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2013.10.16
旅にしあれば・・・、ふたたび (台湾 第二日目 午前:北投温泉郷)  「力溢れる言葉」

旅程;2013年10月15日より 3泊4日間


旅の第二日目 (2013年10月16日);
  歩行数と距離;26,702歩 17.3Km

滞在地;
  新北投站;北投公園  ― 中山站;南京東路  ― 東門站;永康街、森林公園  ― 寧夏路夜市  宿泊:国王大飯店
  (ただし、このページでは2日目の午前中、「北投公園」でのエピソードのみをご紹介する。)

カメラ;
 PENTAX K7

レンズ;
 PENTAX FA20−35mm F4.0 AL
 PENTAX FA35mm F2.0 AL


 台湾海峡に面した北部の都市、「淡水」でのんびりと過ごした初日。海へと注ぐ大河にそって続く美しい遊歩道を散策した。

 淡水は貿易港として古くから栄えていた都市なので、街の歴史も古いものがある。大航海時代の遺構とも言えるスペイン人が構築した砦が丘の上に残っていたり、その麓に開かれた古い街路がその面影を色濃く留めていたり・・・。

 つまりは、日本統治時代の遺構などより数段古い時代のものであり、ヨーロッパ的なエキゾチックな雰囲気を漂わせている。

 しかし歴史を紐解けば、それは悠長なものではなかった。優勢な武力による現地民の征圧であり、植民地化の歴史に他ならない。江戸期に入ってからやっと、国民的な英雄である「国姓爺」と愛唱された「鄭成功」が登場してスペインに次ぐオランダ人を駆逐するまでは、軍事的な占領状態にあった訳だ。

 しかし、そうやって取り戻した土地も、幕末時点で発生した「アヘン戦争」で清国の権益が大きく失われると、ふたたび外国勢力の統治下に置かれる。だから、淡水の街は幾つもの、塗り替えられた統治者の歴史を秘めた街であった。

 安易に楽しむには深すぎる歴史を持っている土地なのだが、しかしそうした暗い面はすでに感じられない状態だった。そうした想いで、幾つかの場所で印象に残った建物や風景をスケッチに残してきた。その時の何枚かのスケッチは、またページを改めて紹介したいと思っている。

 私は淡水の今を楽しんで、温泉の地である北投へとやって来たのだった。

山水楽会館 の入り口

宿泊した温泉リゾート 「山水楽会館」
 (山楽温泉と山水楽会館の2棟のホテルが併設されている。)
駅前交差点にある商業ビル(警察署の向かい側)

 さて、それではここで確認の意味を込めて、台北市を南北に縦貫する鉄道路の「淡水線」を中心に据えた、今回の旅の目的地をまとめておこう。

朝〜午前 正午〜午後 (〜15:00) 午後〜夕刻 (〜18:00) 夜 18:00〜
一日目 成田国際空港 桃園国際空港 淡水站;淡水老街 北投温泉
二日目 新北投站;北投公園 中山站;南京東路 東門站;永康街、森林公園 寧夏路夜市
三日目 圓山站;孔子廟 台北車站 - 士林站;士林官邸  台大醫院站;台大病院 遼寧街夜市
四日目 台大醫院站;ニニ八公園 中山站;南京東路 桃園国際空港 成田国際空港

 *このページでは、旅の二日目の様子(午前中の北投公園でのこと)をご紹介する。
       歩行数と距離;18,850歩+夜市 7,852歩  17.3Km

・ 台北の旅景色

 今回の旅行、1日目の様子は
  ・ のんびり 行こうよ: < 2013.10.15; 台湾の旅(淡水・北投 「嬉しい出会い」) >

 2日目の様子は
  ・ のんびり 行こうよ: < 2013.10.16; 台湾の旅(午後; 永健街 「優しさの中身」) >

 3日目の様子は
  ・ のんびり 行こうよ: < 2013.10.17; 台湾の旅(午前; 圓山 「敬虔な祈りの姿」) >
  ・ のんびり 行こうよ: < 2013.10.17; 台湾の旅(昼; 中山 「食を知れば・・・」) >
  ・ のんびり 行こうよ: < 2013.10.17; 台湾の旅(午後; 士林 「旨いもの、見つけた」) >

