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2013.10.15
旅にしあれば・・・、ふたたび (台湾 第一日目 ;淡水)  「嬉しい出会い」

旅程;2013年10月15日より 3泊4日間

  往路;10/15 中華航空  CI 0107 東京(成田国際空港)発 9:40 台北(桃園国際空港)着12:10(時差−1H)
  復路;10/18 中華航空  CI 0106 台北(桃園国際空港)発16:35 東京(成田国際空港)着18:55(時差+1H)
    中華航空 ;China Airline(チャイナ・エアライン)は大陸では無く台湾の航空会社


旅の第一日目 (2013年10月15日);
  歩行数と距離;18,384歩 11.9Km

滞在地;
  圓山站(円山) ― 淡水站  淡水老街、金色水岸  ― 新北投站  宿泊:北投温泉(山水楽会館ホテル)


カメラ;
 RICOH CAPLIO GX100  (画像添付時に約20%に圧縮)


 私が始めて台湾へ行ったのは2006年の晩秋のことで、それは5年ごとに行われる周年行事の社員旅行としてだった。

 3泊4日の行程で行われた行事で、僅か半日だけが記念行事のための拘束日となるが、残りの日程は「すべて自由な行動が可能」という嬉しい内容のものだった。

 それについては以下のページで書いているので、ご覧いただきたい。
 ・ 台北の旅景色  ; のんびり 行こうよ: <20061123;旅にしあれば・・(台湾)>
 ・ 台北でのスケッチ; のんびり 行こうよ: <旅行でのスケッチ;台湾旅行でのスケッチ>

 それではここで改めて、少しの間、前回の旅を振り返ってみよう。

 幸いな事に、日程には充分な余裕があったので、私は豊富に確保できた自由時間をフルに生かすことにした。その旅行を思い通りの内容に仕立て上げたという訳だ。折角の機会なのでと思い立ち、市街地のあちこちの街角を巡り歩いたのだった。

スクーターの波

(2006.11 撮影)
それはもう7年も前の事になる。

到着の夜、ホテル周辺の市街を散策した。

街角には驚くべき数のスクーターが溢れ、
しかし暴走している訳ではなく、誰もが皆、
右端の車線をきっちり守って走ってた。

その様子は早いスピードで走り去る多くの車の流れに見事に乗っていた。

スクーターの車列はまるで、
水の流れに逆らって渓流を勢いよく遡上する鮎の群れのようだった。

そうやって、まずもって最初の一撃をガツンと一発。

・・・躍動感溢れる「台北市の熱い洗礼」を受けたのだった。
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< 旅のおさらい  前回の旅(2006年11月) >

 ともかく台北(タイペイ)の街を歩き倒そうと、がむしゃらに、飽く事無く毎日よく動き回った。一日で30キロの距離を踏破して14日間で東海道(494Km、江戸日本橋から京都三条大橋間)を、15日間で中仙道を旅した江戸期の人々には遠く及ばないが、丁度彼ら江戸期の旅人の半分にあたる、平均すれば日に15キロ程の距離を歩いていた。

 そして連日、あちこちで展開される「夜市」を散策して「旨いもの」を探した。B級グルメとして名物になっている屋台料理は勿論、さらに小吃や小菜(小皿料理)も随分楽しんだのだった。

 さらにかねてからの念願でもあった「故宮博物館」を訪ねて、中華の秘宝 ―気の遠くなるような太古から続く芸術の品々― に親しむことが出来た。

 つまり、はじめての台湾の旅は私にとって身体共に充足したものになった訳だ。いつも胃袋はご機嫌だったし財布(金袋)も終始、ご機嫌が宜しい様だった。そして脳(好奇心)も心(感動)も、充分に満ち足りていたのだった。

総統府 信義路から入った路地で見つけた印鑑店

信義路から入った路地で見つけた印鑑店。(信義路を挟んで永康街の向かい側)   店先に立つ淡い赤シャツの男性が、この店のご主人。

(2006.11 撮影)
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< 旅のおさらい  二箇条の掟 >

 旅の目的はあくまでも5年ごとに執り行われる会社設立を祝うための記念行事だった訳だが、随分と自分流にアレンジすることが出来た。そのお陰で存分に楽しめた旅になった様に思う。つまり私はその旅で、思うままに台北の街を味わったのだった。

 実は旅に際して大仰に構えて、事前に大切にすべき「二つの掟」を定めていた。

 私は、想いは人に必ず通じるものだ、と予ねてから思っている。だからだろう・・・。定めに倣った心構えで旅の日々に臨んだ事がだいぶ功を奏したようだった。

 そうした体験を教訓として掴んだので、今回の旅でも同じ姿勢を貫くことにした。そして徹底してその「掟」を守る事にしたのだった。だから今度の旅でも実に多くの場所を心から楽しめたし、何よりも嬉しかったのは以前にも増して人の真心と触れ合う事が出来たことだった。

 小さな喜びや、多くの感動があり、そこで得たものは決して少ないものではなかった。今度の旅の中では、実に多くの「大切な出会い」を経験する事ができたのだ。


 それではここでもう一度、「掟」の条々を書いておこう。くどくなって恐縮ではあるが・・・。

 ・ 日本食を食べてはいけない
     ⇒ なるべく現地の料理、しかも高級料理ではなく普通のものを地元流に楽しむこと。

 ・ スケッチを愉しむ (いつもの小さな水彩セットを持参)
     ⇒ そうすればきっと、地元の人と触れ合うチャンスが沢山生まれるはず・・・。

銀河観光夜市

まさに怒涛の勢い。
肉の嵐!
銀河観光夜市

銀河観光夜市での屋台の様子。

名物の胡椒餅。
肉をパン生地で包み、それを高温のかまどの壁に貼り付けて焼き上げたもの インドの「ナン」の焼き方と同じで火加減が重要だという。

(写真は共に 2006.11 撮影)
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< 旅のおさらい  台北への想い >

 ところで、電子機器や自転車などの輸出例を見るまでも無く、台湾は立派な工業立国だ。そのことは誰もが異論の無い処だろう。

 電脳立国とも呼ばれ、マザー・ボードの製作や磁気ディスクなどのメディア製造が盛んだし、私の好きな自転車の分野では「台湾製」は性能と品質の証でもある。その評価のためか、フレームや部品での供給は勿論、完成車においても世界一の生産量と高い品質を誇っている。

 しかしその超近代化の一方で、台湾の人達は「自らの伝統」を守る努力も怠って居ないように思われる。彼らは成熟した大人だから、声高に「中華の正統としての文化」を担っている自負を、大陸の人々の様に一際大きく掲げた主張として改まって表明する事はしない。それに半島の人々の様に、何もかもが自分たちを源として発生したもので、自分達だけが常に正しいのだし、世界全体が帝国主義の時世にあった特殊な歴史背景も鑑みずに侵略の被害者なのだとも主張しない。でも、台湾の人々の立ち居振る舞いはキリッと引き締まった誇り高い姿勢が見えるし、台湾ならではの強い想いが感じられる。

 人々は今もって伝統的な手工業も見捨てる事無く大切にしており、この機械化、自動化された世界、つまりマス・プロダクト主流のご時勢にあってなお、美術や一品モノの工芸(品)の制作がきわめて巧みであり、しかも盛んな国でもあったのだ。観光品は勿論のこと、普段の生活の中にもそれが違和感無く見事に溶け込んでいる。

 そこで私はふと思い立って、そうした伝統の技を手に入れたいと現地にある普通の店を探して印鑑を注文してみたのだった。流石に筆や書画や篆刻などの手わざが盛んな土地柄だけあって、注文した翌日の午後には手彫りの印鑑が出来上がるという迅速さだった。短い旅行日程だったので大いに助かった。


 そうした楽しさ溢れる旅の日から、早くも7年の歳月が過ぎていた。馬上少年老い易く・・・。

 まさに、光陰矢の如し。かくも長き不在をしてしまった懐かしい台湾が、そして温かい心根を持った人々が暮らす台北の街が、やさしい声を挙げて私を呼んでいた。

簡易店舗での料理

(2006.11 撮影)

夜の9時過ぎ。
ホテルからも程近い「遼寧街夜市」への入り口になる街角にて。

大通りに面した歩道に調理場を出していた店で海鮮鍋をお願いした。

何軒かこうした店に親しんだが、どんな質素な店の構えでも、日本のちょっとした中華料理店で出される品物よりずっと美味しいのは一体どうした訳だろう。

しかもどこの店の値段も随分と安かった。実に嬉しいことだった。
奥にはテーブルと丸椅子があり、多くの地元の人が食事をしていた。

その店はテイクアウトも出来るようだったので、「持ち帰り」をお願いした。

寄り道せずにホテルに帰って、温かいうちにそれを食べた。

通りに面した歩道上に調理場を出して料理する様を見せるような店の造り、そうした食の店を市街では多く見かけた。

言わば屋台店の発展形といえようか。


台北の路上にある屋台店やこうした簡易的な姿の店を、日本の祭りの模擬店や海の家などと同じに考えたら大きく間違える。


地元の人で行列が出来ている屋台へ行けば、どの店の味も一級品である事が保障される。

何故なら普段の食事も外食が多い地元の人達の味覚や価格感覚には、まず間違いが無いからだ。
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< 台北に惹かれて >

 その旅での私は、まるで熱病に冒された病人でもあるかのような、ある種のトランス状態に陥ってしまっていたようだった。市街の方々を、どこまでも一人で歩き巡った。

 そして今回も、市街地を縦横に走る川のように大きな街路は勿論、時に名前も判らない路地裏までをも、昼夜を問わず歩いてみた。表の街も裏の路地も含めた彷徨を経てみると、やがて台北市街での人々の生活の様子も判って来た。

 前回も思いのほか自由な旅になったが、今回は特に単なるパック・ツアーとは一味違ったものになった様に思う。航空便も宿泊先もすべて自分で決めて予約をとり手配をしたものなので、思うがままのものに仕立てられたと思うのだ。

