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2013.10.17
旅にしあれば・・・、ふたたび (台湾 第3日目 午前; 圓山  「敬虔な祈りの姿」)

旅程;2013年10月15日より 3泊4日間


旅の第三日目;
  歩行数と距離; 22,091歩 14.3Km

滞在地;
  圓山站;孔子廟 ― 台北車站 ― 士林站;士林官邸 ― 台大醫院站;台大病院  ;遼寧街夜市  宿泊:国王大飯店


カメラ;
 RICOH CAPLIO GX100  (画像添付時に約20%に圧縮)
 PENTAX K7

レンズ;
 PENTAX FA20−35mm F4.0 AL
 PENTAX DA50−200mm F4.0 ED
 PENTAX FA50mm F2.8 マクロ


 台北の街を訪れて今日で3日目。とうとうこの旅も大詰めに向かいつつあった。

 相変わらず、このエキゾチックな街の中を足を棒にして毎日熱心に歩いているが、今日も是非見学したいと思う目的地があった。昨日、北投公園で知り合いになった同好の士―今ではすっかり心酔した人物で、彼はスケッチの導師であった―が勧めてくれた、霊廟へ行くつもりだ。

 「台北 孔子廟」として名高い神聖な場所であり、さらに隣には医療の神様を祀った聖地がある。孔子といえば儒教の祖であるが、儒教は東アジア(中国、韓国、日本)の文化をになった中心思想といえよう。中国や韓国では国学として尊ばれ、日本においては近世(江戸時代)を彩った政治思想であった。

 建ち並ぶ学問の祖と医療の神を祀った両方の廟舎は、ともに大切にされている。そして今もなお、信仰の対象としてお参りする人達が絶えない名所であった。

「園山(円山)」站前のパビリオン 園山站 (円山駅)前
の様子

「花の博覧会」が開催されていた。
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 さて、それではここで確認の意味を込めて、台北市を南北に縦貫する鉄道路の「淡水線」を中心に据えた、今回の旅の目的地をまとめておこう。

朝〜午前 正午〜午後 (〜15:00) 午後〜夕刻 (〜18:00) 夜 18:00〜
一日目 成田国際空港 桃園国際空港 淡水站;淡水老街 北投温泉
二日目 新北投站;北投公園 東門站;永康街、森林公園 中山站;南京東路 寧夏路夜市
三日目 圓山站;孔子廟 台北車站 - 士林站;士林官邸 台大醫院站;台大病院 遼寧街夜市
四日目 台大醫院站;ニニ八公園 中山站;南京東路 桃園国際空港 成田国際空港

 *このページでは、旅の三日目午前の様子をご紹介する。 歩行数と距離;22,091歩 14.3Km

・ 台北の旅景色

 今回の旅行、1日目の様子は
  ・ のんびり 行こうよ: < 2013.10.15; 台湾の旅(淡水・北投; 「嬉しい出会い」) >

 2日目の様子は
  ・ のんびり 行こうよ: < 2013.10.16; 台湾の旅(午前; 北投 「力強い心」) >
  ・ のんびり 行こうよ: < 2013.10.16; 台湾の旅(午後; 永康街 「優しさの中身」) >

 3日目の様子は
  ・ のんびり 行こうよ: < 2013.10.17; 台湾の旅(昼; 中山 「食を知れば・・・」) >
  ・ のんびり 行こうよ: < 2013.10.17; 台湾の旅(午後; 士林 「旨いもの、見つけた」) >

 4日目の様子は
  ・ のんびり 行こうよ: < 2013.10.18; 台湾の旅(午前; 台大醫院 「麗しの島」) >

 台北でのスケッチ;
  ・ <旅行でのスケッチ;台湾旅行でのスケッチ その2>

「園山(円山)」站周辺 「園山(円山)」站周辺
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3日目;歩行距離 22,091歩 14.3Km

< 3日目の予定 >

 相変わらず道路には多くのスクーターが満ち溢れている。しかし前回はまるで見かけなかった自転車が、今は驚くほど走っている。これは大きな驚きだった。3.11以降のエコ回帰の指向の中で、自転車の利用が大きく増えた日本の影響もあるのかな、と思った。

