檄文の表題としての大儀命文が欲しかったからだろうと思っている。
そうした事情もあって「倒幕」といったが、優勢な越後勢が来援するまでは都への進軍さえも困難と考えていただろう。さらに相模衆から増援を受けるに及んで、やっとその企てが現実味を帯び始めた。きっと、義貞はそのように思ったに違いない。
本殿の脇から、
神社の入り口を見る。
<鎌倉への侵攻と陥落>
幕府の本拠地である鎌倉は地形を生かした難攻不落といわれた都市であり、武家の本流が開いた都(みやこ)であった。精神的なシンボルとしての「聖都」でもあり、政治機構の中心としての「政都」でもあった。そしてその地は、関東各地から集合する軍団を収容する基地的な集結地でもあった。
三方を丘陵に、前面を海に守られた天然の要害といえた特異な地勢を鎌倉は持っている。だからこそ頼朝は、難攻不落となるその土地に思い定めて、新しい政治を始める表舞台としたのだろう。
鎌倉なら広大な防塁をもつ城砦都市としての特性を有しているので、少数の兵力で防御や防衛戦が可能になる。コンパクトな常備軍を備えれば外敵の侵入を防げ、それであれば幕府軍の維持・運営に莫大な資金は掛からずに済むことになる。
頼朝は、新しく開く「幕府」という組織機構によって貴族層からの権力奪取を無事に行い、長きに渡った貴族政治を終焉させる必要があった。そしてそれは支配者層の大転換なので、新しい権威の独立性を既得権益者から確保しなければならなかった。
中世からの多くの呪縛(皇室や既存勢力としての貴族や寺社)をもった京都という古い都市では、それら既存勢力からの独立を保つ事は難しいと、頼朝は新政権の設立に際して切実に考え、その打開策を練ったはずだ。
皇室の移動となる京都からの遷都などは勿論出来ない相談だろうが、政治機構の異動なら出来る、と天才的な閃きで頼朝は発想し、政都となる鎌倉の構築を成功可能な取り組みだと踏んだのだ。
神社の境内から放った矢が刺さったという伝説が残る。
生品神社の南方にある「矢止めの松」。
武家貴族の治世の中で、貴族たち支配層に変わって次第に台頭し始めた実力者は、新しい階層である武士達、武家衆であった。
彼らの主体は貴族ではなく、司馬遼太郎によれば独自の努力によって生産の場(つまりは富の源泉)を確保した「開拓農場主」という立場にあった人々だ。それは貴族のような世襲の荘園領主ではなく、独自の力で土地を切り開き生産力を挙げていった新しい階層の民といえる。
当初は都から各地に下向した下級の貴族や、国人と呼ばれた勢力を誇る土豪たちであったが、それぞれの地を根拠として定着して勢力を伸ばし、農地を開拓・獲得して権益を確保し、やがて貴族の下位に位置する中間的な支配層を築くに到る。
税を収納して上位の貴族へ送付するだけではなく、自分たちの努力の結果として勝ち得た生産に見合った、正統な報酬を得る必要がある、と彼ら実質的な領主達が考えたのは無理もない。収奪ともいえる不労階級への上納に次第に納得がいかなくなって来る訳だ。
そして彼らは、自分達の権益を守るために「武士団」を形成して、各地に蕃居を始める。その代表的な権威者として幕府将軍を定めて、幕府による直接統治を実施しなければならない。そうした体制を整える事によって、収奪するだけの中央官僚(貴族層)から階層的に決別する必要があったのだ。
そのために創出された行政機関が「幕府」という連合体の特性を持つ新しい組織だった。「奉公」を武士達は提供し、領主としての地位や権益を「安堵」してもらうと言った信頼関係による統治構造をその根底に置いた。
独立性を高く保ち、容易に侵攻させない堅牢な防御力を備えた場所を選定し、その新天地にまったく新しい理念を持った新発想の政治体制を、流亡していた義家流の源氏当主である源頼朝が開いた訳だ。
神社の境内から放った矢が刺さったという伝説が残る、
生品神社の南方にある「矢止めの松」。
生品神社の南方、木崎郷にある「大通寺(だいつうじ)」。
「いざ、鎌倉へ」として表されるように、「鎌倉幕府」という新しく生み出された政体を担いだ各地の強固な武士団は、一朝事が起こると何を置いても疾風のような勢いでその地へ馳せ参じた。