 私にとっては7年前のその時が、台湾との初めての出会いの機会だった。シンガポールやマレーシア、ハワイ島やグァム島など、今まで訪れたどの外国の土地とも違って、その街並みやそこに生活する人々が大いに私の気持ちを惹き込んだ。

 その強い想いに駆られてはいても、中々都合が付けられない日々が続いた。しかし7年目にしてとうとう、その機会を得ることが出来た。そこで私は、折角掴んだ旅行の機会を別の場所で費やすのではなく、あの懐かしい台湾へ行くことに決めた。

 バックに「♪ 私のお気に入り」は流れていなかったが「そうだ、台北へ行こう」と強く思い極めた。そして私は喜び勇んで旅路へと向かったのだった。

夜市の屋台

台湾スイーツ! (これは固定店ではなく、なんと屋台店)
夜市に見せ台を拡げる工芸品店

(写真は共に 2006.11 撮影)
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< 新たな旅へ 「♪ 台湾、台湾、行きたいわん」 >

 台湾への尽きぬ興味の源は、ひとつには台湾の持つ歴史性と、日中の狭間にある地理的なものからきているようだ。

 さらに独自の政治的な位置付けによるところも大きいと思うのだ。なぜなら台湾は「旧時代の日本統治領」としての長い歴史を持った、私達にとっては特別な国だった。

 心の内にそういった複雑な事柄についての思いを秘めて、私は街を歩こうと思った。だから建物は勿論なのだが、いわゆる観光名所ではなく市街地にある「街路」の幾つかという<場>そのものが今回の旅の中での大きな目的地であった。

 それに、そうした街並を訪れる事を私はとても楽しみにしていた。何故かと言えば、前回の旅行の後も何冊かのガイドブックを手に入れて、再訪する際の目当てを立てて楽しんでいたからだ。しかし、なかなかその機会は訪れずに過ぎてしまった。でもその余暇のお陰で特色ある街路や街角の様子をつぶさに知ったのだった。

 そして実際に台北の街を訪れて時刻に関わらず朝な夕なと歩き回ってみると、そこで見るもの、また接するものが、なんだかとても心懐かしい感じがした。しかしそう思う一方で、どれも皆もの珍しくもあった。


 さて、それではここで確認の意味を込めて、台北市を南北に縦貫する鉄道路の「淡水線」を中心に据えた、今回の旅の目的地をまとめておこう。

朝〜午前 正午〜午後 (〜15:00) 午後〜夕刻 (〜18:00) 夜 18:00〜
一日目 成田国際空港 桃園国際空港 淡水站;淡水老街 北投温泉
二日目 新北投站;北投公園 中山站;南京東路 東門站;永康街、森林公園 寧夏路夜市
三日目 圓山站;孔子廟 台北車站 - 士林站;士林官邸  台大醫院站;台大病院 遼寧街夜市
四日目 台大醫院站;ニニ八公園 中山站;南京東路 桃園国際空港 成田国際空港

 *このページでは、まず旅の一日目の様子をご紹介する。 歩行数と距離;18,384歩 11.9Km

・ 台北の旅景色

 2日目の様子は
  ・ のんびり 行こうよ: < 2013.10.16; 台湾の旅(午前; 北投 「力溢れる言葉」) >
  ・ のんびり 行こうよ: < 2013.10.16; 台湾の旅(午後; 永康街 「優しさの中身」) >

 3日目の様子は
  ・ のんびり 行こうよ: < 2013.10.17; 台湾の旅(午前; 圓山 「敬虔な祈りの姿」) >
  ・ のんびり 行こうよ: < 2013.10.17; 台湾の旅(昼; 中山 「食を知れば・・・」) >
  ・ のんびり 行こうよ: < 2013.10.17; 台湾の旅(午後; 士林 「旨いもの、見つけた」) >

 4日目の様子は
  ・ のんびり 行こうよ: < 2013.10.18; 台湾の旅(午前; 台大醫院 「麗しの島」) >

 台北でのスケッチ;
  ・ <旅行でのスケッチ;台湾旅行でのスケッチ その2>

桃園空港の通路 桃園空港の通路

どうやら、自転車が
ブームを呼んでいるらしい。

以前の4日間のことだが、あれだけ歩き回った市内だったがそこで見かけた自転車は僅か2台だけだった。


これは凄い事になっているに違いない、
と空港通路の大型ポスターを見ただけで嬉しくなって来た。
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< 台湾の文字(字体)に感じること >

 ところで、ご存知のように台湾で使われる中国語は「繁体字」で表記されている。

 大陸の「簡体字」とは違って、これは漢字の正体文字だ。日本で使っている漢字でいえば昭和初期までの「旧字体」に相当する字種である。

 旧字体には世代としてまるで接してはいないが、概ねの文字は読む事が出来る。それに市街で目にする大抵の単語に関しては、その意味するところも私達日本人なら大抵は類推できるものだろう。だからこの字体の恩恵を受けられ、街を歩いても大いに助かった。

 これが簡体で表記されては、まるでお手上げ、手も足も出せるものではなかったろう。台湾は「観光立国」でもあるから旅行者には親切な街だと思う。台北では駅やホテルのロビーには街を説明するパンフレットやルート・ガイドが豊富に備えられている。誰もが簡単に入手できて、英語、中国語(大陸)、日本語、韓国語などに分冊されているものだ。(ちなみに街路での標識、指示版の類は繁体と英語の表記がされている)

 日本語のものを手にしていれば助かるが、たまたま簡体字での中国語版しか無かったりすると大変だ。文字として読めないので、その極端に省略された字体は私達にとっては最早「漢字」とは言えまい。例えば「ハングル文字」と同じ様に、ただの記号の羅列にしか過ぎないものだ。勿論、意味もまるで判らないから困ってしまう。


 東アジアの文字だというのに少しも親しめない「簡体字」は、なんだか印象として鋭く尖っている様に思えて、見るほどに違和感が増していく。そしてついには、クリンゴン船(スタートレック)内での警告表示のパネルのように思えてくるのだった。

 そうなるともう「変な文字」などによる標記ではなく、いっそのこと英語で案内されるほうがよほどマシであり、数段ありがたくなってくる。

 一方の「繁体字」の方は、普段私達が慣れ親しんでいる字句も使われるので、随分と馴染み易いものだと思う。

桃園国際空港のエントランスにあったポスター GIANTは世界最大の自転車メーカーだ。

今年の開催で100回目を数えたツール・ド・フランス。

戦争で中断された期間もあったために、その歴史は今回で100年を越えた。

そこに出場するプロ・ツアー・チームにジャイアントの自転車が供給されたのをご存知だろうか。


<ベルキン・プロ・サイクリング> チームが採用したのは下の2モデルだ。

 ・Propel Advanced SL
 ・TCR Advanced SL

 たとえば繁体字での表記だが、台北市の主幹路線である「MRT淡水線」の駅名の<円山>。「円」の文字は旧字体の「圓」、また<台大医院>の「医」は旧字体の「醫」での表記となる。これなら、何と書いてあるのかが私にでも充分に理解できる。

 しかし読めはしても意味が判らない字句や用語も多いので、その場合は少し苦労することになる。しかしここは断るまでも無く外国なので、この程度の困った事柄があるのは致し方ないことだろう。

 いま、上の文章で「駅」という漢字を書いたが、円山駅は現地では<圓山站>と表記されている。「站」を使った駅名などは、文字の意味が判るだけに字句の表記を目にした際には少し違和感があった。

 何故かと言えば軍事用語で馴染みのある<兵站:へいたん>の「站」の文字が使われていたからだ。台湾での「站」の文字の用例は、一定業務のために設けられた事務所や機関を表した文字であり、それは日本での用例と通じる。それなら違和感はない。

 台湾にあっては「役所」や「官庁」という意味を持つ文字だから、多くの用例では観測所や保健所などの施設を表す時に使われるし、また、サービスステーションであれば「服務站」と書かれたりする。

 さらに、ここでの用例である「駅」を表す場合である。「站」の字面は尖っているし、熟語での先入観があるからどこと無く戦闘的な印象でもある。

 何やら駅が秘密基地めいた特別な場所に思われてきて、ゾクゾクした気持ちになってしまうのは仕方があるまい。だから何となく、「駅」という漢字の持つ温かで郷愁を誘うようなイメージの字句からは、少し遠いように感じてしまい、モヤっとした妙な感覚が残ってしまうのだった。
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< 台北への篤い想い >

 台北の街には「そこがどこか他の都会ではなく、まさしく台北なのだ」という事を特徴付けている大きなポイントがある。

 それは街の中に、ありふれた単なる機能的な大都会のひとつ、というだけではない確かな芯となる都市のアイデンティティーが存在しているためだ、と私は思う。

 台北の市街を歩いていると、忽然とビル群の中にオアシスのようなゆとり溢れる一画が現れてくる。(懐かしき前川清とクール・ファイブの歌謡曲、「♪ 東京砂漠」の歌詞を思い浮かべて頂けると嬉しく思う。)そうした一郭が、大いなる潤いをもって、ともすれば殺伐としてしまう街角に鮮やかな色彩を加えているように思われるのだ。

 豊かだった時代の雰囲気を伴って忽然と現れるのは、ゆとりと重厚さを兼ね備えた日本統治時代の様々な歴史的な建造物だ。明治末期や大正期に建築されて、今も街中に残るそうした構築の存在が人々に与える影響が軽かろうはずがない。

 市街地の様々な場所に散在する歴史的遺産(遺構)は、「保存」され、かつ「再生」されて、しかも今も大切に想われて、しっかりと利用されている。私はそれらのレンガ造りの壮大な構築の前に佇んだ際には、剣岳を眼前にした行者(山岳信仰の修行者)が擁く様な強い衝動に駆られて仕方が無かった。堪らなくスケッチに残したい気持ちを押さえられなかった。