 母親の後に続く少年が歩道を走り去っていた僅かその2台だけしか6年前には目にしなかったのだ。けれども今では、郊外の「淡水(タンシュエ)」や「士林(シーリン)」でも、そして台北市街中心部でも、実に多くの自転車が走っていた。

 そうした変化を喜びながら、私は精力的に市街地を歩きまわっていた。

 さて3日目の目的地であるが、これは日本を出発する前に決めてあった。台北の北にある「士林(シーリン)」の街へ行って、そこで一日を過ごそうと予定していた。

 山間にある「故宮博物院」を尋ねて中華の至宝を愉しもう、と思っていたのだ。そしてその後は、士林の中心街に戻り、そこを歩いて旨いものを見つけて食べる。それが予定していた内容だった。

 故宮は増築を繰り返されていて、前回観た展示エリアだけでなく、さらに展示が拡張されていた。だから未見の増築部分の収納物を見学するのが、今回の目的だった。

 そしてお持ちかねの旨い物探し。夜市まで頑張るかどうかは決めていなかったが、士林の屋台物を愉しもう、という計画だった。

コンビニ前のガチャポン 庫倫街のビル脇の歩道

庫倫街のビル脇の歩道(アーケード)の様子
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< 士林行きの予定を変えて圓山站で「孔子廟」に詣でる >

 そもそも古美術品(陶器や彫刻や絵画や書)が好きな私にとって、「故宮博物院」へ行く事は今回の旅での主要な目的のひとつだったので、あらかじめ2日間に渡る見学計画を立てていた。

 以前訪れていた従来からの展示エリアを2日目(昨日)の午後に復習し、そして新しい未見のエリアの展示物を3日目(今日)の午前中に観て回ろうと思っていたのだ。けれど昨日は、嬉しい想定外の出来事が何かと重なって、ついに故宮へ行くことが出来なくなってしまっていた。

 だから故宮の広範な展示物を見学するのは、今日の一日だけの事になってしまうのだった。でも結局、皺寄せとなったその予定も、少し変えてしまう事にした。

 つまり、午前中は「圓山(円山)」站にある「台北孔廟(孔子廟)」や「保安宮(保生大帝廟)」を訪ねることにしたのだった。先にも書いたとおり、導師の言葉に動かされた事もあって、私は是非その聖なる区画を訪ねてみたい衝動に駈られていた。

 だから、ホテルのある中山から淡水線へ乗り込んで、この「圓山(円山)」站へとやって来たのだった。

庫倫街の自動車関連の店舗

庫倫街の自動車関連の店舗
庫倫街の自動車関連の店舗
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 しかしこの辺りは、なんの事はない、1日目に桃園国際空港から台北市内へと向かう高速バス「国光号」を降りた場所だった。

 「庫倫街(クリンジエ)」入り口から街路を通り抜けた先に、「孔子廟(コンツーミャオ)」や「保安宮(バウアンゴン)」が建っている静かな街区「大龍〇(ダーロントン;トンの文字は山偏に同の文字)」があった。

 台北の中心部へと続く大路の「承徳路」から2街区ほど西へ寄った場所で、住宅街と言ってもよいような地域にその広大な廟(お宮)はあった。考えてみれば、そこなら旅行の初日でも充分に立ち寄れたのだった。

庫倫街の自動車関連の店舗

庫倫街の街並みには、車関係の店舗が多い。

街路の両脇には6階ほどの住居のビルが建ち並んでいるが、その1階部分が店舗とアーケードになっている。

茶店や食べ物屋などの普通の店もあるが、同じ並びに整備場や洗車場がある。部品屋さんや、カーオーディオ店、改装専門店なども並んでいる。
大龍街の入り口

東西の「庫倫街」に直交するのが「大龍街」。

南北の道路に沿ったこちらは、ちょっと裏通りの雰囲気が溢れる。
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< 人気屋台の「炸蛋餅(ザーダンピン)」を食べる >

