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2013.10.18
旅にしあれば・・・、ふたたび (台湾 第4日目 午前; 台大醫院(医院)  「麗しの島」)

旅程;2013年10月15日より 3泊4日間


旅の第四日目;
  歩行数と距離; 7,485歩 4.8Km

滞在地;
  台大醫院站;ニニ八公園  ― 中山站;南京東路  − 桃園国際空港=>成田国際空港


カメラ;
 RICOH CAPLIO GX100  (画像添付時に約20%に圧縮)
 PENTAX K7

レンズ;
 PENTAX FA20−35mm F4.0 AL
 PENTAX DA50−200mm F4.0 ED
 PENTAX FA50mm F2.8 マクロ


 4日目は少し早起きが出来たので、昨日訪れた「ニニ八平和祈念公園」へともう一度出掛けてみた。

 公園へは市街を縦横に走る便利なMRTで向かうのだが、それはもうすっかりと馴染みになった路線による。台北市街を南北に結んで走る「淡水線」を使うというものだった。

 公園への最寄り駅は「台大醫院」站という地下駅になる。しかも地上への出口が公園入口の直ぐ横、という極めて恵まれたロケーションにある。私の泊まったホテルからは、MRT路線への最寄り駅になる「中山」」站(地下駅)まで、南京東路を歩いていってそこから乗ればよかった。そのまま南へと向かえば良いだけで、別路線への乗り継ぎなどは不要だ。だから乗換えの煩わしさがまるでなく、ごく手軽にアクセスできる場所だった。


 実のところ、再度、公園へと出掛けたのには少し訳があった。それは小雨模様の暗い夜となってしまった昨晩のことがあったからだ。

 昨夜の雨の状態は、丁度今が雨季の最中ともいえる台北にあっては、ごく弱い降り具合に過ぎなかった。それでも、煙るようにうっすらと降る雨だったので、水彩用紙が濡れないようにしなければいけなかった。だから私は、持っていた傘を差し、その下で慌しくスケッチをしたのだった。

 そうした状況もあってスケッチに長い時間は掛けられなかった。ライトアップされた「涼亭」だけを、雨に注意を払いながらやっと描いて帰って来たのだった。

総統府 市街中心にある
総統府

その東側に今回訪れた大きな公園があった。
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 それにもうひとつ.。

 広い園内なのにゆっくりと散策ができなかったからという事もあったし、さらに駅名の由来になっている大きな病院がそこにある、という事も改めて公園へと向かった理由のひとつだった。

 病院は歴史的な建造物を利用している施設で、アジアを代表する優秀な病院としても名高いのだが、その建物でも有名なものだった。

 その建築の事を考えていたら、もう居ても立ってもいられなくなってしまった。明治期から昭和初期に掛けての古い建造物が好きな私としては、何とも堪らない気分に陥ってしまったのだった。

 だから、どうしてもその由緒溢れる造りの様を、是が非でも観ておきたかった。そうした様々に重なる想いがあって、再訪しようと考えたのだった。色々な理由や目的が、そこには溢れていた。

「ニニ八和平公園」 ニニ八和平公園
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< ニニ八和平公園 への想い >

 この旅の一日目の宿泊先は「北投温泉」だった。部屋に設えられた温泉が出る広い湯船にゆったりと浸かってご機嫌に過ごした翌朝、街にある大きな公園へ散歩に行ったのだ。その散策中に出会ったのがスケッチをしていた同好の士。

 その人との会話が弾み、私達は随分と親しくなった。そうした中で、スケッチ道具のひとつである「平軸ペン」の利用技法(私は丸軸のペンを利用していた)に関して、イロハやあれこれの手ほどきをしてくれた人だった。

 そうやって指導を受けた私にとって、彼は師匠筋になった大切な人物であった。とはいえ私が勝手に思い込んでいるだけで、彼から弟子入りの許可を得たわけではないのだが・・・。


 短い時間に過ぎない彼との交わりだったが、その内容には深くて濃いものがあった。いわば私にとっての彼は、ルークにとってのオビワンやヨーダのような大切な存在とでも言ったら良かろうか。

 あるいは、思春期の少年が逞しく成長していく物語、主人公の取り組みに胸が熱くなった「ベスト・キッド」という古い映画の事を思い出だす。

 あの少年にとって「ミヤギ(宮城?)」は大きな存在だったに違いない。普段は人気の無い中古車ディーラーで、町によくいる典型的なタイプの人。普段の彼は、只の気難しい親父さんの一人に過ぎない人物だ。でも少年にとっての彼は、次第に技の世界だけの師匠ではなく「自分を生きる」という事での導師となっていく。

 彼のような存在はまさに導師と呼ぶに相応しく、武道における伝統的な師弟関係としての在り様に当てはまろう。同じ映画のリバイバル版もあって、こちらはもう少し東洋的な精神世界にまで物語が掘り下げられている様に思う。いい感じに歳を重ねたジャッキー・チェンさんが演じているのが目立たない人物で、彼の職業は寂れたアパートの管理人だ。異邦人として苛められ、意味も無く虐げられる少年とジャッキー演じる「ミスター・ハン」との出逢いもそうした一例だろう。

 力強い芯のある生き方をしている彼らは孤高の人で、持てる技を伝えるような道場や、先達として果たすべき義務でもある後輩指導のための教室などは開いていない。彼らの生活からは、むしろ外部との積極的な接触を絶っている節さえも感じられる。

 だから弟子となる少年との間にはすれ違いさえも起こらず、普段の生活の中で互いがめぐり逢う可能性は、限りなくゼロに等しい。けれど、ふとした切っ掛けで少年は彼らの持つ奥義に触れることになる。

 そして道を導く師匠とその背中を追い駆ける弟子という、修業上の基本となる契約をし、師弟関係を結んでいく。それだけに留まらずさらに深い人間関係を形成し、お互いの絆を固く結んでいくのだった。世代を超えた師弟関係は一見すると最早古めかしい人間関係に過ぎないもののようにも思えるのだが、映画を観ているこちらとしてはそこにむしろ、ある種の憧れを擁いてしまう。


 そんな私にとっての導師となる人物が、溶け込むような笑顔とともに語り、素晴らしい場所だと勧めてくれた公園が「二二八和平公園」だった。

「ニニ八和平公園」は、導師のお勧めの公園だ。

是非、行ってみなさい、と強く勧められた場所だった。


聴いた名前が良く判らなかったので
紙に公園の名前をメモしてもらった。


ニニ八和平公園のすすめ
ニニ八和平公園
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< ニニ八和平公園にある「国立博物館」のこと >