高速道路から見た
新荘市の様子。
新荘市の様子
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2013年10月15日 旅行初日  この日の歩数と歩行距離 18,384歩 11.9Km

< 桃園国際空港から台北市内へ向かう >

 台湾北部への玄関口、「桃園国際空港」は台湾西北部の桃園県にある。そこから台北市街地へ向かう「国光客運」(国の文字は本来は旧字体の「國」)の高速バス「国光号」の乗車切符を買った。そのバスはおよそ15分から20分の間隔で運行されていて、台北車站までの所要時間は55分。

 空港第二ターミナル脇の「1819番バス停」からリムジン・バスに乗り込んで台北市内へと向かった。

 空港前の国道1号線から国道2号線へ入り台北市街へと向かう。2本の連続する国道は「中山高速道路」でもあり、北部の動脈だ。リムジンバスは山中を縫って続く高架道路を快適に走り、淡水河に掛かる大きな「淡水河橋」を渡った。そこはもう台北市街の大同区で、市街と郊外を南北に結ぶ「承徳路」を南に進めば、真っ直ぐ中央駅の「台北車站」になる。駅南東の高速バス・ターミナル「台北火車站東側門 (公車專用道)」がそのバス路線の終点だ。

 しかし終点までは行かずに淡水河橋を渡った市街北端にあるバス停の「庫倫街口」で私は途中下車する事に決めていた。そこは空港(第二ターミナル ⇒ 第一ターミナル)から数えると2番目の停留所で、台北市街地の入り口となるバス停だ。

 そこで下車したのには理由があった。バス停のあった庫倫街の横手の「円山站(駅)」(円の字体は本来は旧字体の「圓」)から新交通システム路線網である「MRT」に乗るためだ。そこから島の北岸にある河口の街「淡水(ダンシュイ)」へと向かった方が時間が短縮でき、市の中心へ行ってから目的地を目指すよりも効率が良いからだった。

淡水大橋から見る台北の街 郊外地域から「淡水河」を越えて、
空港から出発したリムジン・バスは遂に
台北市へ入る。

走ってきたのは「国道1号」線で、
快適な高速道路だ。

南にに広がるのが、台北の街並みだ。
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< バス乗車時のルール ;手荷物の預け方 >

 ところで、空港バスには乗り方のルールがあるのをご存知だろうか。そこには守らなければいけない大切な事柄があったのだ。

 簡単な事柄に過ぎないが忘れがちな事でもあって、乗車時に「終点ではなくその途中にあるバス停で下車する」という事を告げておかないと大変な事になるのだった。

 まず、バスの底部にある収納庫は「終点」と「それ以外」の2区画にトランク・ルームが分けられている。乗車の際にはトランクに収納してもらうために運転手さんに自分の手荷物を預けるわけだが、その際には必ず「降車が終点ではない」という事を告げないといけない。

 そう断わっておかないと、荷物が終点行き側のトランク深部へと収納されてしまう可能性が出る。そうなると、途中のバス停では荷物が取り出せず、目的地で降車することが出来ないという大変な事態に陥ってしまう。

 だからもし誤って渡した自分の荷物がトランクの奥にあれば、そのままで我慢するしかない。バスを降りても車内へ逆戻りせざるを得ないのだ。

 さらに、手荷物確認用のシールが荷物に貼られ、半券が渡されるが、降車時に照合されるわけではない。運転手の人は盛んに荷物を降ろすだけで、引き取りは自己責任。だから要注意である。先に降りた人に間違えられたら、それでお終いなのだった。

手荷物に貼られた荷札の半券と、
乗車チケット。

半券は引渡し時のチェック用というより、
問題が発生した場合に自分の手荷物である事を証明するためのもの。


トランク・ルームから引き出された手荷物が確認されて引き渡されるわけではない。

(手にしているのは、途中下車のバス停を告げるためのメモ)
リムジン・バスの手荷物札と乗車チケット
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 「個人より集団の利益優先、という事を原則に据える」という明確極まりないルール。

 これを大切に守るという社会規範は、至極当たり前のマナーだろう。自分の落ち度で身勝手な振る舞いをする人の都合は、周囲から配慮は払われても他者の都合に優先される事はない。一人の過ちによって他の乗客の時間を消費させずに大勢の都合の方を守る、彼らが守ろうとしているのは皆で協力して「最大多数の幸福を追求(優先)する」というルールなのだ。

 南京から島へと渡り政府を打ちたて建国した人々からすれば、「公(おおやけ)」の持つ意味は大きく、相互扶助は大切な規範なのだろう。世界から国として批准されずに孤軍奮闘してきた長い歴史がある国に暮らす、隣人や周囲の人々を尊重して寄り添い助け合ってきた人達ならではの精神的な支柱に違いない。

 先に書いたガイド・ブックを眺め回す長きに渡った日々の効用によって、私はそのルールを知っていた。書かれていたのはルールだけで、その規範の背景となる精神論などは無論説明されていなかったが・・。それに、最初(乗り込む際)から終点の手前にある「庫倫街口バス停」で降りることを決めていたので、何の問題も無かった。

 たとえば、終点まで行こうと思って荷物を渡してから気が変わって途中で降りようとしても、荷物の取り出しすら対応してくれない場合があるのだという。

 こうした事はうっかりミスの発生し易い事で、注意が必要なルールのひとつだろう。

国光通運のリムジン・バス「国光号」

バスの底部に見える扉が荷室である。
庫倫街口バス停
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< 為替レートと交通機関の乗車料金 >

 台北中心部までの高速バス運賃はNT(台湾元)で125、大きな手荷物分も追加は取られず無料である。その運賃額を当日の「中華銀行」での台湾国内での為替レートで円換算すると、僅か400円弱!、という驚きの価格だった。

 ちなみに成田空港の常陽銀行と同じ形態の空港内にある銀行の為替窓口での通貨交換だったが、日本でのレートよりも交換率が数段よい。現地レートの方が日本に比べて25%程度は「分」が良くなった。


 ところで私の降りた国際空港は市街北部の「松山空港」ではなく「桃園空港」だ。そこから台北市街への道のりは高速道路を走行しても55分ほどの時間が掛かる距離である。

 つまり空港・市内間は結構な距離になるので、一人旅の場合にはそこに向かう交通手段として公共機関を利用する必要が出る。パックやツアー客、団体さん向けの多くの送迎者が空港ロビーに待ち構えているのを横目で見ながら通り過ぎて、鉄路かバスかタクシーを利用しなければならない。

 そうした公共交通機関の内から馴染み易い手立てを選ぶとすれば、やはりバス路線を利用する、という事に落ち着くだろう。そこで改めて調べてみると、空港を結ぶバス路線は3社ほどの民間バス会社によって運営されていた。その中では公営会社から民営化された「国光客運」が一歩抜きん出ている様に思われた。

庫倫街口 庫倫街口の様子
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 利用される機材はゆとりある座席間隔の大型リムジン・バスなのだが、運行スタイルとしては複数のバス停で停車しながら走る路線バスなのだった。

 だから競争があり、しかも台北でのバス路線はいわば公共交通と同様の扱いのものなので、ひときわ安価な運賃設定(市街地内であれば15NTの均一料金)で運営されている。いやバスだけでなく市内を縦横に結ぶ便利な列車(MRT路線網)も同様で、さらにタクシーでさえも日本とは比較にならない料金設定(初乗りは何と70NT)である。

 そうした各種の交通機関のどれをとっても、料金・運賃がびっくりするくらい安いのだった。

 桃園空港から台北までの運賃を比較すると、そうした多くの交通機関(あるいは手段)の中で、「台湾高速鉄道」の料金設定は他のものより少し割高になるようだ。

 空港から少し離れた場所にある「桃園」駅から「台北車站」までの旅客運賃が380NT。それは日本円に換算すると1200円弱になり、都心部から京成電鉄「成田スカイアクセス線」等を使った場合の運賃と同程度の価格になる。

圓山站の周辺 圓山站

MRT淡水線 圓山站(円山駅)周辺の街並み
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< 市街地への入り口(淡水河、基隆河の畔) 「圓山(ユェンシャン - Yuanshan)」站にて >

 折角早い時刻に台湾へ到着したのだが、空港の入国審査口で手間取って、結局バスに乗り込んだのは13時をちょっと回った頃になってしまった。そして、空港から台北市街へ向かう高速バスを「庫倫街口」で降りたのは14時少し前だった。つまりそれは入国審査で40分程度のロスをした、という事を意味する。

 降りたバス停の正面は消防署で、珍しい景色だったのでしげしげと(外からだが)眺め廻してしまった。その横手にある広い道路を「圓山」站へ向かって歩き、MRTの主要路線である「淡水線(半高架路線)」に乗った。淡水線は「新交通システム」として計画されたが、実際にはそうせずに「鉄道方式」で運用がされている路線だ。

 市民の大きな足なので別路線からの乗り入れ(接続)本数が多く、4・5分の列車間隔で運行されている。台北市を南北に縦貫している代表的な路線で基幹路線といえるものだろう。

 MRTへの乗車では、切符ではなく「トークン(ルーレット・ゲームのコインのようなもの)」を購入して利用する。それを自動改札機にかざしてゲートを開いて、そこを通る仕組みになっている。利用駅での「出札」の際にそれを投入して回収する仕組みになっている。

 しかしそのトークンとは別に、MRTでは便利なチケットが用意されている。一日フリーの切符とデポジット制の2種類のカードだ。鮮やかにデザインされた「悠遊カード」というSUICAカードのような電子カードがそれだ。

圓山站(円山駅)

円山站(駅);(ユェンシャン - Yuanshan)
 *円の文字は本来は旧字体の「圓」で表記される。
淡水線の車窓から

淡水線の車窓から。
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< 市街地での移動の味方 「悠遊カード」 >

 台北では電車やバスの、そもそもの区間運賃が格安に設定されている。そのため本来は有難いはずの「一日フリー」切符が、うっかりすると実はちょっとした危険をはらんでいる。朝から晩まで、大分移動しないと元が取れないということになっていまうから少しだけ注意をしなければいけない。