 朝早い時刻にこの街へやって来たのが幸いして、地元の人達の出勤風景に出会うことが出来た。やはり昔の人達は偉大だった。「早起きは三文の徳」という身に沁みる有難い格言を残してくれたのだから。まさに早起きしたことで得られるものは実に多く、人として大切な経験を重ねることが出来る。


 古い街の街路に沿って並ぶ屋台に、実に多くの人々が集まっていた。

 服装から見てとると、いずれもこの辺りに住む工員さん達なのだろう。食べ終わるとそのまま急ぎ足で去っていくところを見ると、どうやらそのまま仕事に向かうように思われた。あるいは出勤していく人達ではなく、他の土地からやって来て、車関係の様々な店が建ち並ぶ直ぐ隣の庫倫街で働いている人達なのかもしれない。

 沢山の人が取り付いていたり、並んでいたりする一際目を惹いた店があった。多くの人がやって来ては焼き上がりを待って、品物を受け取るとそのまま立ち去っていく。

 これ程に人気を集めている屋台で調理されているものが、不味かろうはずが無い、と思われた。

孔子廟の外壁に書かれた「萬仞宮牆」の文字

論語に曰く。
夫子之牆數仞
不得其門而入
不見宗廟之美
百官之富
得其門者或寡矣

の言葉を僅か四文字の熟語として表したものだそうだ。
孔子廟の外壁
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大龍街 炸蛋餅(ザーダンピン)

炸蛋餅(ザーダンピン)

 焼くと書いたが、よく見るとそうではなく、1分ほど油の鍋に沈めてから取り出して、良く油を切る。そのまま紙に入れ、塩を振っていた。親父さんが手渡してくれるのは四角の紙袋だけでなく、さらにビニール袋にも入れてくれるので、手に油が付く事がない。買ったその場で、熱い状態のまますぐに食べる事が出来る状態だった。

 何人かが並んでいた「揚げ物」の屋台の行列に私も並んだ。一枚買い求め、直ぐに食べてみた。これがもう、何ともいえない絶品だった。前日の「寧夏路夜市(ニンシャー・イエスー)」の夜市で食べた諸々の品物も素晴らしかったが、この「炸蛋餅(ザーダンピン)」もまさに「逸品」といえるものだった。

 葱と卵と小麦粉が原料だが、日本で食べる「葱焼き」とは少し違った完成度を持っていた。程よい具合の塩味が付けられて、そのままで熱々の状態を頬張ると、じわりと堪らない旨味が広がる。つまり、台北の気温に良く合っていて、実に按配がいい品物なのだった。

 言うまでもないことだが、こうしたデープな世界に触れた事もあって「大龍街」の通りは、大好きな場所のひとつになった。

炸蛋餅(ザーダンピン) 炸蛋餅(ザーダンピン)

炸蛋餅(ザーダンピン)
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 通りは、集客のために計算・設計された観光夜市ではなく、地元の人々が楽しむために自然発生した商圏であった。通りの名は「大龍街(ダーロンジエ)」というのだが、この一廓はまた「酒泉街」でもあり、一帯を「大龍街(ダーロンジエ)商圏」と呼ぶらしい。

 広くない通りの両側には多彩な食べ物屋さんが固定店舗として建ち並んでいて、そうした様々な食堂を覗きながら歩く事が出来る楽しい場所だった。しかし、中山地区やこの通りに直交して東西に続く庫倫街などと違って街路には歩道が無く、あるのは建ち並ぶビルの軒に設えられた例の歩道(アーケード)だけだった。

 だから身の安全を確保しようとして、軒下で一段高くなって確保された歩道部分を歩くのだが、ここがまた、店の商品が歩道上に飛び出していたり、食材のダンボールが所狭しと積まれていたり、場合によってはテーブルと椅子が並んで店舗化していたり、といった状態。いかにもアーケード部分が雑然としていて、歩き辛かった。

 車道を通る車が少ないので、まだ助かるのだけれど、これが交通量の多い状態であったらけっこう疲れる事だろう。車道の脇には屋台が並んでいるから、実際には歩道幅分に相当する面積程度分は車道が塞がれた状態になってしまっている。さぞや車にとっては走り辛い事だろう。