各地に点在した幕府の有力な構成者である鎌倉御家人の支配地からは軍事道路としての「鎌倉街道」が張り巡らされ、強力な軍団(支援勢力)の行動を容易にしていたのだった。
なにせ、そうした鎌倉古道は関東一円に往時の形跡を留めて、今もなお広く残っている。私のポタリング行などでも触れた武蔵嵐山周辺の鎌倉古道や与野辺りの街道筋は言うに及ばず、渋川北方の白井宿などといった土地にも鎌倉街道は残っていた。後に宿場町に変質して発展を遂げる白井などは、中仙道から金井宿を経て越後街道や吾妻街道にも続く動脈の中心的な場所なので、鎌倉時代になればもちろんの事、それ以前の古い時から充分に整備されていたのだろう。
鎌倉防衛における主要な戦略は、上に書いた二つの要素から成り立っていた事だろう。難攻不落の要塞都市の地勢を利用した防衛体勢と、縦横に張り巡らした鎌倉街道を利用した迅速な軍団の移動による増援体勢の、二要素だ。
たとえば、各地へ伸びた鎌倉街道などは、時代が下った「元寇(げんこう)」の際には、各地の武士団が迅速に集合するために活用され、その有効性が実証されているものだ。
だから幕府の戦略としては、天然・自然の地の利を生かして防戦し、敵の兵力を暫減(逓減)して持久し、援軍の到来を待って、敵対勢力と決戦するというものだったろうと想像される。
大通寺にある「冠掛けの松」。
挙兵した新田義貞が生品神社から進軍し、
この寺で休息した際に、
その兜を掛けたという説話が残っている。
<新田討幕軍 :勝利の要因は?>
ところで、幕府創生期の話になるが、源頼朝は御家人となった各家(有力な武家達)に伝わる技を調査し礼式を含めて典礼として統合した。
幕府将軍としての権力を地盤として各流の名人から極意を提出させ、源氏や平氏として分かれて土着した各家(武芸名人)の当主に伝えられていた武芸を集め、これを記録し、さらには流儀として統合する作業を行ったのだった。
その内容は中公新書「武家の棟梁の条件」に詳しい。多くは弓馬の術(流鏑馬に代表される
;のんびり 行こうよ 2012.10.21 「土師(はじ)神社の流鏑馬 藤岡」
)だが、これによって各家のとる戦法についても把握していたのかも知れない。戦力や武器の種類、能力といった軍事全般的な内容の敵方の情報を知っていれば、守る側にとっては脅威ではない。
想定どおりの戦略に基づいて三面の切り通しに置かれた幕府側の防戦軍によって、新田側の軍勢による攻撃は難航する。辛うじてその硬い守りを突破して山之内へ進入するが、その後も幕軍の防衛勢力は強靭で、攻めあぐねる事になる。
兜掛けの松。
ただし、これは当時からのものではなく、
2代目に植えられた松だという。
都の前面は海であり、そこには「稲村ヶ崎」の浜が広がっている。潮が満ちれば一帯は海となる。
当然ながら難路といえ、そこからの軍勢の侵攻は難しい。それに、海路での侵攻に備えて幕府側の軍船がひしめいていて、防戦体勢を整えてもいるのだ。
しかし、その天然の防塁も、軍船を持たない新田軍に突破されることになる。来襲しないはずの場所からの急襲におって、遂に幕府軍は全軍に及ぶ混乱に陥る。干潮を待ち、演出を施す事で見方を鼓舞しつつ、潮の引いた浜を難なく渡るという計略を持って防戦する幕府軍の不意を突いたのだ。
早くから鎌倉に登った際に、義貞自身が周辺を緻密に偵察して土地の特性を掴んでいたという説もある。
河川の水深や瀬の深さ、干潮の時期・周期を含めた軍事的な要素を知悉していたという話があるし、そうした知識を持つ武家の協力を得たのだという話もある。海のない上野国新田庄にあった地方の小豪族が「潮見の知識」は持っていなかろう、というのがその根拠だ。
そうした諸説があるのだが、しかし、いずれも明瞭なものではない。
江田郷にある神社。
勝神社という勇ましい名前。
新田氏の支族、江田氏が本拠とした土地。
国指定の「新田庄遺跡」のひとつ、江田(えだ)館跡。
<幕府の滅亡 :隠径(かくしみち)の伝え>
鎌倉の地勢(地理、気象などの軍事的な内容)に関しては、新田家の家伝の一つとして本家嫡男である義貞に秘伝の一つとしてこうした知識が伝えられていたのでは、と私は考えている。