 4日目の様子は
  ・ のんびり 行こうよ: < 2013.10.18; 台湾の旅(午前; 台大醫院 「麗しの島」) >

 台北でのスケッチ;
  ・ <旅行でのスケッチ;台湾旅行でのスケッチ その2>
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2日目;歩行距離 26,702歩 17.3Km


< 北投温泉(ペイトウ ウェンチュエン) >

 台湾は火山島なのでどの地区へ行っても多くの温泉がある。島の北部の海岸寄りにも幾つかの温泉があって、「北投温泉(ベイトウ ウェンチュエン)」もそのひとつだった。

 「日露戦争」 ―1904年(明治37年)〜1905年― の際に日本軍傷病兵用の療養所が作られ、それ以降、台湾有数の湯治場として知られるようになったという。

 日露に先立つ「日清戦争」により1895年から台湾は統治領(つまり日本国の「外地」)となっていて、島の北部にある北投温泉は日本人が開発した有名な温泉地であった。

 1913年(大正2年)、日本統治時代に700坪の敷地にアジア最大級の規模を誇った「北投温泉公共浴場」が素晴らしい装いで建築されたのだった。

 荒廃していたその施設が大切に再生されて、今はそこが「温泉博物館」として再利用されている。この広大な「北投公園」もその際に建設されたのだという。

新北投駅前の様子(写真中央の門が駅改札前の広場) 警察署 交差点の路上にある

新北投站の前は大きな複合交差点。
そこに警察署があるが、彼らの足も機動力溢れるスクーターだった。
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< 北投温泉博物館 (日本統治時代の遺構;台北市 第3級史跡) >

 「日本統治時代」とは、1895年(明治28年)から1945年(昭和20年)までの期間を指している。

 1894年から95年に掛けて行われた「日清戦争」後の講和条約である「下関条約」により遼東半島や澎湖諸島などと共に清国から割譲され、50年間に渡り台湾総督府が置かれて、「台湾」は日本領として統治されていたのだった。(当時、清国の朝貢国(緩やかな属国)であった朝鮮は、同じ条約により独立国とされた。)

 第二次大戦での日本敗戦と統治機構の撤退以降、建物は荒廃するに任せてあったが1994年に地元住民の間で再生保存運動が起きて、台北市は1億1千万元の予算で建築を復旧し、博物館として開放すると共に「3級古跡」に指定し、文化財化して保護を進めたのだという。

 当時の為替レートが判らないので、仮に4円として円換算してみよう。文化財保護としてはまさに大盤振る舞いの巨額な費用、なんと約4億5千万円にのぼるものだった。


 今に残る古い写真や高齢者達の証言に基づいて外装や内装が復元されたということだ。公園の奥にある二階建ての大きな建築物である。

 一階の外壁は煉瓦壁のがっしりとした状態、その上に載る2階の外壁は木造という造りになっている。この様式を「英国ビクトリア様式」と呼ぶそうで、当時の典型的な様式であり特色を備えた建築らしい。

北投公園

北投公園の広場(体操をする人達)
北投公園
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 「淡水(ダンシュイ)」の岸辺や街をゆっくりと楽しんだことで随分長い滞在時間になってしまい、結局、北投への到着は日没後になってしまった。

 その薄暗い中でホテルを探し回ったので、公園へは行く余裕もなかった。そこで思い切って翌日の早朝、平日の静かな公園へ行ってみた。

 駅改札を抜けた先は大きな広場になっている。この新北投駅も昨日の円山駅と同様に余裕のある構内となっていて、そこにある駅舎も大規模なものだ。

 その駅正面から眼前の山側へ向かって、傾斜地に張り付くように温泉街が広がっている。その温泉街路の中心になるのが「中山路」と「光明路」の2本の通りだ。駅前から続く「光明路」を行くと左手側が公園になる。