 そこは日本統治時代の台湾総督だった「明石二郎」の廟を示す鳥居が永く置かれていたことで有名な公園だった。

 さらにもうひとつ、公園を彩る有名な物件がそこにあった。園内北側には大きな施設が建っていて、それが台湾で最も歴史のある「国立台湾博物館」だった。

 博物館の建屋はルネサンス様式の落ち着いた建築物として有名なもので、台北を案内するすべてのガイド・ブック上に観光名所として掲載されていた。

 立派な構築物であり、その荘厳な建物は台湾の歴史を彩る代表的なものといえるだろう。

 博物館であるから、無論の前提として収納された物件そのものに大きな価値があり、そこに存在の意義がある。しかしこの博物館の特色はそれだけで終わるものではなかった。その周りを包む建物自体にも秘められた歴史の物語があり、大きな価値があるものだった。日本から見れば、その建物は台湾の文化的な成熟を促した証のひとつといえるものだろう。

 なぜなら、それが産業発展に寄与して今の台湾の基礎を築いた、統治時代に敷かれた「豊かな民生」の、歴史的な事実の査証となるものと思えるからだ。

 しかも古い建築物としての博物館について、その来歴を物語れば、ひとつの時代の流れを象徴する歴史の記念碑的な建造物である、という事が改めて明らかになるだろう。博物館は存在そのものに大いなる意義を持つ物だったのだ。それは日本という国が採った歴史上の実績を示すものに違いなかった。

 さらに博物館の価値は、遺産的な建造物であるという事だけに留まるものではなかった。日本統治時代を市民として過ごしたという歴史を、今もなお台湾の人々が大切にして暮らしているという事の、大きな表れでもあるからだ。

 台北各地に残る他の多くの建物と同じように、この建築物も補修されながら文化的な施設に転用されている。市民に広く公開されて、利用されているものだ。

 その建屋は現在外壁工事中で、壁面を取り囲む養生がされていた。だから公園からの眺めを楽しむことは出来なかった。残念なことだが、この日、本来は優美であろうその姿を目にする事は出来なかった。

 そこは「児玉総督後藤民政長官記念館」として建設された統治時代を代表する歴史的な建造物のひとつで、1915年(明治48年)に完成したものだった。公園の建設(公園の完成は1908年:明治41年)と同時に現在の総統府が建っているあたりに官庁街や日本人居留地を開発し、一帯の計画的な整備をすすめたのだという。

「ニニ八和平公園」

北側にある国立博物館のドーム屋根を望む。
ニニ八和平公園
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4日目;歩行距離 7,485歩  4.8Km


< 「早起き」の恩恵 (早起きは三文の徳) >

 この日の朝の「軽めのお出掛け」は、いわば朝飯前の一仕事というものだった。まずは早起きして、もう一度公園へ出かけてみよう、と考えたのだ。

 何故かと言えば、早起きした事が悪い方向に作用することはひとつも無い、という体験があったからだ。それは一昨日の出来事のお陰であり、圓山站の「大龍街」での経験から判ったことだ。その手垢のついた古い教訓が旅の中にあった私には新鮮なものになった。そのためか、すっかり身に沁みた姿勢になりつつあった。


 旅の中での出来事、古くからの諺の実体験によって得た教訓から、その公園に行けばきっと昨日と同様に「三文の徳」があるはずと思われた。そして、何かの出来事にうまい具合にめぐり逢えるかも知れない、との漠然とした想いもあった。

 早起きして出掛けた私としては、期待するところが大きかったのだ。思ってもみなかった幸運に恵まれることもあるだろう、と。

 淡水の老街にある「祐天宮」で巡りえた神様の使者との出会いの様な偶然の出来事、計らずも思い出し笑いが漏れてしまうような楽しい出逢いが、ここに待っているかも知れないではいか。あの時と同じような、旅の神様からもたらされる新たな使者との嬉しいめぐり逢いがあるかも知れない、と淡く考えたのだ。

 それに、明確な訳があっての事ではないのだが、「早起き」の見返りとして、何らかの「有難い恩恵」に預かれるに違いなかろうといったそこはかとない予感もしていた。

 しかもその日は、何時もよりも早い時刻から行動を起こしておかないといけない事情があった。なぜなら、もう数時間の後には「桃園空港」へ向けて移動を始める必要があったからだ。台北市街で過ごせる残りの時間といったら、もうほんの僅かなものにしか過ぎなかった。


 私はこの街で様々な出会いをし、色々な想いの切っ掛けとなった、いくつかの貴重な出来事を体験したのだった。そうした巡り逢いがもたらされる可能性を持った時間はごく僅かなものに違いない。改めて思えば、そうした余裕はもうあとほんの少ししか残されていなかった。

涼亭 公園の様子
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 さて、それではここで確認の意味を込めて、台北市を南北に縦貫する鉄道路の「淡水線」を中心に据えた、今回の旅の目的地をまとめておこう。

朝〜午前 正午〜午後 (〜15:00) 午後〜夕刻 (〜18:00) 夜 18:00〜
一日目 成田国際空港 桃園国際空港 淡水站;淡水老街 北投温泉
二日目 新北投站;北投公園 東門站;永康街、森林公園 中山站;南京東路 寧夏路夜市
三日目 圓山站;孔子廟 台北車站 - 士林站;士林官邸 台大醫院站;台大病院 遼寧街夜市
四日目 台大醫院站;ニニ八公園 中山站;南京東路 桃園国際空港 成田国際空港

 *このページでは、旅の四日目の午後からの様子をご紹介する。  歩行数と距離は 7,485歩 4.8Km


・台北の旅景色

 今回の旅行、1日目の様子は
  ・ のんびり 行こうよ: < 2013.10.15; 台湾の旅( 淡水 ;「嬉しい出会い」) >

 2日目の様子は
  ・ のんびり 行こうよ: < 2013.10.16; 台湾の旅(午前; 北投 「力強い心」) >
  ・ のんびり 行こうよ: < 2013.10.16; 台湾の旅(午後; 永康街 「優しさの中身」) >

 3日目の様子は
  ・ のんびり 行こうよ: < 2013.10.17; 台湾の旅(午前; 圓山 「敬虔な祈りの姿」) >
  ・ のんびり 行こうよ: < 2013.10.17; 台湾の旅(昼; 中山 「食を知れば・・・」) >
  ・ のんびり 行こうよ: < 2013.10.17; 台湾の旅(午後; 士林 「旨いもの、みつけた」) >

 台北でのスケッチ;
  ・ <旅行でのスケッチ;台湾旅行でのスケッチ その2>
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台大醫院

台大醫院

駅を挟んで、公園の反対側(東側)にある。
台大醫院

< 「台大醫院」站のあたり >

 MRT淡水線の「台大醫院」站のあたりは、実は商店街や繁華街といった雰囲気の場所ではない。

 行政府や立法院など、台北市街には様々な機関が分立しているが、この駅周辺の地区こそが台北における行政区の中心地であった。まさにこの辺りは首都機能の中枢といってもいいのかも知れない。

 病院や公園といった公共施設だけでなく、周辺には総統府などの行政・統治機構の中心となる諸施設が数多く配置されていた。

 台北の交通網の中心を司っているのが、中央駅にあたる「台北車站」なのだが、実はその駅までは極く近い位置にあった。だから、これらふたつの駅の周辺一帯こそが、市街の中心部なのだと言っても良い地区だった。