新田家には秘伝である「隠径(かくしみち)の伝え」が相伝としてあるのは有名な話なのだ。
「分倍河原(ぶばいがわら)」での一度目の敗戦は一説には5万とも言われる援軍を鎌倉から得て勢力を増していた桜田軍の増強された戦力を見誤った(増援に気付かなかったという)もの。そのあとで挙げられた新田軍の大勝利は、大勢力の援軍を三浦一族(相模国人衆)から得た新田軍が家に伝わるその伝承を生かして幕府軍を巧みに包囲したからだと言う。
武家の「家伝」は一子相伝されるもので、江戸の世に時代に下ってから剣術や槍術で行われた免許や武術一般の印下状の世界とは異なる。普通は他人への伝授はしない「極意」であり、家の後継者へ伝承する資産として大切に守られた「秘伝」である。
武術としての弓や槍や刀の技、乗馬の技、和歌などの芸、大切にされた式礼や儀礼作法といった典礼式目、さらには気象観測の術などが家伝(家の技)として後代へ伝承された事は有名だ。
さらにそうした実技の世界での教えのみでなく、川の渡河地点や増水時の水嵩、潮の流れ、間道の有無やそれらの幅、などの「戦闘時に必要不可欠となる地勢的な知識」も実際に秘伝として伝えられていた。
実技ではなく一方の地勢知識の方は仮想敵を表してしまうため、極秘事項として深く秘匿されていたはずだ。だから後世にその知識は公開されず、詳細は伝わっていないのだった。深い闇の底にあって、今もなお密やかに秘められているのだろう。
江田館跡の土塁と堀の様子。
江田館跡の周辺の民家に挙がっている表札の苗字は、みな江田さん。
遺跡の一帯を気にして見たら、あたりは江田さんのお宅だらけだった。
見事に切り通しと海に守られていたため難攻不落を謳われた鎌倉であったが、とうとう潮の引いた浜から新田軍は上陸し、幕府の中心地帯にまで攻め込む事になる。
盛んに抵抗線を張る敵(幕府勢)との間で激しい市街戦を繰り広げるのだった。そして当初150騎から決起した新田氏の軍勢は勝利する。
三代で滅びた鎌倉宗家(源氏の嫡流家)に変わって長きに渡り権勢を誇り、「時政(ときまさ)」を初代とし「高時(たかとき)」までの9代に渡って幕府執権職を世襲するなど幕府の枢要を占めていた北条一族を、遂に滅ぼすという偉業を成し遂げるのだった。
鎌倉の地を防戦していた軍勢であったが、戦い虚しく遂に打ち破られ、すっかり侵攻軍に包囲された「北条高時(ほうじょう たかとき)」は一族郎党の870名(女御子息を含む)で若宮大路にあった東勝寺(第三代執権職、北条泰時;やすとき が建立した古舎)にさらに立て籠もる。
必死に防戦もしたのだろうが、彼らは郎党(縁戚者や家人、個人的な使用人)を含めて新田軍へと投降する事無く、その寺院に火を掛けて全員が自決するのだった。
<新田義貞と足利尊氏のつながり>
鎌倉を陥落させた功労者の「新田義貞(にった よしさだ)」は、建武政権が始まると見違えたように重用される。
「左馬助(正六位下の官僚)、左衛門佐、左兵衛督、左中将」となり「武者所頭人」の職に就き、播磨や越後の守護職に任じられる。政府内での武家の統括者であり一国を治める政府官僚の一人となった訳だ。
新田の勢力は再び訪れた「天皇親政の政治機構」下にあって常に天皇方にあり、武家方を代表する足利尊氏(あしかが たかうじ)と覇権を争う事になる。後にこの確執が南北朝の争いに巻き込まれて、発展(おかしな表現だが、昂進という意味)していくわけである。
程なくして尊氏は新たな政権に反旗を翻し挙兵するが、これを倒滅するために新田が主力となって戦いをし、播磨で尊氏に同調して挙兵した赤松氏を攻略するがこれに失敗し、さらに湊川で尊氏に敗れ、敗走して越前の地へ落ちていく。
そしてそこで遂に落命してしまう。
実に歴史の皮肉といえる話だ。義貞は足利一門衆の「斯波(しば)」氏に討たれて戦死したわけだが、元を正せば斯波の家は足利家の宗家。つまり、新田と流れを同じくする義家流の源氏一族なのだった。
二の丸の土手。
館の外周の堀と土塁の外にある張り出し部分。