北投公園の入り口と坂に連なる温泉ホテル 台北図書館 北投分館
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< 北投公園と台北市立図書館の分館 >

 公園内には散歩を楽しむ人や、広場で輪になって健康体操をする人々、一人静かに太極拳をする人などがいる。そうした朝の風景を見物して楽しもうと、朝食前の散策に出たのだった。

 公園にいる人達を横目に見ながらが、緩やかな坂を登って行く。折角なので歩道ではなく、園内の通路を歩くことにした。通路の横には温泉が流れ込む川が、静かに流れているからだ。そうして歩いた園内に程なく大きな建物が現れた。

 看板があったのでその建物の正体を確認すると、台北市立図書館の「北投分館」だった。分館などと呼ぶには無理があるように思われる、実に壮大な建物が現れた。外壁は木造で、壁の一面が植物で覆われている。園内の光明路側を歩いていた私は、図書館の入り口を見つけ、自然に寄り添った美しい様子に見とれた。何か美しい場所があるだろうと期待してスケッチ道具を手にしていたので、早速そこをスケッチする事にした。

 帰宅後に調べてみたのだが、2012年「世界で最も美しい公立図書館ベスト25」に選ばれた有名な建築物であると言う。建築だけではなく館内にも大きな特色があった。エコ・システムやソーラー・システムが積極的に採用され、トイレや植木の水には雨水が利用されるといった徹底振りらしい。

 図書館入口の横に小さな噴水があり、その横に幾つかの池がある。山の方で温泉が流れ込んで、そのまま流れ下ってくる川が緩い平地にあるその池へと溜まるのだという。

 「台北市立図書館 北投分館」の入口側でスケッチを終えた私は、建屋の様子に興味を惹かれて、図書館の裏手へと園内を回ってみることにした。

台北図書館 北投分館 台北図書館 北投分館

2012年「世界で最も美しい公立図書館ベスト25」に選ばれた有名な建築物。
雨水利用のエコ・システムやソーラーが積極的に採り入れられている。
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 入口側はちょっと洒落た建物といった雰囲気で、非常に落ち着いた趣きを持っている。木肌が柔らかくて、とても和やかな空気感を醸し出しているのだが、横手に回ってみたら、大きな建物の右側は壁面全体が植物に覆われた流行の仕上げになっていた。

 その壮麗な図書館横に小径があって、建物の横に続く植林帯の奥へと続いていた。その小径は木々の間に静かにあって、喧騒を離れて心を鎮めながらゆっくりと散策できるような工夫があった。狭い道幅、進路を遮る木々、そして高低差、そうやって狭い区域であるにも拘らず広い森を思わせる様な設えがされている。

 視界は計算されており、植樹を含めて造成上の工夫が心憎いほどの配慮で設計されていた。歩き進むと、視界が木々で遮られて暫く眺望が効かなくなってくる。でもそれがかえって包み込まれた様な状態になって心を和ませ、気持ちを落ち着ける。

 まるで、西田幾多郎博士が思索の途中で歩いた「哲学の小径」を思わせる佇まいで、博士が散策した実際の小径を私は知らないのだけれど、きっとこうした雰囲気であったのだろうと想像した。

台北図書館 北投分館 園内を流れる川

公園内を流れる小川の様子。
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 さらに先へと進んで、段差になった場所を降りていく。すると園内を流れていた小川を渡るために架けられた橋の横に出た。架かっている小さな橋を渡ると、その対岸に一際目を惹く建物が現れた。

 それは「北投温泉博物館」の建物だった。

 昨晩、ホテルを探して彷徨って公園脇を取り巻く2本の道路をひと回りして歩いてしまったのだが、その時に目にしたのは道路に面して建つ博物館の建物への入口にしか過ぎなかったようだ。