 だからむしろ一日フリーよりもチャージ式カードである「悠遊カード」の方が便利だろうと思う。私達の利用するSUICAカードと同様に、市街を縦横に走るバスの精算でも利用できる便利な「共通カード」だからだ。

 期限のないカードをまず購入し、それに希望の金額をチャージして利用するというものだ。前回の台湾旅行の際にはそれが出来なくて、同じカードがチャージ付きの状態で基本最低購入額が500NTから始まる、段階的チャージ額で設定されたカードを購入するシステムだった。度々台湾へ来る人ならよいが、そうでないと結局使い切れずに利用しない状態でチャージ部分が大分残ってしまう事になりかねない。このため、この数年の間にどうやらカードの購入システムそのものが変わったらしい。

 現在のシステムは200NTでの購入。そのうちの100NT分がデポジット分で、100NTが運賃に引き当て可能だ。デポジットと残高は手数料の20NTの差し引きで払い戻しが可能である。でもちょっとデザインがイケているカードなので、記念に持っておくのも良いと思う。リチャージして利用できるから、再訪する際にはまた役に立つ。

 だから、台北市街(あるいは周辺の郊外を・・)をあちこち歩き回る向きには持って来いの便利な切符といえる。是非ともご購入(ご利用)をお勧めしたい逸品だ。

北投駅のホーム

北投駅のホームの様子。

ホテルを予約した北投温泉へは分岐する支線へ乗って「新北投」へ向かう。
支線 新北投へ
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< 圓山(庫倫街口)から淡水へ向かう >

 「圓山站」は大きな駅舎を持っていることが特徴と言えよう。淡水線の線路は市街地の中心部は地下路、市街地域は高架路、郊外地域は地上路である。だから市街の駅は皆どこか埼京線の駅に似ている。ただし、そこにはひとつの大きな違いがある。それはあらゆる空間に大きなゆとりが設けられている、という点だ。

 特に圓山の駅舎ではそれが顕著と言えよう。スタジアム(パビリオン?)や美術館や大きな公園(「花博」と掲示が出ていた)が周囲にある駅なので、そうした豊かな設計がされているのだろう。

 このように目的地の様相に応じた設計がそれぞれの駅で為されているので、台北の駅施設では日本で感じるような窮屈な感じが全くない。乗降客の多い主要な駅の幾つかには「安全ゲート」が設置されているので安心して利用が出来るのだった。そうでなくても多くの駅でのホームや階段は広く設えられているし、構内の通路なども充分な広さが確保されている。

 しかし東京都区内の駅などとは違って、市街地にある駅での人出(人混み)はかなりのもので利用者はひどく多い。でもどの駅もみな、ゆとりあるスペースを持っているのでその人混みもあまり気にならない。

MRTの路線図 マングローブの森

淡水河口の「マングローブ自然保護地区」。

「紅樹林駅」 周辺の様子。
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< 「駅ロッカー」の状況 >

 「淡水線」に乗って路線の終点である河口の街へ向かったが、初日に宿泊するホテルがある「北投」站で一旦列車を降りて、駅構内にある案内所(「訊問慮」)で駅の構内にロッカーがあるかを尋ねてみた。

 だが生憎の事に駅ロッカーや「行李托運」と呼ばれる手荷物預かり所は、この駅には無いのだという。それではここで列車を降りて、チェックインにはまだ早いのだが「ホテルへ行って旅の荷物をデポして置くか」と思った。

 けれど、ふと思いついて目的地の「淡水」站になら駅ロッカーがあるのではと思い浮かんで、そのことを尋ねてみた。すると「駅構内には無いのだけれど、駅を出たところにならロッカーがあります」という優しい答えが返ってきた。そこで私は再びMRTに乗って目的地の淡水へ向かうことにした。

淡水の駅舎 淡水站の様子

ちょっと素敵なレンガ仕上げ。
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 北投駅の案内所で受けた説明の通り、淡水站の改札口から出た先にロッカーがあった。

 セブン・イレブンの横手で、少し判り辛い配置にあった。このロッカーは奥行きがあり収納力は随分あるので、旅行用トランクでも中型までなら大丈夫だろう。ちなみに私の機内持込可能な大きさのトランクケースは余裕で収納できた。

 最初の投入が20NT。これは時間に関わらないが、一時間以内であれば追加料金は不要だ。つまりちょっとした用事であれば60円ほどでロッカーが利用できるという事になる。

 以降一時間毎に20NTが加算される。つまり、3時間ほど淡水を楽しむとしたら180円ほどで済む計算になる。JRの駅ロッカーでいえば400円クラスの大きさであるから、格安の利用料設定といえよう。

淡水駅前 駅の横手にあるロッカー

淡水駅前のロッカー
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< 「淡水(ダンシュイ - Danshui)」 のこと>

 「淡水河」の川幅は広く、その河口にある「淡水区」は川が海(台湾海峡)へと注ぎ込むすぐ手前の場所に開けた場所だ。

 その中心となるのが「淡水」の街で古くは貿易港として栄えた土地であり、現在ではデート・スポットとしても賑わいを見せるエリアだという。

 前回の旅行の際には「地球の歩き方」を仕入れて、台湾北部にある名所をいろいろと調べたてみた。その力強いガイド・ブックで目にしたのが「淡水」の街。川面の風景を撮った写真の、その優雅な景色をいっぺんで気に入った。写真の様子はなんとも「のんびり」とした、豊かなゆとりのある様子だったのだ。

 だから前回の旅の中でも、この河口の街への訪問は大きな重みを持った楽しみの一つであったし、今回の旅での目的地のひとつであり、そうしたことから初日はまず淡水の街を目指すことにしたのだった。淡水の街で半日を費やして様々な街並みを歩き、旨い物を探そうという楽しい予定であった。

淡水河の岸辺

対岸に見えるのは
「観音山(クァンウィンサン)」
淡水河と観音山
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台北車站の名物弁当  懐旧便當

懐旧便當 (2006年 台北車站の台鐵の地下売店にて購入

キャンバス地のトート・バックとステンレスの箸とジャーがセットされていた。
価格は僅か300NT!(中のお弁当代込みの料金)だった。

優にお釣りが来る物量がある。私の胃でいえば、2人前を少し上回るといったところだろうか。
台北車站の名物弁当  <懐旧便當>

トート・バック入りの日あたりの限定10食のもので、前日に電話予約をしておいて入手したもの。


現在はセットでは発売されていなくて、容器と弁当を別に買い求める必要がある。
購入できる容器は、同じステンレス製で、トート・バックに収められているが、私の時にはついていたステンレス製の箸は付属していない。

相当するお弁当の方は「傳統排骨便當(チュァントン パイグー ビェンダン)」というもので、簡易容器に入っている。
ザーサイは入っていないが、このタイプであればほぼ同様のものが愉しめる。

豪勢な「排骨(パイグー)」が奢られたお弁当。
「多脂」は、台湾での褒め言葉で、私たちには脂がキツイが、彼の地ではこの状態が最上級の調理である。

芝蝦の中華ご飯におかずのプレート。
味付きの煮玉子、ザーサイとチンゲン菜それに高菜の炒め物がセットとなる。

 淡水は市街から見れば随分と郊外の土地になる。マングローブの原生林を超えた先にあって、「中山」站(駅)などの市街地中心からは30分程電車に乗って出掛ける必要がある自然溢れた街だ。

 前回の旅ではガイドに掲載された風景写真に惚れて、期待を込めて訪れた場所であって、「台北車站(台北市の中央駅)」で有名な駅弁を買って準備をし、河口の街を目指したのだった。駅前にある公園は広く清々しいもので、河を挟んで「観音山」が真正面に望めるのだ。芝生に腰を下ろせば視界には淡水河の眺望が開ける特等席が出来上がる。

 だからその気持ちの良い場所で名物のお弁当を食べようと思ったのだった。街には川に沿って「公明街」という通りがあるが、その繁華街のすぐ横手に河岸に沿って続く長い遊歩道がある。

 気持ちよく続いた遊歩道は、川の右岸に面してしる。だから片側だけ(河口に向かって右手側)にお店が並び、もう一方の側は川面が見える美しい川岸になるという抜群のロケーションを持っている。

金色水岸の遊歩道

河岸の遊歩道は、「金色水岸」という愛称が付けられた道だ。

観光市場の通りの横にあるが途中で、合流して一本になる。
淡水中正観光市場に並ぶ店

「中正観光市場」の通り。一体どうすれば、ここまでタイルの壁が崩れるのだろう?。

屋上のバルコニーと2階のベランダは、打ち壊したとしか思えないのだが・・・。或いはオブジェ化したひとつの芸術作品でもあるのだろうか。
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< 歴史ある「淡水」の街並みを楽しむ>

 その遊歩道は実は「中正観光市場」という名前がついた区画だった。

 「中正」は国民党政府を起し、南京から脱出して台湾を築いた「蒋介石(しょう かいせき)」総統のことである。しかし、そうした厳しい面影は今は微塵も無い。

 人出の多い地区にその名を掲げたのは、当時の為政者の明確な意図からだろうが、今では正式名称では呼ばれずに「金色水岸」という相応しい素晴らしい愛称が付いて、人々に親しまれている。

 観光客向けの店並みが東側の岸辺に沿って続いているという事になるのだが、夕暮れ時に近づくほどにどんどん密度が高まって人通りが多くなってくるのだった。

中正観光市場に並ぶ店 中正観光市場の遊歩道
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中正観光市場の遊歩道(海側) 中正観光市場の遊歩道(駅側)

 何故かと言えば、岸辺の遊歩道からは一際美しい夕陽が眺められるからだ。

 遊歩道から横を流れる海のように広い静かな川面を眺め、そして美しい夕陽を眺めるできる。

 そのロマンチックな景色を楽しむために、ひとびとはMRTに乗って、夕刻に間に合うようにこの街を目指してくる。だから、時間の径過と共に静かだった岸辺は、やがて喧騒に包まれ始めるのだった。