本丸の南側に位置している構築なので、古くは一族(息子など)の館が防衛を兼ねて置かれたのだろう。
義貞が鎌倉攻略の旗を挙げた際、「足利尊氏(あしかが たかうじ)」は鎌倉幕府の総大将として軍団を率いて上洛していた。「北条高時(ほうじょう たかとき)」の命により後醍醐(ごだいご)上皇を討伐するためである。
幕府軍の総大将にも拘らず、北条氏が実験を握っていた幕府は尊氏の嫡子を人質とし、鎌倉に留め置いたのだ。その後の戦国期などにも見られるように、その措置は武家の世の習いとはいえ、足利氏という幕府最高の実力者にとっても酷な仕様と言えよう。
北条家に次ぐ権勢を足利家が持っていたため、裏切りを警戒して人質をとったとも思われるが、宗家の妻や子は権力の中枢地へ置く、というのが当時の武家の習いだった。
鎌倉も室町も江戸も、どの幕府も同じことを行った。開放的と思える豪放さを持った「豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)」でさえ聚楽第や伏見や大阪でそうしたのだ。
権力側は側近くに屋敷を構えさせ、嫡男など妻子を常駐させ。他には、自分の側衆や小姓として臣下直系の男子を身近に置く。そのようにして家臣の大切な親族を人質としたのだった。
土塁と堀に囲まれた高台状の
江田館跡の本丸(当主家の屋敷)跡。
上洛軍の最高権限者(反政府勢力の鎮圧軍団の責任者)である「足利 尊氏(たかうじ)」はしかし鎌倉幕府に反旗を翻して「六波羅探題(ろくはらたんだい)」を殲滅させ、時を同じくして尊氏の子は見事に鎌倉から脱出し、捕らわれる事無く新田軍への参加に成功する。
鎌倉への倒幕途上にあった「小手指原の合戦」の際に増大しつつあった新田軍に合流し、それを受けて義貞は知名度の高かった彼を奉じて進軍する方針へ転換する。
その子は、後の新田軍の象徴的な役割を果たす事になるのだった。尊氏の子は「千寿王(せんじゅおう)」と呼ばれ尊ばれた存在で、彼が推戴されたために新田軍へ加わったという武家も多かったようだ。後の室町幕府二代目の将軍、花の御所を営んだ「足利義詮(よしふさ)」がその人である。
鎌倉を攻める際には、新田と足利の両家は討幕・倒幕という方向で共に立ち上がった。義家から始まり、その後連綿と続く清和源氏の同族として深く協調していたのだった。
<源氏の武力を支えたもの>
南北朝の動乱にあって、反乱を起した足利尊氏は騒乱を各地に重ねて連敗して、ある時は新田の勢力(上皇側の南朝勢力、時の正規軍)によって九州の地まで追い落とされる事になる。
しかしその地で兵力を集め、驚くべきことに朝廷の綸旨を得て力を盛り返し、遂には対立していた新田勢に「湊川の合戦」においてとうとう勝利することになる。
綸旨を得た事で、反乱勢力から一転して、尊氏の側が「錦の御旗」を掲げたためだった。
勝利した尊氏は、武家の治世の象徴といえた古都鎌倉をあっさりと捨てて、政治の中心となる「幕府」を京都の地に開く。こうして政治の舞台は坂東の地を離れていく事になった。
京都は貴族が開発した古都であり、五摂家を頂点として長年に渡って藤原一族を代表とする貴族が勢力地盤を張っていた土地である。貴族社会にあって、常に虐げられていた武家にとっては因縁の深い場所であった。しかし 平安中期になると平家や源氏などの武家貴族が台頭し、次第に勢力を増していって、政治の様相を変えるとともに都市の備えた性格も変貌させていった。
いうまでもなく京都は天皇の住まう御所が置かれた雅な場所であり、また貴族政治の中心であったが、同時にそこは他所にない高度な工業都市という特性を併せ持った類まれな都市でもあった。
平氏も居館周辺の六波羅に独自の生産拠点を持っていたが、彼ら一族と覇権を争った源氏の一族も、有能な刀工や武具師などの多くの専門の職人を抱えた工業生産の拠点を確保していた。
平安時代末期の京都は、比類のない技で高い品質の武具を生産する全国有数の工業都市であった。そこは、鎌倉の武力を支えた弓や矢、刀剣(刀や槍)、馬具(轡や鞍、蹄鉄)、鎧・甲冑などの質の高い武器の重要な生産拠点でもあったのだ。
江田一族は、最有力の支族という訳ではなかったが、居館の規模はご覧のとおりであった。