 あたりの道幅は広く確保されていて、まさしく中心地と呼ぶに相応しい様相を持っていた。そして一帯を碁盤の目状に区分けている縦横に走る街路は美しい並木を伴っていて、ゆったりとした気分で散策が出来た。そうした行き届いた整備のために、極めて落ち着いたシックな雰囲気を備え、訪れる人々のささくれた心を和ませている場所のように思えた。

 繁華街の喧騒とは違った、静かでゆったりとした都会の色彩がそこにはあった。そこには洗練された無駄の無さが溢れていて、都市としての「潤い」をも併せ持つ、豊かな雰囲気があった。「台大醫院」站を中心にした一帯では、そこに流れる空気感までが違うような気がしてしまった。

台大醫院 台大醫院

病院の歴史は1895年に始まる。

日本統治時代に創立された台湾大学医学部の教育研修病院が発祥だ。

各診療科があって、総病床数は2千。

そして内科医、外科医の数は千名を越えるという。

医師の大半は、台湾大学医学部の卒業生であるということだ。
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< ニニ八和平公園(アーアーバー・ハアピンゴンユェン) >

 そうした、都市の心臓部と言っても良いような地区にあるにも拘らず、多くの緑に溢れて清浄な佇まいを見せているのが「ニニ八和平(紀念)公園」なのだった。

 昨晩は入口あたりで暫く過ごして、しかもすぐに立ち去ってしまった。だから良く判らなかったが、改めて朝の時間帯に訪れて見ると、奥には広い芝生の広場や一際深い緑を見せる樹林帯などがあった。自然と調和した広い敷地の奥行きの深さを見れば、爽やかな空気が流れる味わいの深い公園だという事に気付かされるだろう。

 「ニニ八和平公園」についてを改めて調べてみた。すると、整備が始められたのは1895年の日本統治時代の事に遡る古い施設なのだ、という事が判った。

 公園の完成は1908年(明治41年)の事に遡り、竣工から完成までに13年の歳月を掛けて整備したものであった。なるほど、敷地が広大な訳は、そこが備えた古い来歴のためであった。

 だから公園は、今年でもう106年の歴史を持った古株の施設、という事になる。

 公園の総面積は、71520平方メートル。当時の統治主体である「台湾総督府(日本政府の統治機構)」によって整備計画が企画され、荒蕪地に建設されたものだった。

 少し北にある「圓山公園」に次いで建設されたもので、都市公園の「台北新公園」がその元になっていた。まさしく台湾に建設された最初のヨーロッパ風の近代的な都市公園だった。

補修工事中の鐘楼 涼亭

昨晩、スケッチをした公園内の「涼亭」
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 公園の北側に建っているのが、先に紹介した「台湾国立博物館」だった。

 我らが「与野公園( のんびり 行こうよ: 2006.05.14 「紅い薔薇咲く公園にて」 )」は1877年(明治10年)の創園だから、この公園に比べると少し長い歴史を持っている公共施設ということになる。また、都市公園として名高い「日比谷公園」を調べてみると、1903年(明治36年)の建設で、明治6年の太政官布告による公園整備計画の第1号目の公園として指定されたものだった。

 つまり、この台北を代表する美しい公園は、そうした大規模な老舗といえる都市公園と同じくらいの長い歴史を持っていて、都市公園として整備されて来たものだった。

 アジア(東アジアは元より、トルコまで含んだ広い意味でのアジア全域)にあっては、多分に草分け的な存在と呼べるもので、時代の先端をいった民生施設(公共の資産)であった。さらに、今も整備され利用されているという貴重さもあるし、歴史的な価値も併せ持っていると思うが、どうだろう。

補修中の鐘楼


補修中の鐘楼
モニュメント
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 公園を歩いてみて、「いいなあ、こういった雰囲気は」と思った。

 近くに皇居の緑があるからそれ程のものには感じていなくて、つい見落としがちなのだが、先に引き合いに出した「日比谷公園」も、有楽町や数寄屋橋という繁華街からも程近い群を抜いて良好なロケーションを持っている。皇居前の深い森や広い芝生の緑やゆったりと歩ける散歩道を持った、大規模な都市公園だ。

 両方の公園の雰囲気に似たものがあると感じられるのは、そこが繁華街や中心街という都会のエッセンスを近くにおいた「癒しの空間」だからだろうか。

 砂漠で出遭うオアシスのように、忽然と緑に満ちた潤い溢れる清涼を提供している、その立ち位置のせいだろうか。あるいは単に同時代の設計によるためか。

 いずれにしても、朝の光を湛えて光る、溢れる緑が眩しい、穏やかで美しい場所だった。昨晩はそれほどには感じられなかったが、朝の公園の様子を目にして、私はいよいよこの公園が気に入ってしまった。

松鼠 松鼠
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 例えば私は、古くから貿易で栄えた昔日の面影を残す河口の街の「淡水」を思い浮かべる。また、美しい図書館や煉瓦造りの博物館を備えた綺麗な公園を中心にすえた「北投」の街並み、あるいは都会然としていない穏やかな色彩を持つ「士林」など、の事を。

 昨日までに訪れた、そうした幾つかの街の景色を想い浮かべてみる。それらの街区に代表される「台北」という街は、実に多彩な表情を備え持っているといえよう。

 上に挙げた街や他の街でもそうなのだろうが、台北で誰もが味わえるものこそが、深い「癒し」に他ならないのではなかろうか。それは、都会での慌しい生活にあっては、多分かけがえの無い貴重なものに違いない。

 どの街にも豊かな自然が溢れ、古い歴史の香りが滲み出している。どの街路にも様々な特色があり、それぞれに味わいがあったと思うのだ。

 そしてこの公園もそれらの土地と同じく豊穣な色彩に溢れた場所だ。様々な特色を備えた台北で、訪れるておくべき場所のひとつといえるのではなかろうか。

松鼠


青剛欅というケヤキの木を登る台湾リス。

松鼠、という名前を曽家涼麺の女将さんから教えてもらった。

昨日の孔子廟で、始めてその愛らしい姿を見たのだった。
松鼠
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< 公園内に建つ [涼亭(りょうてい)」と「鐘楼(しょうろう)」 >

 公園へ入ったのは、昨晩と同じ場所からで、東側にある大きな門のところからだった。それは「台大醫院」站の地下駅から、地上に出た場所にあるものだ。

 歩いて「台北車站」からここまで来たとすると、入口になるのがこの門ではなく、西側のお宮からであったり北側の博物館側からであったりするだろうが、深い緑とこの寺院のような大きな門は、公園の場所を示す入り口としては格好の目印になるだろう。

 そこから入って園内で最初に目に着くのが、味わいのある「涼亭」の姿だろう。昨晩のこと、短い時間でスケッチしたのが特徴あるその佇まいだった。

 スケッチした涼亭の横にもふたつ建っているが、そのうちのひとつは緑の池に浮かんだ改修中の「鐘楼」であった。この鐘楼には何かの意味があるのだろうが、調べていなかったので由来については良く判らなかった。