 活気、といえば言葉はよいが、お祭り騒ぎのように、時に騒々しい。大陸からの一団だろう。ひとつのグループが道に広がって歩いてきて、一際辺りが騒々しくなって来た。そこで私は一旦は河岸を離れて市街地へ向かう事にした。

市場の中心 写真の右端の路地が凄い事になっている。

淡水名物の「魚丸湯」のお店をはじめ、美味しいものが溢れているのだ。
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対岸へと往復している
可愛らしい観光船。
対岸へ渡る観光船

 川岸には乗船場があって、観光ボートが往復している。河を横切って対岸の「八里水岸」へと連れて行ってくれる。

 私はまだ対岸へ渡った事が無いのだが、名称が素敵であり、エキゾチックな佇まいを持った静かなイメージが湧く。こちらの岸辺とは違って落ちつた雰囲気の場所なのではなかろうか、と想像している。

 チケット売り場のお姉さんは随分と熱心な人で、歩きすぎる人たちに向かって声を掛け、盛んに乗船を勧めてくる。もともと船は大好きなのだが、今回は遠慮をしておこう。チケット売り場の近くで写真を撮るために佇んでいたのだが、それを乗船を迷っていると解釈された様だ。手を振って「乗らない」と言っても中々許してくれないのでその場所を離れる事にしたが、もう少しこの通りをブラブラして楽しんでみよう。

 それに私は河の様子を写真に写し止めるだけでなく、簡単にスケッチもしたかった。

淡水河の様子 2006年の際にスケッチした淡水河の様子。

川面に浮かぶ船は
川蝦(串揚げがこの地の名物)などを採るためのものだろうか。
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 区内には「古老街」や「新生街」といった世代の違う街路がある。

 観光市場(環河道路)や夜市の通り(公明街)も勿論、淡水の中心部には違いない。でも、こちらの通り(中正路)の方が本来の淡水の街並みを示している様に思われた。そうした街中の通りも市場に負けず劣らず賑やかで、いくつもの店が連なっていた。

 ただしその通りでは勢いよく車やスクーターが走るので、横断して反対側の店へ行くには大いに注意しなければいけない。なぜなら、日本と違って台湾は世界標準のルールを採用している国だからだ。

 楽しい雰囲気の環河道路や「金色水岸」、それに街中心部の「中正路」や「三民街」や「公民街」など、古くからの淡水河に並んだ昔ながらの街並みを歩いてみた。

対岸へ渡る観光船 美人がふたり

綺麗なお姉さま達だな、と思っていたら
早速地元のオジサンがナンパを決めはじめた。

モデルさんではなかろうか、と思う。
その容姿端麗な事といったら、しばし写真を撮るのも忘れて見惚れてしまったほどだった。
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< 遊歩道(歩道)でのルール >

 台湾においても道路は歩行者優先ではなく、当然の事ながら「車が優先」である。交通弱者である歩行者はどの国でも守られる存在だけれど、決して「優先」などというナンセンスなルールの敷かれた国は私が訪れた外国にはひとつも無かった。

 台湾では特に「行人優先」(歩行者優先)と標識が掲げられた歩道のエリアだけが、歩行者の完全な優先を保障された区画であった。それ以外の場所では、歩道を走る自転車でも歩行者に対しての遠慮は無い。もしぶつかれば走行してくる自転車に注意を払わなかった歩行者側に落ち度があるという事になる。至極もっともなルールであった。

 要するに、たとえ市場内の遊歩道(自転車だけでなくスクーターも走ってくる)であろうと、常に歩行者側が注意を払って通行する必要があるのだ。だから、あれだけの量で、しかも早いスピードで徐行せずに走るスクーターと歩行者との衝突事故が少なくて済むのだろう。

 台北市街地の歩道は広くて、実は建物脇になかば公共化された屋根付きの通路の部分(路面から通路までは30cmほどの段差となる)が必ず設けられている。

 だから通路の部分を歩けば、自転車やスクーターや車との事故の心配はまったく要らない。しかも間には緩衝地帯があって、道路とそれらの通路との間は帯でスクーターの駐車場所になっているのだった。

 駐車エリアが無くて、その外側に歩道がある街路もあるが、どうもそうした大通りの区画(南京東路や信義路など)では一定のルールがあるらしい。

 2列に色分けされた歩道部分の道路側のエリアは、道路面とは分離されていて歩行者も通れる場所なのだが、自転車の通行があれば自転車走行側が優先されるものらしかった。

中正観光市場 中正観光市場
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 そぞろ歩きをしていた街中で、お茶屋さんを見つけた。観光客を対象にした店でもあるが、台北市街のように小洒落た雰囲気は無かった。

 地元の人が買い物する店でもあるようで、店舗の名称は「雲峰茶荘」というものだ。並んだどの商品も随分と値段が抑えられていたので嬉しくなってしまったが、知らない店なので高級品は買わずに「四季春 高山茶」の茶葉(台湾茶)を買い求めた。

 台湾で暮らす人達が一体どこで日用品を買っているのか良く判らない。コンビニエンス・ストアは様々あって、ちょっとしたものを買うにはどんな街区に居ても少しも困らないが、スーパー・マーケットのようなお店を見ることがなかったからだ。肉屋さんは何軒も見かけたし、調理済みの食材が並んだ店も見たが、野菜、果物、魚などの食材屋さんを見掛けることがなかったから、不思議に思っている。

 生活スタイルとしては外食が基本で一般的でもあるのだろうが、時には家で調理することだってあるだろう。そのことが実に不思議だった。

「光明路」の様子 入り江のように開けた河岸
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美しく咲く樹木の花(名前が判らない) 「光明路」沿い ギャラリーに改装された古い建物

 「古老街(中正路の一画)」などは、その名の通り古いレンガ造りの建物が残っていて、なんともいえない雰囲気ある様子だった。

 空路が開かれるずっと前、この街が貿易港として栄えた頃の名残だろうか。実に見事な雰囲気の建物があった。その古い建物は内装が改造されて今ではギャラリー(三協成博物館)として利用されていているようだ。

 入ってみたかったが、ちょっと敷居が高かった。また、次の機会にしようと私はその前を素通りしてしまった。

ギャラリーに改装された古い建物 ギャラリーに改装された古い建物
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 先に触れた交通運賃だけでなく現地でのお茶もかなりの安価だ。だから大好きなお茶を購入したいと思っていて、それが今回の旅の目的のひとつでもあった。

 そうした品物だけの話ではなく、台湾は生活に関する諸物価が驚くほど安い。だから旅行者に優しくて、滞在費用としては大いに助かるのではなかろうか。

 どの国からの旅行者も愕然とし、等しく嘆くという東京の外食価格やホテル料金がいつも話題に登るのも頷ける。台湾での価格と比べたら、東京のそれは正気の沙汰ではなかろう。例えば外食で考えてみればそれが良く判る。ここで支払わなければならない料金こそが、中華料理の正常な本来の価格設定なのだと思うのだが、どうだろう。

 今更私が改めて言うまでも無いことだが、人件費は兎も角、地代家賃が高すぎる弊害は本当に大きいと言えよう。

 東京への一極集中化からもうそろそろ離脱して、何事に関しても分散していかなければ、いずれ大変な事になるだろう。

 来るオリンピックでさらにいろいろな物価が確実に上がるのではなかろうか、と私などはヒヤヒヤしている。

光明路からの路地

街の中心を歩くと、ほんの少しの路地がある。

河に向かった傾斜地に街は展開しているので、路地の奥は坂になっている。ふいに覗かせるレンガ壁がなんとも言えず、いい味を醸している。
ピザ屋さんのメニュー(価格に注目)

街で見かけたピザ屋さんのメニュー。

ボリュームがあり、内容も素晴らしいが、なによりその価格が羨ましい。


今はデフレの経済状況だから良いのだが、近いうちに東京に勤めるサラリーマンが美味しく安価な昼食を楽しめなくなってしまう世がやって来るだろう。

インフレ時の物価上昇率ほどに急激な動きを示すものに、私達のささやかな賃金カーブが追随するはずが無いのは誰もが知っている。

デフレ化への経済シフトは政府が敷いた路線である。そして、それを実行する政府が誕生する事が判っているのに、選挙して圧勝に導いてしまったのは私達自身だ。

政権を奪取させればもはや止めようが無いと誰もが判っているにも拘らず、流れを止める最大のチャンスがあったのに、私達はそうしなかった・・・。

誰もが諦めてしまっているのか、あるいはまだ何事かの幻想を抱いているのだろうか。
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 納得できる価格で一級の味が愉しめる都市の住民が、私には羨ましくて仕方が無い。

 高額を払って美味しいのが得られるのは当然の話であるが、ここ台湾ではそうはならない。そこらの路上で振舞われる屋台店のなんでもない食べ物でさえも、得も言われぬ程の美味しさを秘めているのだった。

 そういう小さな驚きを伴った嬉しい経験が、台北の街では嫌というほど味わえる。

 マニュアル化された画一的なサービスが大手を振る東京では、そうした驚きや歓びとの出会いなど望むべきも無いことになりつつあるというのに・・・。

自転車感覚のようなスクーター

スクーターは日本の買物自転車と同じ状況。
この若いお母さんの様子には流石にちょっと驚いた。
いい雰囲気の民家

台北では低層の住宅を見ることは珍しい。

多くが高層ビルであり、こうした平屋建ては滅多に目にしなかった。
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 少し陽が傾いてきて、周りの街並みが黄昏色を帯び始めてきた。