先に紹介した各郷に散在した一族(鎌倉倒幕に集った家)の居館はみな、最低でも同様の規模を持っていたのだと私は考えている。
「本日の旨いもの」
をご紹介しよう。
牡丹の咲き乱れていた「大慶寺の入り口」にあるお店。
綺麗な店、とは言えないが真心のこもったおもてなしをしていただいた。
地域でも愛されている、
おばあちゃんの切盛りする「焼きまんじゅう屋」さん。
<今に受け継がれる気質>
勿論、源氏を代表する有力な氏族であった足利氏、その本拠地である足利の街においても、先の京都同様の状況があったに違いない。また、新田氏がほんきょに据えた新田庄においても反町館の周辺などにおいては同じ様相であったろう。源氏の一族であるからには、地方であるとはいえ武具製造の重要性が疎かにされたはずがないのだ。
調べていないので、実際はどの程度の規模で工房があったのか不明だが、武具の生産や補修、整備に必要な技を持った工人達を集めた拠点が、新田や足利においても造られていたと考えるのが妥当だろう。
そして、そこでは工人達が農民とはまた違った勤勉さを発揮し、日夜技術を研鑽し、改善を重ねていき、それを継承していったのだろうと考えている。
勢いを込めた徒弟制で厳しく教育し、時には淘汰するほどの配慮を配って次代を担う優秀な技術者を育成し、それに職人達も良く答えて熱心に技を磨いた事と思うのだ。先進的な工業生産を担う都市であるといった背景、古い時代からの文化的な積み重ねが脈々としてその土地に受け継がれた。新田庄は義貞の敗北と共に殲滅されてすっかりその勢力を失ってしまったが、足利の町は保護され存続し続けた。それが足利の街の近代化を成功に導く素地をつくりあげたのではなかろうか。
こうした土地に見るある種の職人気質といえる、仕事に対して勤勉で、地味な努力を惜しまない、という北関東では稀有な気質を形成する役割の一翼を、いにしえからのその事が担っていたように思えるのだ。
店の看板メニューは上州名物の「焼きまんじゅう」なのだが、もうひとつお勧めが有るようだ。
太田・尾島地区の名物である「焼きそば」も良いらしい。
焼き饅頭の付けだれは定番の甘い味噌味。
しかし、前橋や伊勢崎などの水飴ではなく、
この店では砂糖を使って甘みを出しているようだ。
プレハブベースのお店は6畳ほどの広さ。
壁面にはポスターや絵手紙などが飾られている。
店を切り盛りしているのは、
今もお元気なおばあさんだ。
ちなみに、耳も達者で、つり銭の計算も速いおばあさんは、店の看板娘といえようか。
当年で86歳になるという。
来客のご近所さんも充分におばあさんと呼べる年配なのだが、彼女達からしても、店のご当主は「お婆さん」と呼ばれていた。
職人は自分の仕事は大事にするし、日々腕を磨く努力をする。でもそれは「職人」であれば当たり前の事。全国遍く誰もがこなす基本の部分だろう。
しかし北関東の職人と言ったら、少し性格を異にしているように思われる。ある局面を過ぎると途端に投げやりで大雑把な姿勢に変貌することが多い。北関東の人間は大体において飽きっぽくもあるし、怒りやすくもある。その在り様は瞬間湯沸かし器のようで、地味な作業を積み上げるのは不得手なたちといえるのではあるまいか。
桐生の街では足利より前に絹織物が行われて活況を呈したが、あの街なども特異であろう。あの工業都市振りはどこから来ているのだろうか、私としては良く判らない。両毛線の走る桐生や足利、佐野といった土地は北関東ではなく南東北と呼ぶのが相応しかろうと思うのだ。
桐生では、絹織物の技術、それを支える緻密な紋紙(「紋切り」での巧みな技で裁いた織柄のデザイン原本)や染色や刺繍の技、その世界は伝統工芸と呼ばれつつも今も次代へ継承されている。
銘仙で有名な伊勢崎もその要素が強いのだが、足利と同様な職人気質を持っていて、この三市は良く似ている様に思われる。そして伊勢崎や桐生、足利に接したこの土地、尾島や世良田においても同じ気質が流れているように思われる。
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