 日本において、こうした「鐘楼」の存在についてを考えてみると、塔や鐘楼と言えば少なからず仏教的なものになるだろう。それらの多くは、少なからず宗教と結びついた施設といえよう。でも少なくともこの園内には、何らかの宗教色がある、とは感じられなかった。この園内に建っている鐘楼(塔)は宗教とは無縁のものと言えよう。

 「涼亭」の方は、ここに建っているものを含めて、まるで宗教色のない建造物といえよう。純粋に寛ぎのために利用するもので、直射日光を避け、風雨を防いで休息するための簡単な施設である。そしてもう一方のもの、宗教と離れた場合の「鐘楼」は、上に登って遠く広がる景色を眺めて楽しむためのものに違いない。

 つまり、これら涼亭や鐘楼といった園内に据えられた物件は、日本庭園で言えば東屋(あずまや)や茶亭などに相当する施設や建物といえるのではあるまいか。

涼亭

昨夜は小雨模様の生憎の天気。

煙るような雨の中で、ライトに照らされて浮かんだ涼亭を
スケッチした。
涼亭のスケッチ

 ライトアップされて小雨の中に浮かんでいた涼亭の近くまで行って、軒下の彫刻の様子を観察してみた。

 極彩色に彩られて、なにやら江戸時代初期、あるいは前時代の安土桃山風と言うべきだろうか。絢爛としていた織豊の文化にみるの建物のようなきらびやかな雰囲気がそこにはあった。

 その様子は仏教世界で言う華厳(けごん)を表したものといったらよかろうか。なんというか、陽明門を始めとした東照宮などと似た感じの彩色が施されている。透かし彫りの派手な彫刻があるし、或いは、天台宗の寺院内でみる須弥壇(しゅみだん)の柱や梁や天井などといった場所の仕上げ具合にも似ていて、そうしたものが思い浮かんでくる。

 そもそも、ああした極彩色の仕上げは仏教世界だけのものではなく、孔子廟でも見たように「その空間が生活の場とは違うのだ」という事を示すためのものと思われた。

 いうなればその手当ては、周りの人に「結界」の存在を指し示し、そこがハレの空間(生活の場とは異なる空間)である事を宣言するためのもの、に違いなかろう。

 つまりその領域では、職制による階位の違いや身分といった俗世を支配するものは意味を失い、結界の内側の空間に入った瞬間から一切の人が等しく平等になる、という暗黙の了解事が提示されているのだろう。そういった鮮やかな意味を込めているものなのかも知れない、と私は考えている。
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< 平和を祈る モニュメント 「二二八和平紀念碑」>

 この公園には子供用の遊具のエリアもあるし、奥まで行くと野外音楽堂も設えられてもいた。大きな敷地が幾つかの雰囲気の区画に分かれて点在しており、中央の辺りにひと際大きく聳えて目立っているモニュメントが置かれていた。

 公園を特徴付けているその巨大な構築は、1996年に建立された「二二八和平紀念碑」だった。

 昨晩もライトアップされていたのでその姿を写真に収めたのだが、今朝はその大いなるモニュメントをスケッチすることにした。

 キューブを組み合わせて土台とし、その頂点をフレームで結び、さらに頂点を上部へと延ばした不思議な形状を持っている。前衛的ともいえる構築のもので、創作者の内面での心の動きを抽象化して表現したものなのだろう。

 そのモニュメントは近代的な思想を具現したデザインであるが、なにやら古くから眼にしたもののようにも私には感じられた。モニュメントの先端の部分が、あたかも寺院の塔の突端に並ぶ「相輪」の構造にも思えてきてしまうのだ。

 創作者は、多分そうした深い構想を秘めて、この巨大な構築物に自らの想いのたけを表現しようと考えたのではあるまいか。


 改めてその存在を考えてみた。

 台湾人民の自主・独立のために蜂起し、大陸の政権の犠牲となった民衆運動家への鎮魂の意味を込めたものにまず違いはないだろう、と。次代への平和を希求した「祈念」のものであれば、仏教寺院の塔に見るような構成が施されていたとしても不都合な点は無いし、何の不思議も無かった。

モニュメント モニュメントに込められた深い想いと、その存在意義を改めて考えてみた。


それは、台湾人民の自主・独立のために蜂起し、大陸の政権の犠牲となった民衆運動家への鎮魂の意味を込めたものだった。

次代への平和を希求した「祈念」の塔であれば、仏教寺院の塔を模した構造がそこにあっても、何の不思議も無かった。


まさにそれは「鎮魂」の現れであり、独立のために流された「尊い命の犠牲を顕彰した記念物」であった。



私は最初に形状に惹かれてスケッチを始めたのだが、スケッチしている間にその構築の、形状の持つ意味を考え始めていた。

そして、いま書いたような厳かな気持ちがじわりと湧いてきた。

図らずもこのモニュメントの持つ意味や、製作者の意図といったものが少しだけ垣間見えてきて、なんだか塔がこの祈念公園に建てられた意義までもが判ったような気になったのだった。
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< 民族の独立運動 >

 実際の独立運動は熾烈な弾圧下にあったに違いない。

 いくら安保の年に生まれ、激動の世代の末端にいた身とはいえ、今の時世に浸かっている身の私などでは、とうてい理解できないような多くの苦しみに満ちていたに違いない。常に安全が保障された我が身に引き比べれてみれば、うまく想像する事すらできない程の、極めて過酷な状況だったに違いなかった。

 まず始めに運動を起したのは台湾の知識人の階層だった。その主役を担ったのは裁判官や医師や教師達だった。あるいは現地出身の役人といった行政の指導的な立場にある人々も参加したという事だが、そうした知識階層を成す人達の多くは投獄され、あるいは処刑され、弾圧の犠牲になったのだという。

 さらに学生を含む多くの「本省人(台湾の出身者;通常は大陸からの移住者と区別して用いる)」が殺害・処刑された。つまり、弾圧を受けたのは日本統治下にあって高等教育を受けた人達だった。台北という都会に住まう普通の人達で、大陸から移住して来た移民層とは違って自治意識が高い人達だった。彼らの市民感覚は新しい為政者のとった手法とは相容れないものがあり、公正意識の極めて高い市民ということが災いしたのだった。

 犠牲になったその人数はなんと28000人に及ぶという凄まじいものだった。

 そして事件の際に発せられた「戒厳令」は40年後まで維持され、1987年まで続く長きに渡る措置となる。台湾の民政上は勿論言うに及ばない事だが、それは民主主義の歴史においても大きな汚点のひとつであった。

福徳宮 福徳宮

公園の西側に鳥居があって、そのまま続いてお宮があった。

しかも、入り口の鳥居の脇には、
どうみても狛犬(こまいぬ)の姿の守り神が・・・。
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< 「李登輝(り とうき)」 元台湾総統のこと >