 古い家の壁も素敵な色合いを出しているし、景色もどことなく輝きを増しているように思える。

 季節は秋で、今は10月の中旬であるが、晩夏の夕暮れ前のような雰囲気に包まれている。一年のうちで私が一番好きな季節、しかも一日のうちで一番お気に入りの時間帯だ。

 関東地方で体験するそうした秋口の状態に、今のこの街の様子はひどく似ているように感じている。なんとも気持ちがゆったりとしてきて、こころ楽しい「黄金の時間帯」が訪れているといえよう。もう少し遅い「夕暮れ時」も確かに良かろうが、こうした微妙な時間帯もまた、実に素晴らしいではないか。

 午後の半日をこの街で過ごしてみると、人々がこの時刻の街並みを楽しもうと、街を目指して集まってくる気持ちが良く判る様になってくる。

 古い街並の方々を歩き回ったので、そろそろまた川岸側の街路へと戻る事にした。

黄昏に染まる街並み 黄昏に染まる街並み
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 中正路を歩いて来て、旧市街地から川筋の遊歩道へと戻る途中で、小さな遺構を見つけた。

 「原領事館船屋遺址」と銘盤があった。英語側での表記を読むと、どうやらこのレンガ造りの建物は清朝末期の英国領事館のボート・ハウスの跡であるらしい。河岸が今の位置よりも手前にあって、この建物から船を引き出して川面へ浮かべたのだろうか。

 あるいは、河に向かって入り江のように水路が引かれているので、古くはこのボート・ハウスの前も水路だったのかも知れない。遺構だというのに、今では只の自転車置き場になってしまっているし、領事館らしき建物自体も周辺に見当たらない。

 だから往時の英国領事館がどうなっていたものか旅行の際には判然としなかったので調べてみた。

原領事館船屋遺址(英国領事館のボートハウス跡) 金色水岸 環河道路
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 「紅毛城」はスペイン人が占領して構築した砦だが、その後オランダ人に奪取されて台湾北部域の支配拠点とされた。

 しかし1661年に「鄭成功(てい せいこう)」がこれを駆逐して本拠地とした。平戸で生まれて日本人の母を持つ武人(17万の軍勢で滅び行く明朝を支援した)であり、明王から姓を下賜されたので「国姓爺」とも呼ばれている民族的な英雄である。

 この人をモデルとして近松門左衛門が書いた人形浄瑠璃や歌舞伎の演目がある。「国性爺合戦」というものだ。


 時代は下って、丘の上の「紅毛城」は、1860年に英国の領事館として整備されたようだった。

 江戸末期、「アヘン戦争」を期に清へ進出した英国は、大国の門戸を開かせるだけでなく、植民地化を盛んに進めていった。

 英国の動きに便乗して欧米各国は競って中国に基盤を築き上げたのだった。余談だが、隣国の惨状を知った江戸期の武士層は列強による植民地化の動きに恐怖した。その危機感から生まれた「攘夷論」が大きく湧き上がり、やがて尊王論と一体化して倒幕運動へと進み、「明治維新」へと繋がっていったのだった。

意味ありそうな建物 心和む命名
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 英国はその戦いでの賠償として高額な賠償金を清朝の中国に要求すると共に、香港や青島など幾つかの土地を割譲させたのだった。

 そして淡水河の河口地域にあるこの優良な港地にも英国の権益を守るための勢力基盤が置かれた歴史があった。

河を挟んで秀麗な観音山が望める 「金色水岸」と名付けられた河岸の遊歩道(環河道路)からの景色。

静かに暮れていく川面を挟んで、観音山を望む。
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 夕暮れ前の黄昏時から、街のそぞろ歩きを楽しんだ。

 画面から姿を消して久しい、ちあきなおみさんが唄った名曲「♪ 黄昏のビギン」が似合う時間が流れた。歌の歌詞にあるような、これから訪れる夜に向かって心弾んだ一時を愉しめた。「のんびり」とした和やかな雰囲気の中にある一方で、淡くほのかに心ときめくものでもあった。それが微妙にバランスした、静かに浮き立つような気分に浸れたものだった。


 そして、心豊かな散歩の後には、もうひとつの楽しみが待っていた。

 環河道路(遊歩道)に並行した繁華街が河川の右岸にある。実は「公民街」というその繁華街からは川面は見えず、只の通りなのだが、時間を追うごとに賑やかさを増して行く。公民街の通りは「淡水観光夜市」として開けたアーケード街であった。

 淡水河に沿った街区は夕暮れの似合う街並。

 日中よりも午後の後半、つまり夕方近い時刻から次第に人出が増え始める、実に面白い街だった。

河岸の遊歩道 河岸の遊歩道
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 夜市は台北の街を彩るもので、曜日に関係なく常時開かれている。

 大きな夜市が開かれる決まった街区があって、その主役は沢山の屋台店だ。その他にも駅の周辺には小さな市場(たとえば円山駅の「大龍街夜市」など)があって賑わっている。

 夜市の街路に並ぶどの屋台店も食べ物を扱っている。フルーツ、スイートから始まって、スープや揚げ物やディープな肉料理などが内容だが、実に多彩であり、そして手抜きなく調理されるので本当に美味しいモノばかりなのだった。

 何軒かで色々と買って楽しんでいる内に、お腹が満たされる。それに屋台が並んだ道の中央ではなく、道路の両側にも特色がある。こちらは一品モノの屋台とは違った固定店舗であり、きちんとした調理を施した料理(台湾料理、福州や広東などの中華料理)が食べられる。

 市街の夜市のほとんどは、そうした食べ物の宝庫なので、地元の人達はそこで夕食をとる場合もあるようだ。

 しかし公民街を中心とした「淡水観光夜市」だと少し様子が違っている。食べ物を扱った屋台は通りに並んでいない。アーケード街のままの状態であり、しかも通りの両側に並んでいるのは普通の商店街と同じ状態で様々な店がある。勿論、料理屋はあるのだけれど数が少なくて、他の夜市とは大分違っている。

暮れていく淡水河。

次第に川面が金色に染まり始める。

「金色水岸」の愛称に偽りは無かった。
河口側を望む
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 私が引き返そうと思った場所は、有名な観光名所の「紅毛城」跡の辺りだった。

 見ておくべきと思ったが、混雑している事も予想された。なんといっても、街一番の観光スポットなのだ。想像に過ぎないが、こんな望むべき絶好の時刻に、丘の上から見晴るかす事のできる特等の場所での混雑さの加減が、尋常であろうはずがなかった。

 そこは景観だけでなく旧跡でもあり、1624年にマニラからスペイン人が進出して占領して築き上げた城がそのおおもとのものであった。

 丘の上にあるその旧跡は大きな観光名所なのだが、結局私はそこへ行かなかった。その丘の麓から夜市の街区(公民街)へ向かうには、少し旧市街(中正路)を歩かなければいけなかった。

古老街へ戻る この通りは「中正路」。

淡水の目抜き通りといえよう。

駅前まで、両側に密度濃く店舗が並ぶ。

人通りも多いし、スクーターも盛んに走る、賑やかな通りである。
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 河岸を通らずに、旧市街を抜けて駅方面へと戻る事にしたので、また市街地の通りでの散歩が楽しめた。

 歩いていたら、ふと、壁面のレンガの様子が目に付いた。その壁の持つ味のある姿に惹かれて写真を撮ろうと近づいてみたら、その奥に良い雰囲気の大きな教会が建っていた。

 鐘楼を備えた完璧なバロック様式の教会で、「聖エウフェミア教会」と実に似た外観を持っている。エフェニア教会はアドリア海に臨む「ロヴィニ(ヴェネチアが支配するイストリアの重要都市;現クロアチア)」の街に1736年に建てられた教会だ。

 一方、ここ淡水の教会は、1891年に台湾最初のキリスト教会として「馬偕(マッカイ)博士」によって建設されたもので、「淡水教堂」という。赤レンガを使ったドイツ式の教会だという。

 メインストリートである「中正路」を歩いていると、途中で「馬偕街」の掲示が現れる。また、博士の胸像が置かれていたりして、淡水に近代医学をもたらした彼の功績は、今も称えられている。


 何枚かの写真を撮ったが、その教会の佇まいがなんとも素晴らしかったので、スケッチする事にした。暫くそこでスケッチしたが、着彩まで仕上げずにその教会を後にした。

教会への入り口

鐘楼を備えた完璧なバロック様式の教会。
1891年に台湾最初のキリスト教会として「馬偕(マッカイ)博士」によって建設されたもの。

「淡水教堂」という名前で、ドイツ式のレンガ造り。
淡水教堂
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< 福祐宮 >

 淡水教堂(教会)を過ぎて尚も歩いていくと、今度は通りの横に道教寺院が建っていた。

 「福祐宮」という道教寺院で、その入り口を撮影していたら、扉の横に座っていたオジサンが中に入れと盛んに手招きしていた。

 そこで、指示に従って扉を通って、お参りをする事にした。オジサンは日本語が少し出来て、自分が説明をしてやるといいながら私を奥の祭壇へと導いた。

 横の壁には暦のような紙が貼ってあり、生年月日で運勢がどうなるかといった事が書かれた掲示がされていた。オジサンはそれを指し示しながら、私の生まれ年を聞き、該当箇所に書いてあった内容を説明し始めた。

 その字句の中に「小心」という単語が幾つかあって、そこを「ともだち」と説明されたが、他にも明らかに意味が違っている箇所があった。どうやら漢字も良くは読めない人らしかった。

街の中心部 福祐宮(道教寺院)

福祐宮
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< 地上に舞い降りた神の使いによる試練 >

 右手の祭壇に置かれた黄色い札を取って私に手渡して、彼は「これは幸運を呼ぶお守りだ」といった。

 それはいい。私は丁度、幸運を呼びたいと思っていたところだった。すると彼は「一枚300元だから、その金をお呉れ」と言いはじめた。私はすっかり油断をしていたので、その言葉を聴いて少し唖然としてしまった。


 ゴルフ場で働いていてそこで日本語を覚えたという身の上話だったが、その日本語も、ときに妙なものであった。300NTはおよそ1000円。親父さんが御つまみを傍らに一杯呑んで、さらに軽く食事をするには充分すぎる金額だ。