 その上さらに、どの屋台の丸椅子にも人が腰掛けている。車道側だろうがお構いなしに椅子に腰掛けているので、かなり危ない状態になっている。結局、車側が遠慮をしているようだった。この道路を通行する車が少ないのは、運転者の思い遣りの賜物に違いない。

大龍街のアーケード 鍋貼餃子「八方雲集」

鍋貼餃子のチェーン店 「八方雲集」
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< ステンレスの食器を「10元均一の店」で買う >

 屋台物の「炸蛋餅(ザーダンピン)」を食べながら、その商店街路を歩いてみたら、日本の百円均一店と同じ類の楽しい店舗を見つけた。

 中山(站)地区に出店している「ダイソー」のような日本にあるチェーン系列ではなく、台湾ローカルと思われる店だ。ただしまったくの独立店という訳ではなく、おそらくはチェーン店であろうと思われた。

 看板には何と「どれも10元!」などと勇ましく書かれている。そこは「100円均一」を遥かに凌ぐ「30円均一」の店なのだった。

 税込み現地価格で10NT(元)の商品が基本になって、しかし多くは30NT程度の品物が所狭しと並べられていた。店の前のビルのアーケード部分でさえも、大きな荷台に商品が積まれて店舗と化してしまっている。そうして置かれた物の多くは確かに10NTを基本とはしているのだけれど、気を惹かれる面白そうな商品になるとやはり少し値段が張るようだ。50NTであったり、65NTであったり・・・。しかしそうは言っても、どれも皆、充分な安価が付けられて並んでいる。


 ところで、話は変わるが台湾の人は非常に清潔好きな人達だと思う。

 なぜなら、私が立ち寄った食べ物屋さんでは、店舗据付の食器類がステンレス製であることが多かったからだ。箸やフォークといった食器の類だけでなく、お椀やスープ皿、さらにレンゲなど、その悉くがステンレス製品なのだ。

 こうした嗜好があるためなのだろう。好みの姿を持った陶器では無く、実利一本槍の性能?を目指した銀色に磨かれたステンレス食器が様々に用意されて、所狭しと百均店の棚上に並んでいたのだった。

 折角なのでこの際私も買っておく事にした。少し大きな汁茶碗といったものと、小どんぶりといった類の大きさのステンレス食器を買うことにした。

10元均一店での収穫品 10元均一店での収穫品

10元均一店での収穫品(価格は税抜き50NT)
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 双方がダブル・ウォールの「真空中空の構造」を持っていて、これだと中に盛った料理が冷めてしまうのを防げ、温かい状態のままに美味しく頂けそうだった。

 いや、それらの値段が50NTや65NTであったことを思えば、真空などではなく、只の「中空」なだけという事なのかも知れない。

 例えば、国内でのダブル・ウォールのステンレス食器の銘柄はというと、日本酸素やパール金属といった大手メーカーのモノが有名で、他には何社も開発していないのではなかろうか。せいぜいで2社や3社といった程度で、多数の会社が市場に参入して、競争の元に果たして製造しているのかどうか。完全な寡占状態にあるのではなかろうか。

 しかもそれらは携帯用の保温ポットなどが主流だと思われる。

 「食器」といえばコーヒー・カップやビール・グラス位しか製品化されていないのではなかろうか。温かいままで食べられる丼や汁物が冷めないお椀といった類の保温食器を作っているような国内メーカーが存在するのかどうか。

 残念ながら携帯用の食物容器以外の、いわゆる食器の類を私は見かけたことがなかった。

10元均一店での収穫品

10元均一店での収穫品(価格は税抜き50NT)
看板に注目;10元均一店
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孔子廟への入り口「黄門」 孔子廟の入り口
「黄門」

< 台北孔子廟の歴史的背景 >

 ステンレスの食器を買って手持ちの荷物が増えてしまったが、そもそも圓山(円山)へ来た目的は、朝の屋台でのB級グルメを満喫する為でも百均での買い物の為でもなかった。気に入った食器が買えたことですっかり気を良くしてしまって、危うく本分を忘れてしまうところだった。