 それを体制の内側から打ち破った偉人が「李登輝(り とうき)」総統であった。

 彼が1992年に刑法を改正して民主化するまで、そうした本省人への弾圧という悲しい状況は継続したのだという。

 ところで台湾の民主化をリードした政治家である李登輝総統は、旧帝国大学時代の京都大学で農学を学んだ経歴を持つ人物でもあった。日本統治時代に台北及び内地で高等教育を受けた人物だ。だから贔屓して言う訳ではないが、台湾を代表する知識人の一人であるし、世界的に観ても優れて有能な政治家の一人だと私は思っている。

 運動の際には地下に潜伏しその後体制内に入ったという彼こそが、直接選挙を経て就任した初めての総統(1988年から2000年まで就任)であり、民主化を押し進めた偉人であった。

 彼はまた、大の親日家でもある。私が敬愛して止まない歴史小説家の司馬遼太郎さんとも交流のあった方で、エッセイの中でも登場し、その温厚で篤実な深みのある人柄を知る事ができる。

 例えば、李登輝氏が「三田祭」講演の招聘状を受けて即座に快諾し、訪日されて講演を行った際の原稿(2013年)がWeb上で公開されている。

 その講演の中で、日本精神として語るべき第一の点を「気高い形而上的価値観や道徳観だ」とし、「公に奉ずる精神こそが日本および日本人本来の精神的価値観である」と言っている。

 さらに重ねて「伝統と進歩」について進歩を支えるものが「大前提となる精神的な伝統や文化の重み」に他ならないし、それを言葉で表現すれば「公議(ソーシャル・ジャスティス)」というものになる。それは日本の統治者に受け継がれた「伝統的な価値観」であったという。公議の心は「永遠の真理であり、絶対的に消え去るようなことはないもの」で「日本精神という本質に、この公議があればこそ国民的支柱になれる」と続けている。

 忘れてはならないこととして「日本精神の良さは口先だけじゃなくて実際に行う、真心をもって行うというところにこそあるのだ」と続けて語られる言葉は、まさに私達が存在する意義の拠り処を物語っている様に思う。まさに「この国のかたち」としてあるべき大きな真理を突いていよう。


 震災の凄惨な状況に対面した台湾は、先発の救助隊を真っ先に日本へ向けて送る準備を進め、外務省や政府へ打診をするのだが大陸の勢力に遠慮する日本はその入国を拒む。遂には入国して現地入りが出来るのだが、政府間での折衝が難航したためにNPOを通じての非公式の来日となってしまったのだ。

 政府のあの震災に際して採った対応は、無能というしかない酷いものだった。国内での後手に回った数々の対応だけでなく、これ程に日本を深く想っている友人に対して取り返しのつかない大きな失策をしでかしてしまったといえよう。

 このため、台湾地震の際に世界に先駆けて送られた日本からの支援(救助隊の派遣や義捐金の送金)に応える事が、充分に出来なかった。作家の曽野綾子 ―作家の観察眼をもって行われる彼女のボランティア活動は素晴らしく、近年の活躍には本当に目覚しいものが多い― さんが理事を勤める日本財団からの3億円の義捐金寄付に際して自らが宣言した「日本に何かあった際は真っ先に助ける」という大切な約束を、とうとう彼は守れなかったのだ。

 「奥の細道」を辿る旅として2007年に東北を訪問してもいた大の親日家の彼にすれば、自らが備えた「日本精神」の義侠心の動きもあり、凄まじい程の無念の想いがこみ上げた事だろう。

 その後、彼は「震災特別寄稿」として東北へ向けたメッセージを発信する。


 その寄稿の中で李登輝氏は、「互いに助け合い、苦難を乗り越えようとする同胞愛」こそが「日本文化の持つ品格と価値」であると、私達へ向けた心からのエールともいえる語りかけをしてくれていた。

 罹災時にあるにも拘らず律せられた節度溢れる行動が広く示され、そうした日本人の品格は世界に向けて示された、と私達の在り方を彼は賞賛してくれたのだった。

 「自信と勇気を奮い起こし頑張ってください」というのが、友人でもある偉人からの励ましの言葉、結びの文章だった。

福徳宮への入り口(狛犬に違いない)

福徳宮への入り口(狛犬に違いない)
福徳宮
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 中央に建っていた巨大なモニュメントを見詰めて、あれこれと想いを巡らしつつ、芝生の縁に腰を降ろしてそれをスケッチした。

 どっしりと地面に腰を据えて、大地と繋がった部分がある。その壁面は何枚もの石板によって作られているのだが、その幾つかに分かれた基部は、中華民族の流れを表現しているのではあるまいか。

 想起されてきたのは秦朝から始まって、隋、唐、宗などの漢民族の大きな流れで、その中華の歴史を表したものではあるまいか、と。その基部から上部へと向かって伸びているフレームは、今の民族の在り方を表現したものなのだろう。

 大陸と島、そして海外の各地へ散った人々。その人々が奔流となってひとつの芯に繋がる。そしてさらに天空へ向かって、その流れが伸長して行く。

 成長や、発展を続けるという意志や、台湾の人達の力強く生きる姿、そうした綜合的な意識の流れやあり方を表現したものではなかろうか。スケッチを愉しみながらも、形状や構成を紙のうえに再現する歓びだけではなく、描き進めていくうちにいつしか秘められた意図までもが染み透って来たように思えたのだった。

モニュメント 独立運動の犠牲となった人々を顕彰して造られたモニュメント。
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< 早起きの効能 >

 モニュメントの形状をスケッチ・ブック上に再現する作業に没頭していた私の表情は、多分、モチーフに集中した難しい顔つきをしていたに違いなかった。そんな私の熱心な姿を見て、厚い本を手にした通りすがりのご婦人が声を掛けてきた。

 中国語で何か聞かれたのだが、いったい何を問われたのか、その内容などは当然ながらまるで判らなかった。私には「中国語は話せません」と英語で答えるしか手がなかった。すると彼女は笑顔を崩す事無く、言葉を英語に切替えてなおも話しかけてきたのだった。

 私は嬉しい出会いの予感がしはじめた。思わず笑みを浮かべたに違いない。それを受けて彼女も一層の笑顔に変わった。

 「Are You Painter?」と言われ、私は「いいえ。趣味で描いているだけなんですよ」と答えた。多分、彼女は”Painer”では無く”Drawer” と訊きたかったのだろう。

 この程度の腕前で絵を描くことを生業にしているとしたらおこがましいにも程がある。とてもではないが、画業として商売に出来るわけが無かったし、素人芸としてでも世間に通用するはずが無かった。しかし、掛けられたその言葉は、まさに褒め言葉といっても良い高い評価の表れであった。聞かされた私としては随分気持ちが良いもので、何となく嬉しくなってしまった。

 気さくで物怖じしない性格の人のようだった。彼女は「しばらく、観ていてもいいかしら?」と断わって、私の横に腰を降ろしてきたのだった。

 早速、早起きの効能が現れはじめた。ここでも旅の神様のもたらして下さる有難い恩恵に、どうやら恵まれつつあるようだった。

 どうも隣に座っているのが神様からの使者なのだと思うと、にわかに緊張して来てしまう。決して、淡水の「祐天宮」で仕出かしてしまった時と同じ素っ気無い扱いはなるまいし、ここでまた疎かな対応を繰り返してはいけないと思われた。