 なんだか急に興ざめしてしまったが、これも出会いなのだ、と思った。でも300NTは流石に「ぼり過ぎ」だろうと思われたので、試みに「高級なお茶がかえる金額なので、お札にそれを払うのは今の私にはちょっと無理だ。でも貴方がここを案内してくれた親切に対してなら、これを渡そう」と言いながら、(大いに値切った)50元の硬貨を手渡した。

 素早く左右を見回してポケットにコインを仕舞い込む様子が痛ましかったが、観光客を相手にして、こうして小遣い銭をせしめているのだろう。でも小悪党といった訳ではなく、ちょっとした寸借詐欺のようなもので、憎めないところがあった。

 台北では滅多に居ない類の人だろうが、やはり郊外ともなると様々な人がいるものだ。

 微笑ましくもあるが、人を騙す行為を許して、つけ上がらせてはいけない。親父さんは結構な年配の人であったが、今日のように一日の大半を寺院の門前で過ごしているのかもしれない。皆さんがカメラを手に撮影をする際にもきっと声がかかるに違いない。まあまずは、ご用心、ご用心・・・。

福祐宮(道教寺院) 道教寺院の中の様子。

並んだ祭壇にお供え物を捧げ、右手の斜め位置から入る。そして中央で拝礼。最後は左手の斜めへ抜けるのだという。

三角を作れ、
と親父さんが教えてくれたお参りの作法であった。
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 道教の寺院に入って、親父さんに導かれた祭壇でこれからの旅の幸運を私は願っていた。そして本来は誰もが自由に持ち出しできる無料のお札が2枚、私の手に残っていた。


 お札をみて、ふと思った事があった。

 ひょっとすると親父さんは実在の人物ではなく、旅の神様からの遣いであったのではなかろうか、と。神の使者として問いかけて、私の心根を試したのかも知れないな、と思った。

 私はその大切な試験に対して、セコく値切るという回答を返して、とんでもないミスを犯してしまったのかもしれなかった。だとすると、とても神の試しに及第したとは言いがたかった。


 そして門前の通りを向こう側へと渡りながら振り返った。親父さんは尚も、扉の横の定位置であろう左手側に待機していた。

 なんだか私は楽しくなって、記念にその寺院の姿をもう一枚写真に収めたのだった。

福祐宮(道教寺院)

目抜き通りの「中正路」に面して、様々な商店と並んで建っている。
福祐宮(道教寺院)
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 駅前の公園入り口あたりは大きな広場になっている。

 日中は芝生の緑が鮮やかで、眩しいほどだったが、今はもう輝いてはおらずに静かな様子だ。その芝生に、いっそ寝転んでみようと思ったが、止めにして自分撮りだけをするに留めておいた。

 折角、静かな夕暮れ時を楽しんでいる人達に、妙にはしゃいだ親父がいたら迷惑するだろう、と思ったからだ。マナーを乱してしまっては、お互いの楽しさが半減してしまう。やはり、郷に入った謙虚な姿勢は必要だろう、と私は考えたのだ。

暮れなずむ淡水 夕暮れの岸辺
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 その後も、通りにある店に立ち寄って、ここでの名物の「魚丸湯」や「蝦串」などといった様々な小吃料理や屋台モノなどを食べて夜市のエリアへと歩いていった。

 「淡水観光夜市」の街路、その両脇には革製品やアクセサリーなどを扱う多くの店舗が並ぶ。そういった若者をターゲットの中心に据えた店舗も多くて、随分と人気がある通りだった。

散歩にはもってこいの時間帯(淡水) 暮れ行く淡水河
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 混み始めは土曜日の浅草寺の境内、そしてその後に仲見世のような状態へと変わっていって、次第に密度を増していく。

 夕方の「逢魔ヶ時」と呼ばれるほんのひと時、その黄昏時から薄暗いの時分になると、さらに混雑は増していって驚くべきものとなる。

 たとえば、年末の御徒町界隈、例えば「アメ横(飴屋横丁)」の様子を思い描いて頂けば良いだろう。

残照に明るく照らし出される遊歩道。 夕暮れ迫る淡水
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 そうして淡水の夕陽を眺めて、さらに淡水夜市が開かれている街路を歩いていたら、いつの間にか月が出ていた。

 気が付けばもう18時になっているではないか、と少し慌ててしまった。名残は惜しかったが、この街を離れて一日目の宿泊先として確保した温泉のホテルへ向かう事にした。

観光夜市の様子 「淡水観光夜市」の
賑やかな様子。
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< 北投温泉(ベイトウ ウェンチュエン) へ向かう >

 今度の旅では価格を睨みながら「航空券」を手配し、合わせて「宿」も予約して、各社の「ネット予約」のシステムを利用して自分で旅程を組み立てた。それぞれの日程共にMRTの「淡水線」を中心に行動する予定で、それを考えて初日は温泉地として名高い「北投温泉(ぺイトウ)」で宿泊する事にしていた。

 この宿泊先「山水楽リゾート (山水樂會館);サンスイユエ」は、記念セールでディスカウントされていたのをネット上で見つけ、部屋も広かったし、なにより部屋風呂の写真が魅力的に掲載されていて、それがあまりにも素晴らしかったので宿泊を決めた温泉リゾートの宿だった。

駅前の公園

ここは、「淡水」站前の公園の一角。

遊歩道が続くが、奥の方にはレンタル・サイクルの大規模なステーションが作られていた。

施設は観光に力を入れる区で運営しているもの。
駅前の公園
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 「北投(ペイトウ)」の街は古くから開けた土地で、1896年以来の伝統的な歴史を持つ街だ。

 その街は「陽明山」の南斜面に向けて拓けているのだが、豊かな湯量とラジウム泉と硫黄泉という恵まれた泉質を誇る温泉街だ。台北にとっての熱海温泉のような位置を目指して開発されたという事で、大規模なホテルが公園を取り巻く主要な通りに沿って並んでいた。

 淡水での日暮れを存分に楽しんで、MRTの淡水線に乗って南側へと戻り、北投で分岐する1.2キロの支線に乗り替えて、ホテルのある「新北投」站へと向かった。

 すっかり陽が暮れてしまった事もあって、番地しか判らないホテルの所在が判り辛くて、実のところは少し迷ってしまった。

駅前方向から夜市の街区を見る 陽の落ちた後の景色もエキゾチックで素敵だ。

殊に、空の色がなんとも言えず素晴らしかった。

 街の中央には自然が溢れる美しく大きな公園が3つある。

 その一方である「北投公園」が今回の訪問地の主役だ。園内を縦貫して綺麗な川が流れている。「地熱谷」という有名な源泉地が街の上部にある。その辺りから流れはじめる川なので、水流には温泉が流れ込んでいるのだという。まるで、赤城山麓にある「尻焼き温泉」のようで、実に珍しい川だった。

 「北投公園」は大きな公園であり、駅前の広場に立って公園側を眺めると右側を「光明路」が走り、左側を「中山路」が取り巻いている。二つの通りは山側に向かう道なので通行量は少ないのだが、車線が左右相互にある広い道である。光明路側には大規模な温泉ホテルが幾つも道に沿って建ち並んでいた。日本式のおもてなしの心を届けようと、鳴り物入りで海外進出した金沢の名門旅館である「加賀屋」もそこにあった。

 そうして大型ホテルの建ち並ぶ温泉街に向かって坂道を登って行ったが、丘を登り詰めても私が泊まるべきホテルはそこには無かった・・・。 結局、公園を取り巻いて繋がった「中山路」と表示された道路までも歩いてみたのだが、やはり見つける事が出来なかった。
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< ホテルへの道のり >

 結局、公園を一周して再び駅前へと戻った私は、仕方が無いので公衆電話を見つけて、駅前からホテルへ電話を掛けて尋ねてみることにした。

 駅前は複数の道が交わる非常に大きな交差点で、もし私がレンタカーでも借りて車を運転していたら「絶対に思った方向へは一発では進めないな」と思った程の七叉路であった。夜になっていて山側が暗いこともあったのだが、駅側に立っていても交差点の向こう側がどうなっているかが良く判らない程だった。

 何人かが入れ代わって応対してくれたのだがどの人とも話が巧い具合に通じなくて、電話では埒が明かず困り果てていた。やがて打席に立った先方の最終バッターが、ついに説明を放棄して、「駐在所を探せ」と言い出した。

 市内通話はNT1枚が基本だが、7枚ほどを費やしてもう小銭がなくなってしまった。仕方なく電話を切り、指示に従って交番を探すことにした。

 彼女が言った「交番(POLICE BOX)」はその辺りには無かったが、女子大生と思しき信号待ちの人に尋ねると「警察署(POLICE STATION)が交差点の先にあるが・・・」との事で、スクーターが猛烈な勢いで走り去る広い交差点の道路を2回渡って、その警察署に入ってホテルへの道を尋ねた。


 WEB上での予約ページの確認時、私の儚い記憶の中では、目指すホテルは光明路の脇にあったはずで、その事はメモに採ってあった。けれど、駅前の7叉路のうちの3本が同じ「光明路」なのだとは、迂闊にも警察署に行くまではまるで気付いていなかったのだ。

 ホテルの名前を書いたメモを差し出して番地を告げると、窓口に居た警官が地図を出して、この辺りだと示して教えてくれた。

 どうやら「泉源路」という通り沿いにあるらしく、警察署の前の道(泉源路)を私は登り始めた。その道は細い車線区分のない薄暗い道路であり、そうした道を歩くのは少し不安でもあった。しかも辺りはやがて住宅街になり始め人通りもすっかり絶えてしまった。

新北投への支線(車内) 新北投への支線(車内)
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 しかし私は諦めずに山側へ向かって伸びる道路をホテルを求めて登っていった。

 途中で温泉リゾートの大きなホテルへの入り口らしい道があったが、真っ暗であり、しかもどうやら違うホテルのようだった。そうやって探したのだが、道路を丘の上まで歩き詰めても目指すホテルは見つからなかった。