 この街へ来たのは他でもない、北投公園でめぐり会って知り合いになった導師に勧められた「孔子廟」を、私もスケッチ・ブックに残したいと思ったからだった。

 「孔子廟(コンツーミャオ)」といえば、湯島聖堂が御茶ノ水(湯島)駅からの対岸にあるが、それと同じく儒教の祖であり聖人と崇められている孔子様を祀ったものである。学問(文字)の神として大きく敬われ、台湾の地では今も大きく信仰を集めている。

 この広大かつ壮麗な廟の建設が始められたのは江戸から比べればかなり新しく、1875年の事になる。その後10年の歳月を掛けて1884年に完成したのだと言う。しかし、1894年に「日清戦争」が勃発し、戦利として台湾全島を割譲させた日本は、廟を破壊してその敷地を日本人学校にしてしまう。

 ところがその後に市民の間から再興運動が起こるのだった。しかもそれは、驚くべき事なのだが、「第二次世界大戦」を控えた微妙な時期に、であった。ちなみに第二次世界大戦は1939年の独軍のポーランド侵攻から1945年のポツダム宣言の受諾による日本敗戦で終結したが、日本の大戦への参戦は1941年の事だった。

 1920年代になると孔子廟復興の動きが台北市民の間に広がり、中国大陸から寺院建築家を招聘した上で建設を続けて1939年に「曲阜(ぎょくふ)本廟の建築様式」を盛った現在の孔子廟が完成したのだという。

 大陸(山東省)にある曲阜の地こそが、孔子廟の本流であった。孔子門下を代表する4人の高弟の出身地もまた、曲阜であった。

孔子廟 「櫺星門」 孔子廟
「櫺星門(れいせい)」
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 他のページでも書いているので繰り返しになるが、日本統治領であった時代の台湾は「外地」と呼ばれた日本領土であった。市民は政治家や法律家にはなれないといった制限を加えられつつも、当然の事ながら日本語を読み書きする日本国民であった。

 50年に渡る統治の当初から初等教育を敷いて日本語と日本文化を教化したのだが、その政策のために台湾の教育水準は東アジアの中にあって群を抜いたものとなる。

 台湾の秀才達は陸軍大学校や海軍兵学校へは入学できなかったが、帝国大学などを始めとした内地にある一般の各大学へは入学を許された。

 今では東大法学部が文系の最上位校であるが、軍国主義体制と呼ばれつつあった当時の日本にあっては、町一番や村一番など地域最高と謳われた秀才、俊優と呼ばれる程に将来を嘱望された文系の学生達が教師から推薦され、自らも目指したのが軍大学の2校だったのだ。

 そうした中で台湾出身者は、法学部への進学は制限されたので、多くの優秀な人材は医学や教育、或いは理系の分野を目指したのだった。


 以下は余談なのだが、時代背景と言ってもいいかもしれない前提を理解しておかないと、明治後期から大正に掛けての日本の動きを読み誤ってしまう。

 維新後の富国強兵の体制下から見事に近代化を成し遂げて、主要国の一員として認められようとしていた当時の日本が置かれた世界情勢は、まさに「帝国主義」が台頭していた時代であった。

 うっかりしていたら、アジアの老大国である清国同様に、欧米列強によって植民地化されてしまう危うさが満ちていた。対外的に虚勢を張っても、国是として自らの地位を強い姿勢で示して、勝ち取った利権を守り抜く必要があった。

 そして、そのための社会的な要請として、エリートを軍に集中させる必要が当時の日本にはあったのだ。

 良い悪いという価値判断や事の是非はひとまず置いて、そういった時代背景を理解しないと読み解けない歴史もある。当時の市民感覚もまた、現代とはまるで違う種類のものだった事だろうと想像する必要があろう。