モニュメントをスケッチする スケッチブックを縦に使っても、長く伸びた塔の先端が入らない。

未来へと伸び行く、民族の力を結集を、私は遂に描くことが出来ないようだった。
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< エピソード14; 嬉しい語らい >

 「あなたは、画家なの?」から始まった彼女との語らいは、実に楽しいものだった。

 「どこへいったの」と「いつまでいられるの」といったいつもの旅の確認の会話が続いた後で、デッサンが終わった。ひとつの区切りと見たのだろう、「貴方の描く絵を見せてもらってもいいかしら」という事で、それまでに描いてきたスケッチを見せながら、その場所での感想や、エピソードなどを紹介し、楽しい会話が続いた。

 「あなたの描く絵は素敵だわ。私のお勧めの場所があるから、是非その場所へ行って。そこの風景を描いてみて。きっといい絵になると思うから」と真顔になって説明を始めた。

 「台北も淡水も、貴方が好きだと言う北投も、勿論良い場所だけれど、もっといい処があるの」と。そしてさらに「それ程遠くは無いけれど、行くならゆっくりがいい。出来れば1日かけて。もし、それが無理なら半日でもいい」と言いながら、その場所の説明を始めてくれた。それは「花蓮(ふぁいりぇん)」と「宜蘭(いーらん)」という街のことだった。

 「是非、東海岸側(East Side)へ行ってみて、そこには素晴らしい景色が広がっているから」と輝く笑顔で説明し、アクセスの方法なども説明してくれた。忘れないようにするために、私はスケッチ・ブックにそれらの都市の名前を書いてくれる様にお願いしたのだった。

 台北の3日間で出会った人達の素晴らしさや、そこでの語らいで感じた想いや、素直な優しさの事について、彼女に話してみた。

 そして私の台湾への気持ちも伝えることが出来た。「こうして、台北の人と話をしたくて、私は旅に出たんです」と話すと、彼女は大きく頷いて「私達も同様だ」としみじみとした、染透るようなやさしい笑顔で言葉を返してくれた。

楽しい語らいになった人


心の中に染透るような温かな笑顔が、そこに溢れていた。

話の様子から、彼女の高い教養が伝わってきた。

手にした厚い書物から推し量れば、病院に勤務する医師か、あるいは婦長さんなのではなかろうか。




楽しい語らいの後で、立ち去るご婦人を呼び止めた。


「Mam !」私は歩き去ろうとする彼女の背中に大きく声を掛けた。

折角の出逢いなのに、彼女の写真を撮っていなかったことに気が付いたからだった。

「 Mey I take your picture? Please!」とまた大きな声を出してお願いした。

彼女は私の呼びかけに気が付いて、離れ去る歩みを止めて振り返ってくれたのだった。

彼女が見せてくれたのは、梅雨空の下、木陰の中で咲く可憐な紫陽花のような、そんな清楚な様子を想わせる華やいだ笑顔だった。
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ベンチの下で読書するご婦人の姿があった。 公園を一巡りして、
そろそろ戻る事にした。

いくつかの広場を繋ぐ
通路の中央に大きな樹が茂っていた。

この大樹は、
この公園を代表する
樹木に違いない。

いやこの辺りの木々を統べるマザー・ツリーなのだろう。

 「何故なら、アジアで一番好きな、特別な人達だから」と彼女は言った。

 私はこうした多くの優しさに台北で包まれた。この想いを何と表現して良いのだろうか・・・。

 特別な気持ち。お互いを尊重し、大切にする心。

 凛とした逞しい自分の精神や、生活に根ざした立ち位置があるからからこそ、届けられる本当の優しさがある、と思う。そうした深い想いを、幾つかの出逢いで味わう事ができた。

 そうした人との繋がりや心の交わりがあったからこそ、今回の旅は本当に素晴らしい物になったのだ。何故なら私は、多くのいつまでも心に残る宝物を得たのだから。

別れた後の、公園からの帰り際。


ふと気が付くと遠くの芝生の広場に、
ベンチの下で読書するご婦人の姿があった。


彼女のように歳を重ねたいな、と思った。


嫌味なところがまるでなく、でも知的さが香るような人はごく稀だ。

稀有な存在で滅多に出会うことが無いのだけれど、でもそうした素敵な人は確かにいるようだ。
異国の地にある彼女の実在が明かしてくれたように・・・。

彼女の備えているものが本物だったからなのだろうな、と思った。

ほんとうに素敵な人との出逢いだった。
美しい花のような人
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松鼠 松鼠

 「私達は日本人を愛している。今の台湾は日本人が創った、と私は思っている」と彼女は語り、そして言葉を続けた。

 「だから私達はあなた達の苦しむ姿を見ていられない」と。

 そして彼女は真剣な表情になって 「震災が起きたとき、皆が心配し、誰もが隣人を救おう、と決めた」と話してくれた。「どんな気持ちで、あの時に私達に手を差し伸べてくれたのですか?」とあらためて聴いたときの、彼女からの答えの言葉だった。


 「あなたが台湾を、私達をそんな風に思ってくれて、私は嬉しくおもう」と彼女は、冬の縁側で味わう日向のように温かい笑みを浮かべながら言葉を重ねた。

 「今日が滞在の最後の日なのは残念だけど、残りの数時間を楽しんで」と旅を労う有難い言葉をくれた。そして続けて「きっと、またここに、必ず戻って来てね」と、さらに別れ際の、嬉しい言葉をかけてくれたのだった。

 瞬くように過ぎ去った、僅か40分程の出逢い。しかし、しっかりと互いの心が通った、嬉しい語らいであった。私の中には、彼女の優しい表情や会話の中身が、大きな重さで心の底に残った。

総統府 総統府
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総統府 総統府

台北の中心となる政庁

< 中山站へもどる >

 スケッチを終えて一息ついて、宿泊していたホテルのある中山地区へと戻る事にした。この気持ちを早くホテルへ持ち帰って、彼女との語らいの内容が薄れないようにメモに残さなければいけなかった。

 でもその前に折角なので、公園を出た先にある「総統府」を写真に撮っておく事にした。この建物は、以前の旅行の際にはスケッチをして残したものだった。その際は、この公園の存在を知らず、総統府だけを目当てにし訪れたのだったが。

 バロック調とでも言ったらよかろうか。特徴ある外観を持った流麗な建築で、絵心くすぐる様子に溢れている。写真だけでなく、スケッチしたくなって来る。まあ、あと数枚、写真に撮ることで誘惑を断ち切って、絵心という欲求を我慢してホテルへ戻ることにしよう。

総統府 裁判所
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中山地区の様子 中山地区の様子

 ホテルへと戻って、気持ちや荷物の整理を終えたが、時刻はまだ10時台。まだ午前中での余裕があった。あとひとつくらいの軽めのイベントなら、優にこなせる状況だ、と思われた。