温泉博物館 北投温泉博物館
ベイトウ・ウンチュエン・ボーウーグァン

1913年(大正2年)、日本統治時代に700坪の敷地に建てられた北投温泉公衆浴場がその前身。
当時の温泉施設としてはアジア最大級の規模を誇った建物だった。
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 「北投公園」の地平面は路面から一段下がったレベル位置にある。

 先に書いたように「光明路」と「中山路」の2本の道路が園域を取り巻いているのだが、駅前が正面入口になる公園の敷地はほぼ水平面として展開しているので、両側の道は次第に城壁の様にせり上がって、公園の奥側の様子は日本の城郭に似て、堀の内側や石垣の内側の郭にある大名庭園のように思えてくるのだった。

 光明路から中山路へと巡り歩いたのは夜であり、樹木が豊富な園内はもうすっかり暗かったので、そこにある建物の様子がまるで判らなかった。

 園内の橋の袂から特色ある建物の様子をスケッチし終わったので、建物の正面にある池を巻いて中山路へと上がって、ホテルへ戻る事にした。ビュッフェ・スタイルでの朝食に予約した時間(8時45分)に近かったからだ。

 博物館の建物正面には睡蓮が咲き誇る綺麗な池があり、それが遊歩道に取り巻かれて散策も愉しめる環境になっているのだった。図書館の裏手になるのだが、それらが両方の道から一段下がった位置にあり、園内に美しく配置されている。ホテルへ戻る頃には、私はすっかり北投公園が好きになっていた。

小川に掛かる橋

この木橋を渡った右手先に、北投温泉博物館が建っている。

流れている川には、上流で温泉が注いでいるのだという。
温泉街の様子

公園内から温泉街を眺める。
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< ホテルでの嬉しい再会 >

 ビュッフェ・スタイルの朝食を食べた後、レストラン・コーナーを出ようとしたら、昨晩のお二人が食事を始める処だった。テーブルへ行って挨拶し、もう一度お礼をいい、記念写真を一緒に撮らせて頂いた。

 描いて来たスケッチを見てもらったら、お孫さんに「Are you teacher?」と職業を聞かれた。

 美術の教師か何かの職業に就いていると思ったらしい。「I want to become a teacher when I was young, but I'm got an enginnarring job now. I chused my job,that is computer softwaer enginiarring. I make a system for my customer.」と説明をした。

 確かに教師に成りたいと想った事もあったが、それを選らばずにコンピューターのソフトウェア・エンジニアをしている事、そして絵は大好きな趣味のひとつなのだという事を説明した。楽しい会話が弾んで、朝から気持ちが豊かになった。

 名残りはあったが食事の邪魔もなるまいと思い、お別れを言って二人のテーブルを離れた。

知り合ったご婦人


お孫さんは、日本語が少しも判らなかった。

その事を不思議に思っていたら、ご婦人のお孫さんは旦那さんの方で、彼女はそのお嫁さんだからだった。


流石に儒教文化が培った礼節を重んじる国といえよう。それが当たり前の為し様ともいえた。

思えば、お嫁さんとお姑さんが二人だけで、一緒に温泉旅行するなど、到底今の日本では考えられない事になってしまっている。

けれど、ほんの数世代前であれば、日本もこうした睦まじい状況(濃厚な家族関係)だったに違いない。

ご婦人は歳若いお嫁さんを可愛く思い、お嫁さんのほうはその愛情を理解してお婆さんを大切にする。

仲睦まじく、微笑ましい光景だった。
ホテルのパティオ

レストランコーナーの前は美しいパティオになっている。
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 昨夜はもちろんのこと、朝は早起きしたので風呂のお湯を張替えてゆっくりと入浴していたが、部屋にある大きな風呂に足し湯をして、もう一度ゆったりと湯船の中に浸かって贅沢な温泉を楽しんだ。そして出発の準備を整えてから、再び公園へ向かう事にした。