孔子廟 「櫺星門」 孔子廟 「櫺星門」

孔子廟 「櫺星門(れいせいもん)」
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孔子廟 「櫺星門」

まだ、門だというのに・・・。
孔子廟「儀門(ぎもん)」

< 「孔子廟」建設当時の日本を取り巻く情勢 (アジア史的な背景) >

 日本が採った統治政策とも相まって台湾での市民における文化的な水準は非常に高かった。だから、彼ら台北市民が文化的意識においても同様に高いレベルにあった事は容易に想像ができる。

 廟を復興する市民運動が行われた当時は、まさに日本軍が台頭し始めた時期であろう。米英諸国への宣戦布告、つまり日中戦争から戦線を拡大して世界大戦へと日本が軍部の独走に押し切られる形で参戦したのは1941年の話だから、廟が完成した39年と言えば、まさに戦争準備に入る事が現実味を帯び始めた時期と一致する。

 参謀本部を主体とする謀略によって火蓋を切られた日中戦争は何時果てるとも知れず、軍は独自に戦線を拡大し続けていて、早くも泥沼化しつつあった。

孔子廟「儀門(ぎもん)」 孔子廟
 「儀門(ぎもん)」
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孔子廟 儀門脇の東廡(とうぶ) 孔子廟 「儀門」

何故、孔子廟 「儀門」に和太鼓がすえられているのだろうか?

門のところにいる現地の方は、尺八の練習をしていた。
素晴らしく上手な方だった。

 経済的に追い詰められていって、欧米に対して戦端を開かざるを得なかったのは、昭和の大恐慌が世界規模で吹き荒れたせいばかりとはいえないと私は思っている。日露、日清と重なった戦費、国力の疲弊からの完全な回復を待たぬまにさらに日中戦争を始めた陸軍参謀本部の責任は極めて重いものがあろう。

 物資流通や消費などの統制が行われるのはずっと後になるから開戦前や開戦当初はまだ経済にも市民生活にも余裕があったのだろうが、建設諸般に関わる費用は莫大な金額に登ったはずだ。

 しかも廟を寺院と同一に扱ったのだろうが、中華思想の根幹を成す「儒教」の聖人を祀ったものである。市民運動のシンボルになりかねない統治者側にとってはきわどい建造物と捉える事もできる。

孔子廟 大成殿 孔子廟 「大成殿」

この広大な孔子廟の
運営主体は台北政府。

維持管理、運営や
盛大な孔子節で執り行われるの祭典などは、すべて台北市の管轄下にある。

「孔子節」は9月28日におこなわれ、台北市長が祭管長を務めるそうだ。

古代中国の宮廷衣装に身を包んだ人々が、伝統の雅楽と踊りを奉納する盛大なものだと言う。
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 詳細な事情が判らないから何ともいえないが、よく建設や公開が許されたものだと思う。

 欧米各国による輸出規制(各産業資源の禁輸措置)が厳しく行われ、軍部台頭を許した上に、大陸への侵攻姿勢を取り続ける日本に対して、国際圧力が日々増していった時勢にある。そうした外圧を弾き返そうと軍部の勢力が大きくなって誰もが抗し難くなったその最盛期、しかも日中戦争の最中に廟が完成したという事が、俄かには信じられなかった。

 ちなみに「日中戦争」とは、「盧溝橋」での爆破事件を切っ掛けとした「支那事変」の発生から2年後の1941年、蒋介石の重慶政府が日本へ宣戦を布告したことで、そこから太平洋戦争までの時期を括って呼ぶものだ。

孔子廟の回廊部分

孔子廟の回廊部分。

「大成殿」を取り囲む「西廡」(さいぶ)。(大成殿を挟んだ反対側は東廡)
各時代の漢字書体が展示されていた
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 孔子廟を描いた導師の素晴らしいスケッチ画に触発されて、私もまた屹立する屋根の端を含めた荘厳な門の様子や、重厚華麗な廟舎の姿をスケッチ・ブックに残したいと思っていた。そこで、早朝からこの街へと足を伸ばしたのだった。

 屋台店でのエナジー・チャージを果たした事もあって、ゆったりとした気分でモチーフへ対峙する事ができたようだ。

 広い敷地で、目を惹く建物が色々とあるが、まずは孔子廟の南西入口にある「黄門」をスケッチする事にした。

孔子廟「大成殿」の見事な彫刻(装飾)