 友人その他へのお土産物はすでに獲得済みだったので良かったが、自分用のものを買い求めたいと思った。最近話題の商品で、携帯用として便利な烏龍茶用のペット・ボトルというのがあった。この製品は「エコ・ボトル」と呼ばれるもの。少し前からお茶好きの間では人気の品物だから、私はそれを買いたいと願っていた。

 それに、もうひとつ別のものも目当てにしていた。台湾の茶器(陶器?)メーカーの「三希」が作っている外出時の茶器セット、「携帯用茶杯」も手に入れたいと思っていた。

 南京東路を中心として広がる中山地区は商業地区であり、台北を代表する繁華街といっても良い賑やかなエリアだ。そのためか、ホテルの近くにも何軒かのお茶屋さんが建っていた。老舗店舗やチェーン店、それにガイド・ブックに記載されて紹介されている日本語が堪能な店舗など。

 ホテルの近くにある3軒ほどのお茶屋さんに立ち寄って、物色してみようと思う。

携帯用の茶器 エコ・ボトル 携帯用の茶器 エコ・ボトル
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携帯用の茶器 エコ・ボトル

これは、エコ・ペットボトル

レキサンを素材で使ったフラスコは異臭がまったくしないので、山での定番用品だ。

これは 台湾の茶器メーカーが造った優れもの。
丈夫な厚手の素材で作られている。

底部の蓋にはパッキンが着いているので、漏れる心配はない。
携帯用の茶器 エコ・ボトル

冷たいお茶は余り飲まないが、
これだと安心して美味しいお茶が淹れられる。

< 茶器を買う >

 大通りの横の通りの「森林公園路」にあったお茶屋さんで、茶杯を買った。

 同じ店に置いてあった携帯用の茶器セットが目に留まって、暫く悩んで、結局それを買うことにした。台北で私が馴染んだ価格帯では少し高めの760NT(約2000円)の商品だ。でも同じものが、日本国内のWebショップでは、4500円ほどの設定なので、充分に安価で入手が出来た。

 これはかなり便利な物件で、茶杯が5脚、それに蓋碗と、スタックできる茶海がセットになっている。旅行や外出時にもコンパクトにまとまった専用の保護ケースに収納されるので携帯性が良くて、安心のものだ。本格的に台湾の烏龍茶を愉しむ際の最小構成の茶器が揃っている。

 専用の、90mlや120ml程度の小さな急須である「茶壺」で淹れるお茶がやはりどんな場合でも美味しいのだが、その器具を携帯するのは難しい。持ち手も細いし、注ぎ口も鋭く細目なので、破損の危惧は拭えないからだ。しかし、蓋碗であれば、まずそうした心配は不要のものになる。

茶器(茶壺) 左の茶壺は、 興華名茶で購入した茶器。

「紫砂(しさ)」は、朱泥(しゅでい)と並んで、
茶器の素材としてはポピュラーなもの。

水平壺と違って、形状が可愛らしい。
少し、大振りの壺で、160CC位が入る。
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< 曽家涼麺への感謝 >

 今回の旅が潤いのあるものになったのは、この店を知ったからで、旦那さんや女将さんの優しいく温かい人柄に触れる事が出来、気の置けない知り合いになったからだ。

 だから、旅の最終日の今日、この店を外すわけには行かなかった。お礼を言わねばならないし、別れも告げるべきであろう。それに、何より、もう一度会いたい気持ちが高かった。

曽家涼麺 曽家涼麺
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< エピソード15;  女将さんの配慮 >

 曽家の人達との出逢いが無かったとしたら、この旅はどれほどつまらない物になってしまっていたことだろう。

 台北に移動してきた2日目からの3日間、私は結局一日1食はここで食事をしていた。この日も女将さんは深い配慮をしてくれたのだった。ホテルでの整理を終えて、お茶屋さんを物色してから店に行ったので、11時少し前の時刻だったろうか。昼には早い時間なので、店にはお客さんの姿が無く、女将さんはこの日の仕込みに忙しく働いていた。そんな様子を写してもよいか断わって、この一連の写真を撮ったのだった。

 注文した品物を作る際に、「これは貴方の朝ご飯?」と聴いて来たので、「ええ、公園へ早起きして出掛けたけれど、まだ何も食べていないんですよ」と答えたのだった。出された麺は、昨日までのものより少し柔らかく仕上げられていた。どうやら「朝飯か」という事を聞いたわけは、麺のゆで加減や仕上げを調整するためだったようだ。

 そんな配慮をしてもらった事は無く、私はその気遣いの細やかさに驚きもし、女将さんの人柄にあらたな敬意を払う気持ちになった。そうした何気ない心の在り方からは、何ともいえない「おもてなしの心」が滲んでいた。

曽家涼麺 曽家涼麺
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 この日は最後の台北で、これが曽家涼麺の店で食べる温麺の仕上げとなるオーダーだった。私はメニューの3番目に書かれていたものを注文した。それは初日の「麻醤温麺(メニューの1番目)」、二日目の「炸醤温麺(メニューの2番目)」の両方を合わせた内容なのだという。

 「雙(双)醤温麺」という、ちょっとリッチな仕上げのものだった。それに昨日は飲めなかった味噌湯。「玉子はいれるわね?」と女将さん。こうした遣り取りが交わされて、すっかり馴染み客の一人に昇格できた気分になった。

 女将さんはまた、旦那さんを携帯電話で呼んでくれた。食べ終わって、話をしている頃に明るくて健康的な笑顔で顔をいっぱいにした旦那さんが店に入ってきて、直ぐに私の側へやって来た。「帰るまでに間に合ってよかった」と言いながら、また絵がをでいっぱいになった。

曽家涼麺 曽家涼麺
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涼麺 曽家涼麺の「温麺」

「雙(双)醤温麺」は
麻醤+炸醤の状態

ミックスではなく、
左右で分かれている。

お好みに応じて混ぜてもよいし、片側づつでも食べられる。


これは、また美味!

 「搭乗時刻は何時なのか」といった質問や、「この次は何時になる?」といった会話でひとしきり盛り上がった。そうした遣り取りのひとつひとつを心に留めながら、私は温かく楽しい気持ちになってきて、旦那さんに負けない程の笑顔になってきたようだった。

 こうして過ごす時間に限って、随分と時間が経つのが早かった。気が付くと、旦那さんが戻ってきてから、もう20分位が過ぎていた。そろそろお礼の言葉を述べて、友人となった二人にお別れをしなければいけなかった。

 「撮らせてもらった写真は、少し時間が掛かるけれど日本から送りますよ」といいながら、住所を書いてくれるようにお願いした。昨日、それが台湾リスだと正体が判った小動物の名前の「松鼠」のメモの下に、郵送先の住所を書いてもらったのだった。
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味噌汁 味噌湯