 台北のホテルの多くはチェックアウトが12時なので、おおいに助かる。

 ここは「山水楽会館」という名の、美しい温泉リゾートなのだが、やはり台北市内の繁華街にある多くのホテルと同じシステムなのだった。

 日本のホテルや旅館であればとっくにもう刻限で追い出されてしまうのだが、まだチェックアウトまでには間があって、それまでの間で充分に公園を愉しめる。

公園の睡蓮池 公園の睡蓮池
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< 北投公園内 「北投温泉博物館(ベイトウ・ウンチュエン・ボーウーグァン)」 >

 はじめに入場無料の「温泉博物館」の館内を見学する事にした。

 ここは、日本統治時代に開発された温泉で、その中心となるのが1913年(大正2年)に建設された「北投温泉公共浴場」だった。市民の努力で再生運動が起され、保存・再生され、際活用された経緯は先の一日目のページ(のんびり 行こうよ: <20131015;旅にしあれば・・(台湾、ふたたび) 第一日目>)の最後に書いたとおりだ。

 当時、東アジア最大の公共浴場としての規模を誇った。ゆったりとした間取りがされていて、館内はどの部屋も天井高があって広やかな様子である。

園内から図書館を見る 台北図書館 北投分館を公園側から眺める。

自然(公園だからそれは天延ではなく人造のものだけれど)に馴染んで、すっかり周りの木々に溶け込んでいる。

こんな素敵な図書館なら、一日を費やしてゆっくりとそこで過ごしてもいいな、と思う。
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 古い日本のきちんとした建築の様相がその博物館では充分に楽しめた。明治後期から大正期、そして昭和初頭期の頃のものには良くあるような重厚な雰囲気を漂わせていて、ゆったりとしたものだ。

 館内はどこも広々としていて、休憩所である2階の広間(和室)や、ドアや階段の建具なども贅沢な仕上げである。なにより美しいステンドグラスやタイルで装われた温泉の大きな湯船のある1階の様子が素晴らしく、見とれるばかりだった。

 2階広間の横にあるバルコニーから1階へと降る、母校の記念館の階段と同じ様子の漆喰壁にマホガニー材を用いて造られた素敵な階段があって、実に懐かしい思いがした。

公園内の庭園には
大きな池があった。

睡蓮の花が可憐に、
美しく咲いていた。
睡蓮の花が咲く
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道路面の休憩場所 入り口の瓦屋根

 「北投温泉博物館」は巨費を投じて再生された史跡なので、瓦なども写真でご覧頂ける通りに、かなり存在感が溢れている。

 その昔、実家を二世帯住宅に建て替える際に、屋根材としての寿命は150年と聞いた覚えがあるが・・。さて、入り口の屋根材であるこの瓦は一体、どれほどの時を刻んでいるのだろう。

 館内だけでなく、建物そのものも素晴らしい状態なのだ。そして保存する姿勢が復元の方向であったのが大きく働いていると思う。何故なら、建物のあちらこちらに貴重な面影が残されているからだ。

 屋根の瓦なども、そうした歴史の息吹に満ちていて、そんな細部を愉しめる工夫がされている。

館内2階の大広間(北投温泉博物館) 2階の外壁面(北投温泉博物館)

内部の大広間(2階)や外壁の様子。
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館内大広間からの階段(北投温泉博物館) 館内大広間からの階段(北投温泉博物館)

 建物の1階は浴場のあるスペースだ。床のタイルが美しく、漆喰壁が清々しい。

 出来れば、ここで時代を巻き戻して、湯船に満ちた温泉に身を委ねてゆっくりと体を沈め、その温かさに包まれたかった。

 ひとつ、思った事がある。このゆとりはなんだろう、と。

 私達は便利さや効率ばかりを追い求め、いつの間にか、こうした大切なモノを日常の生活からすっかり失ってしまったのではないだろうか。

館内1階浴場の様子(北投温泉博物館) 館内1階浴場の様子(北投温泉博物館)