孔子廟の見事な彫刻(装飾)

「大成殿」の梁の部分は、物語の絵巻が彫刻で仕上げられていた。
天然色の彩色が施されている。
孔子廟「大成殿」の見事な彫刻(装飾)

 礼門を潜ればいよいよ廟舎へと続く「櫺星門」がある。これが内陣への入り口になっている。その堂々としたスケールたるや、湯島を大きく上回っている。荘厳な空気に包まれて、その雰囲気に心が引き締まる思いがした。さらに「東廡、西廡」を両脇に据えた「儀門」があり、これが回廊を形作っている。

 それらの二つに続く大きな門を潜ると、眼前には孔子と高弟である四配(東に顔子・子思、西に曽子・孟子 子思は孔子の孫)、それに十二哲の牌位が祀られている「大成殿」が静かに聳えていた。
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 大龍街をブラブラして、「孔子廟」ではのんびりとスケッチして愉しんだ。「儀門」を抜けて「櫺星門」へ向かい、外に出ようと思った時のことだった。

 巨大な門の外に聳えた大きな樹木の根の近くで、何かさっと動いた。注意してジッと見詰め直したが、何もいなかった。すると今度は幹から出た太い枝の所で動物の気配がした。

 最初は台湾でよく見かける猫かなあ、と思った。けれどそれは猫ではなかった。

孔子廟「櫺星門」の見事な彫刻(装飾) 孔子廟「櫺星門」の屋根の様子
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 猫と同じ位の大きさだが、少しスリムで尾が太かった。機敏に動く、可愛らしい野生の小動物だった。

 私は慌ててカメラを用意して、何枚か続けて彼女の姿を写した。いったい何だろう、と思った。それはリス? いや、リスであるなら大宮自然公園に観察園(のんびり 行こうよ: <2009.11.23 大宮 「市民の森」 の秋> )があるから馴染みがあった。ちょっと彼女達とは様子が違うようだ。では、いったい何だろう?

 或いはテン? それとも茶色いオコジョか、いや、それはあるまい・・・。雪から覗く白い体毛の姿しか見たことがなく、夏場の様子が判らないが、もしオコジョなのであれば、こんな温暖な地方に生息できはしまい。では、いったい何だろう。

 しばらく敏捷に動く小動物を眺めていたが、思い直してそこを出た。

機敏に奔る「松鼠」 機敏に奔る「松鼠」
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< エピソード11  保安宮 「保生大帝」廟へ詣でる >

 そして道の西横に並んでいる保生大帝が祀られている「保安宮」へと向かった。医療分野で先端をいく台湾らしく、そこは医療の神様が祀られた場所だった。先に日本統治時代の事を書いたが、学問の神の隣に医療の神という図式が、いかにも台湾らしかった。

 1742年に建立された保安宮は、1804年に拡張が計画され1830年にようやく完成したのだという。

 1742年と言えば、当時の日本は江戸時代(元号は「寛保」)であった。寛保2年(1742年)に江戸の街は折からの関東地方での豪雨と江戸湾の高潮に見舞われた。

 利根川や荒川や多摩川が決壊し、本所や浅草一帯だけで900名が亡くなるような大洪水に見舞われたという災害が発生したのが、丁度同じ年だった。(「寛保の大洪水」)

黄門 タイガーバーム園の様

まるで、香港のタイガーバーム園のよう。
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保生大帝が祀られている「保安宮」の虎門 保生大帝が祀られている「保安宮」の大門

こちらは「虎門」

 しかし日本統治時代になって取り壊された孔子廟と同じように、この「保安宮」も学校として使われたり、大戦後は大陸から島へやって来た国民軍や移民の住居として使われ、次第に荒れ果てて行く。

 孔子廟には門と内陣や講堂のような建屋があって、寺院のように共通となる基本様式があるようだが、こちらも同じように門の内側が回廊式の建屋になっていて、その中央に廟舎が建っていた。そして孔子廟の東廡(とうぶ)・西廡(さいぶ)に相当する回廊には、建物の内部が小部屋に仕切られて多くの神々が祀られていた。