中に入っている豆腐は、絹漉しの柔らかなもの。

夜市で有名な「臭豆腐」とはまるで違って、日本の豆腐と同じ淡白な仕上げの物件。


使われている味噌の味は白味噌であった。

 「信じてもらっていい。僕達は台湾人だ。何時だって日本の友人と思っている。だから君達に何かあったら必ず助ける」と旦那さんは力を込めた。

 「また逢おう、どのくらい後になる?」と聞かれたので「多分、次に台北へ来られるのは2年くらいあとだろう」と私は答えた。

 すると「2年? とにかく君を待っているよ」といった。そして「美味しい麺をまた作ってやる。必ずまた店に来てくれ」と言いながら、大きな手を差し伸べてきた。約束として交わした証の、力のこもった硬い握手だった。

 江戸時代で言えば、刀の柄の部分に差し入れてある小柄(こづか;小刀)を引き抜いて、鍔元で軽く打ち鳴らす儀式の「金打(きんちょう)」と同じもの。違えぬ大切な約束を交わした、という緊張感があった。


 「私は貴方が美味しそうに食べてくれた時から、貴方の事を気に入っていたのよ」と、今度は女将さんが話し始めた。

 「貴方の事を大切に思っている。また、いらっしゃい。必ずよ」と優しくしなやかな手を差し出し、やはり握手をしてくれたのだった。
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台大醫院 病院の荘厳な建物。

最早、歴史遺産と言ってもよいものだろう。

でも、未だこうして大切に利用されている。

 空港へ向かって台北市街を離れるのだが、16時35分の出発便なので搭乗時間(刻限)は15時55分。それまでにさらに出国手続の所要の余裕を見ておく必要があるが、13時台後半出発の高速バスに乗れれば、充分に間に合う状態だと思われた。

 その余裕があったので台北車站から出る高速バスに乗るためのターミナルへ行く前に、もう一度、病院へと向かう事にした。建物をスケッチしておきたい、と考えたからだった。

 丁度、昼時でもあり、病院の入り口は酷く混雑していたが、道路を挟んだ歩道に場所をとって、暫くの間、私は建物に向かい合ってスケッチを愉しんだ。

 こうした建屋を何故今も利用しているのか、と考えてみれば、それは台北の人たちが自らの歴史を大切にしているからに他ならない。東京は江戸の文化を色濃く残しているので、やはり真新しい新規のものに大きく価値が置かれる。
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台大醫院 台大醫院

 寺院であれは由緒溢れる古さが貴重とされるのだが、たとえば神社の社殿などは、逆に新しさが尊ばれる。

 氷川や日枝、浅間や諏訪、赤城や羽黒などをはじめとする山岳神の古社であれば話は別だが、天照大神を祀った神社は特にそうした傾向が強いようだ。天照(アマテラス)は天祖であるので、この神を祀った神社は天皇の系統を尊んでいる流れといえる。伊勢神宮の20年に一度の式年遷宮なども同じ発想だろう。古くても良いではないか、と思うが、競って新しくしているのはそうした宗教観の所以だ。

 数十年おきに大火に見舞われ、全焼して毎回再建を繰り返していた江戸の街で暮らす借家人の生活の在り様が、母体となって東京市民の感覚を作り上げたと思っている。そうした東京のような新興の街では、やはり神社のように新しいものが喜ばれるのではなかろうか。

 英国大使館に近い江戸城堀横に建つ「旧近衛師団本部」のレンガ造りの建物と同じような重厚さがここにはある。病院は、古さも含めて、大いに気に入った建築物だった。
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帰路につく 機内から夕陽を見る

 台北の「松山空港」は、市街地の北側にあって、そこを利用できれば、実に快適な状況になる。高速道路を1時間掛けて空港に向かう必要が無く、市街での滞在時間に大きな余裕が持てるからだ。

 淡水川に沿って台北市街を北に向かい、そのあと国道1号線を使って西へ向かう。そうやって一時間掛けて、高速バスは「桃園国際空港」に到着する。成田へ向かうリムジン・バスとは違って、空港へ着くまでの間の景色が素晴らしいので、そうした移動であっても充分に楽しめる。市街を外れると次第に山稜に分け入っていくのだが、辺りは随分と山坂の様子になってくるのだった。

 不意に広い土地に出ると、今度は工業地帯が果ても無く広がって、やがて国際空港のエリアへと入っていく。前回台湾へ来たときよりも、周辺の開発が随分と進んでいた。「これから、もっと発展していくよ」と語っていた曽家涼麺の旦那さんが語った言葉が浮かんでくる。
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台北の上空 上昇しつつ、台湾の海岸線を見下ろす。

 空港の第一ターミナルでバスは一旦立ち寄って、そのあとまた私が手続する第二ターミナルに向かって進んでいく。

 大陸へと向かう乗客の大半が利用する第一ターミナルで停まったときに、不意に、まるで夏休みが終わってしまった時に感じたような寂しさが浮かんできた。折角、外で楽しく遊んできたのに、夕暮れを過ぎて遅くなって、母親に叱られた時のような、しょんぼりとした気分にもなった。

 子供の頃に経験した旅行の後の帰り道や休日の終わりの夕暮れ時の気持ち。折角楽しかった一日だったのに、続かずにもう終わっちゃっうんだな、という、あの何ともいえない感じのものだ。

 もう随分のあいだ、こんな気持ちになっていなかったな、と思った。バスがターミナルに到着するまでの暫くの間、甘く切ない、でもどこか懐かしい気分のなかに私は浸っていた。
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台湾海峡の空 機内食を楽しむ

 航空機の旅券を採って、直ぐにしたのはネット上からの座席確保だった。

 翼の前方の席はすでにその時には一杯になっていたので、せめて翼の後ろの窓際、日本への帰路で左手側の列になる、窓際の席を確保したのだった。

 西の空を染める夕焼けが観たかったし、列島の海岸線に広がる美しい夜景も眺めたかったからだ。


 飛び立って暫くは、台湾へ舞い戻りたい気持ちでいっぱいだったが、安定飛行に入る手前辺りから、つまり離陸後の30分程の間で気持ちが少し変わって来た。まるで自分の家に戻ったような安堵感のようなものが浮かんできたのだった。外出から帰ってお茶を淹れた時のような、ゆったりとした寛いだ気分が、次第に心に広がってきた。

 台湾海峡をあっという間に飛び過ぎて、日本の空(沖縄の上空域)に入ったからだろう。

台湾海峡の夕陽 夕暮れに染まる地平線。

上空の空の蒼い色が、信じられない色濃さで広がっていく。
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 まったくの日本食的な中華料理が、チャイナ・エアラインの機内食で出た。

 流石に台湾の航空会社であって、フルーツは新鮮なものだし、添えられた小鉢の海老も美味しい。

 確かにこれは「本日の旨いもの」には違いないのだが、すでに夜市の料理や曽家の温麺の醤の味や麻の辛味が懐かしく思えてきた。美味しかった包子や魚丸湯などの地場に馴染んだ味も、蘇ってくる。

 今、飛び立って沖縄の上空を飛んでいるところで、一路、日本の空を目指しているのに、早くも次ぎに台湾を旅する機会はいったい何時の話になろうかと考えていた。

 楽しかった旅の中で出逢った幾人かの忘れえぬ人達の笑顔が、夕焼けを色濃くしていく蒼い空に浮かんできた。

機内食 機内食
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