 しかも道の周りに続いていた家並みはすっかり少なくなり、しかも通りの幅も狭まって来た。さらに暗くなって先へと道は続いていたのだが、「いや、もうこの先には何もあるまい」と思われた。気が付くとそう声を出して、私は独り言を呟いていた。かなり不安感で一杯だった様だ。

車内に据えられた情報端末 支線の車両には、ユーモラスな風呂桶が付いていた。
テーブルなのだが、上部の表面には指示ボタンが付いていた。
実はこの仕掛け、「北投温泉」に関する情報端末のディスプレイ台であった。
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< エピソード1 旅の幸せ ;温かい思い遣り >

 坂道の先にポツンと現れたコンビニ店 ―大手のチェーンではなく、地元の酒屋さんが元になって店を始めた様な雰囲気の店舗だった― へ入り、そこで缶ビールを買ってホテルへの道を尋ねた。

 だがホテルの所在は判らず、そのレジ係りの人がわざわざ店の前に出て、丘を登って、通りを丁度歩いて来た知り合いと思しき主婦に声を掛けてくれた。彼女達は中国語で何度か話を交わしていたが、しかし、地元の人と想われる通行人の主婦の知識を持ってしても、結局判らずじまいだった。

 本当は「文殊の知恵」になったのだろうが、中国語の出来ない私は残念ながら寄り集まった人数の内には入れずにいた。

 時間を割いてくれた優しいお二人に丁重にお礼を言って店を去り、丘の上まで登って来た道を、仕方がないので今度は下界へ向かって戻り始めたのだった。

 少し降りた場所にクリーニング店があり、丁度良い具合に店の人が外で煙草を吸っていた。すかさずホテル名と住所を書いたメモを見せて道を尋ねてみると「この裏にホテルがあるが、しかし名前が違う」という答えが返ってきた。

 そしてその人もまた、道を歩く人に声を掛けて親切のリレーをしてくれた。

 今度の人は私と同年輩と思われる温厚そうな男性で、普通に英語が話せる親切な方だった。彼はポケットから自分の携帯電話を取り出してネットで検索をしてホテルを探してくれたのだった。

車両はすべてオールペイントのディスプレイ車 デコレーションされた車体(全車両がペイント状態)
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 スマートフォンの普及は凄くて、この土地(新北投)は台北市の郊外なのだが、誰もが持ち歩いている。使い慣れた様子で手早く文字を指定して検索し、出てきた地図で何度か場所を確認すると道を説明し始めたのだった。

 しかし、ホテルへの道のりは少し複雑で土地勘の無い私がたどり着くのは難しいと心配して下さったのだろう。

 「私が案内するから付いて来てくれ」と言って丘を降り始めた。私は感謝してその人の背中を追って丘を下って行ったのだが、思えばその人は丘を登って歩いて来たところだった。丘の上に用事があった筈だった。


 暗い通りを歩き降りながら、私は次第に温かい気持ちになってきた。

 先のコンビニ店員さんや通りすがりの主婦、クリーニング店の親父さん、それにこの紳士への感謝の気持ちで胸がいっぱいになりはじめていた。

泉源路を進む 宿泊したホテル(山水楽会館)
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 丘の中腹にある大きなマンションの横まで来ると、その人は「ここでそのまま待っていてくれ」と言い残して、そのビルの中に消えて行った。

 程なくして、大きな自家用車がビル下の駐車場から道へと出てきた。助手席の窓が開き、「乗ってくれ」と声が掛かった。どうやらその紳士は駐車してある自分の車をわざわざ取り出して、不案内な私をホテルまで送り届けてくれるつもりらしい。

 例の大きな交差点まで丘を降りてくる途中で改めてお礼を言い、そして「台湾の人の優しい気持ちに触れ、特にあなたのような方に会えた事を嬉しく思っています」と話した。すると、その紳士は「いいや、それは気にしなくていい。なぜなら、私達は古い友人同士なのだから」と言い「当然の事をしているだけだよ」と優しく笑った。

 その言葉を聴いて私は堪らなくなり、危うく涙が流れそうになってしまった。やっとの事でそれを我慢して助手席に座っていたら、程なく、ホテルの前に車が着いた。

 彼は再び笑顔になって「是非、私達の台湾を楽しんでください」と言いながら窓から手を差し出した。その手はとても温かく、握手は力強いものだった。

 そうやって、私は多くの親切に導かれて目的とするホテルへと辿り着くことが出来たのだった。

ホテルのパティオ ホテルのパティオ
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< ホテルへたどり着く >

 着いたホテルは2つの別の建物からなり、つまりはそれぞれ独立したふたつの名前を持っている状態だった。しかもどちらもが私が予約した「じゃらん」のWebページの記載とは名前が違っていたのだった。

 ・・・予約ページに記載されていた「山楽温泉会館」という名前のホテルではなく、なんと「山楽温泉」と「山水楽会館」(楽と会の文字は「樂」「會」の文字。本来は旧字体である)というのが本来のホテルの名称だった。そして私が予約したのは「山水楽会館」のほうだった。


 ホテルのチェック・イン カウンターの担当者は電話口の人たちと違って二人ともが男性だったが、やはり英語が余り得意ではなく、説明の途中で遂に行き詰まってしまった。

 丁度、歳若い女性に手を引かれた老婦人が私の後ろにいて、ホテルマンと中国語で何事かを話し始めた。そして流暢な日本語で私にシステムの説明を始めた。ロビーから私達のやり取りを見かけたのだろう。彼女は通訳を買って出てくれたのだ。


 部屋の風呂はいつでも蛇口を捻れば天然の温泉が出るが、湯船が大きいのでお湯を張るのにかなりの時間が掛かるという事。

 ホテル内には部屋の風呂とは別に共同の大浴場、それに露店風呂があるので、そこでも温泉を楽しめるという事。さらに、2枚のチケットを渡されたのだが、チャージ・フリーになっている朝食のサービス券ともう一枚が温泉への「入浴券」だった。

 公園の上部にある露天風呂を持った大きな共同浴場へ入るための利用券という事だった。入浴には水着は不要であるが、鍵が必要で、そこに行く際にはフロントで券を示せば引き換えに入場用の鍵を渡してくれる、という話だった。

 その共同浴場は観光用ではなく地元の人のためのものらしく、入浴には厳しいルールがある。だから、そこの係員の指示に従って下さい、ということだった。

チェックイン ふと知り合ったご婦人とお孫さん
(ホテルのフロントにて)
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< エピソード2 旅の幸せ ;楽しい出会い >

 老婦人は高雄(台湾の中部地域)に住んでいらっしゃるそうで、年に一度、お孫さんに伴われてこの温泉に来て泊まるのを楽しみにして台北へと旅して来るのだという。

 彼女はそれを「湯治;とうじ に来た」と言っていた。明治生まれの私の祖母が毎年飽く事無く続けていたし、大正生まれの叔母が先年まで沢渡(さわたり)温泉や四万(しま)や草津(くさつ)に湯治に行っていたのと同じ、昔ながらの習慣だ。

 「今はこちらの方が永くなったが、千葉の市川に30年間暮らしていたのよ。主人が日本の人なの」と笑顔を浮かべて日本語で説明してくださった。想像するに、統治時代に日本に渡って暮らし、そこで結婚して家庭を築き、戦後台湾へ戻った方なのだろう。「これは、私の孫です」といって横に居た綺麗な娘さんを紹介してくださった。

 「お気に入り」だというお嬢さんは、確かに孫には違いないが、実は「私の可愛いお嫁さん」なのだという。

 「ひとりで台湾旅行なんて、エライわね」と昔は良く耳にした美しい東京言葉で、久しぶりに会った親戚の子供に対するように優しく褒めて下さったりもした。

部屋内の温泉風呂 温泉風呂
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 「東京からいらしたの?」という質問に私は自分の住まいの事をお話して、そして都内への通勤の事を説明した。その距離に対する所要時間が判るまいと思われたからだ。

 「ああ、埼玉なら何度か行った事があるわ。もう随分昔の事だけれど・・」と昔を思い出す表情で話してくださった。市川もさいたまも随分と昔とは変わって、今は大きな都会なのですよ、と最近の様子を説明した。

 「今日は何処に行って来たの?」との質問に淡水の話をした。「そう。淡水の景色は美しかった?」

 そこでの景色が美しかった事、食べた肉包(中華肉まん)が素晴らしく美味しかった事、そして夕暮れの街を歩いてきた事を話したが、その話を聞きながら、終始笑顔を絶やさずに静かに頷かれていた。

 「何時まで台湾にいるの?」などといった話から「次に来る時には、是非高雄へおいでなさい。台北には無いものが高雄には沢山あるから、きっと気に入ると思うわよ」と、話を結んだ。

ミネラルウォーターは必需品 このホテル。実に素晴らしく、大層気に入ってしまった。

部屋はかなりの広さ(10畳ほどもあっただろうか)がとってあり、本当にゆったりとしていたし、しかも部屋には温泉風呂が付いていたのだった。

お風呂場(トイレと洗面所と脱衣所がセットになっていた)だけで6畳近くある広さなのだ。

なにせ湯船だけで2畳ほどの広さを持っていて、横になってゆったりとお湯に浸かれたのは嬉しい事だった。

 話題の中身は世間話であり、しかもほんの少しの間だけの話だった訳だが、このご婦人や20代後半らしいお孫さん、二人のゆったりとした人柄が偲ばれた。

 言い知れぬ苦労を重ねて来たのだろうが、それをしなやかに包み込んだ笑顔が実に素敵で、本当に温かい心根の人達だった。私の心は今日一日の後半で出会った何人かの北投の人達のことで一杯に満たされてきた。。

 宿に着いたばかりでまだ有名な泉質の温泉には浸かっていないが、出逢った人達の親切な思いやりによって、もう充分に温められていたのだった。

 私は部屋へと案内されながら、幸せな旅の始まりを想っていた。
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