 それは街路の中に忽然と現れるお宮の様式にも似たもので、いかにも土地を有効に利用する台北の人達のやり様と思われた。

保安宮の三川殿 保安宮の龍門
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保生大帝が祀られている「保安宮」の正殿 保生大帝が祀られる。

「保安宮」の正殿への
入り口。

 戦後間もない1952年に管理委員会が設立されて廟の再建活動が始まり、70年代には廟の改修や増築が行なわれ、ついに1991年になって新たに「大雄寶殿」や「図書館」が完成して、今の姿が整ったということだ。

 とりあえず「廟」と書いてしまっているが、お宮、といったほうが正確な表現かもしれない。

 正門が「三川殿」、右側が「龍門」と左側が「虎門」で、そこには龍や鳳凰などの彫刻が為されていた。門を抜けた正面には木造の正殿が建っていた。薬の神様である「神農大帝」、お産の神様である「註生娘娘」など、医学、医療に関する神様が数多く祀られている。だから参内する人の顔はみな真剣であり、その態度は驚くばかりの敬虔さに溢れていた。

 そうした事柄を踏まえれば、ここは私の様な只の観光客が浮かれた気分で足を踏み入れて良いような、物見遊山の場所では決してなかった。

「保安宮」の正殿 保安宮
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保生大帝を祀る 保生大帝を祀る

保生大帝を祀る

 この「保正大帝」は先に書いたとおり、1742年(江戸時代中期 寛保2年)にこの地へ祀られた。

 1742年にこの地に疫病が流行し、福建省泉州同安出身の人々の手により同安の「慈濟宮」から保正大帝の分霊を願ったのだという。霊験あらたかな神様として深い信仰を集めていたのだろう。

 人々は疫病治癒を願って、小さな廟を建てて保正大帝を祀ったという。以来、同安出身の人々の信仰の中心となり、その後、出身地に限らず、多くの人に深く信仰されたようだ。


 特に大陸からの移住者であれば集住したことだろう。同郷者の繋がりや絆は深かったに違いないが、そんな共同体であったならば、互いを結ぶ絆のよすがとしての神を求めても不思議はない。

保安宮 保安宮
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保安宮 保安宮

 神として祀られる理由となった有難い神話が語られ、同安出身の人たちの祈りの熱心さに打たれたのではなかろうか。

 それに共感して、次第に人々の間に信仰が広がっていったのだろう。同郷の人達だけで支えるには、この廟舎の規模は大きすぎる。最初はそうではなかったのだろうが、巡礼とは言わないまでも台湾全域からの参拝があるに違いない。

 そもそも「保正大帝」として祀られているのは北宋時代の実在の医者である「呉本」という人なのだという。

 彼が後に神格化されたもので、今では力を持った神として崇められている。健康や病気平癒を願う人々から医神として篤く信仰されている人物だ。

保安宮
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< 敬虔な祈りの姿に心打たれて >

 地元の人は言うに及ばず、遠方からも信心のためにお参りに来る人波が絶えることはないというが、私が居た僅かの間にも多くの参拝が行われていた。

 「保正大帝」を中心に、先に書いた「神農大帝」や「註生娘娘」、それに「媽祖(天上聖母)」や「関聖帝君(夫子)」、さらに「玄天上帝」など。台湾にあってはどれも有名な神様なのだというが、そうした神々が数多く祀られていた。どの廟(お宮)に対しても、それぞれに真剣な祈りを捧げる人たちの姿があった。


 台湾の人達は、それぞれの廟の前で真剣に、熱心に祈りを捧げていた。このように敬虔な祈りの姿を近くに見るのは中学生の頃に行ったカトリック教会で参加した日曜日のミサ以来のことだった。

 門を潜って一歩、回廊の内側に足を踏み入れた始めの時から、その「場」に溢れていた緊張した空気感は大変なもので、私はそれに打たれてただ黙って頭を垂れる他はなかった。

荘厳な装飾が施された回廊 保安宮
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