廊下の床のタイルもまた素晴らしい。
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 一階浴室の窓には、外の景色と相まって、そこを彩る美しいステンドグラスがあった。

 その丁寧な造りが、まるで教会のように素敵なものだ。

 陽を受けて鮮やかに輝く様子は本当に素晴らしいと感じた。それはまるで帆船「日本丸」の士官用食堂の天井を飾るステンドグラスを思い出させる。

 ・・・私は窓から見える鮮やかな緑と対比した、輝くステンドグラスの姿を前にして、呆然と見とれてしまった。そして、暫くそこから動く事が出来なかった。

当時のタイル(北投温泉博物館)

当時利用されていたタイル。
1階の大浴場(北投温泉博物館)

長さ9m、幅6m。
深さは40cmから130cmのスロープ式の大浴場。
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ステンドグラス ステンドグラス
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 建物と言い、その内装といい、断りがなければ、とても公衆浴場として利用されていたとは思えない丁寧な造りが随所に溢れていた。

 私はこの美しい博物館を見て、そして再生された館内の様子も確認して、実は、明治末期から力を入れた台湾統治の在り方の一端を垣間見た気がした。

 台北の都市整備や統治機構を支える秀麗な建造物を見るにつけ、「東京」の建設で明治の先達が為し得なかったものを引き継いだ第二世代が、改めてこの地に「理想郷」を建設しようとしていたのではなかろうか、と思えてならないのだ。

 勝手な言い分かもしれないが、そこには植民地化や高圧的な支配などとはまるで次元の違った世界があるように思われる。

 当時の総督府を支えた先人の、真摯な政治姿勢がみえるのだ。

大正期のモダンがこの内装に現れている 大正期のモダン
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スケールモデルで見る温泉博物館

温泉博物館として再生された「北投温泉公共浴場」
品の良いタイル

床を飾るタイルの様子もまた、素晴らしい。

 横浜の「日本郵船」の古いビルを見学した時のことや、箱根の恩賜公園に建つ迎賓館のような古い建物の様子を思い出した。

 明治末期から大正期に掛けての、日本建築の中で粋を極められた美意識が結実して、ここにある。それはまさに「大正モダン」の美意識を具現したものといえよう。

 こうした建築物や、内部の瀟洒な様子を目の当たりにすると、ひどく口惜しくなってくる。

 私達はなんと美的に貧しい世代へと成り下がってしまったのだろうか、という思いが湧いてきてしまうのだ。つくづくそれが残念な事に思えて来て仕方が無い。

美しい浴室内の廊下 温泉の歴史
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タイルの床

映画「テルマエ・ロマエ」に出てきたローマ時代の公衆浴場を思わせるような、ローマ建築風の円柱が建つ。
階段の様子(北投温泉博物館)

 建物の外、横手になる公園の奥に、コンサートが開ける程に充分に広い屋外ステージがあった。実際に今もイベントなどで屋外ステージとして利用されているのではなかろうか、と思えるほど整備が行き届いていた。

 そのステージに向かった階段状の客席の終端部分が公園の一番奥になるらしく、観覧席の最上段から道路面へと折り返しの階段が設えられている。

 階段を登って建物側を振り返ってみたら、その壁面は見事な煉瓦造りになっていた。

美しい廊下(浴室内) 美しい廊下(浴室内)
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 私は建物のレンガ壁の様子にしばし見とれ、階段上の少し広くなった場所から建物の裏手の様子をスケッチする事にした。

 中山路の道横にちょっとした張り出しスペースのように空間が作られていて、そこに大きな樹木が植えられ憩いの場として整備されていた場所があった。

 お誂え向きのスポットを見つけた私は、その木の根元にある石のベンチに位置を取って、見下ろす位置にある博物館の建物を描くことにした。特にこの位置からだとレンガ壁の様子が素晴らしく、建物の屋根も入り組んでいる。変化に富んだ構図になろう。

階段でスケッチする人 階段でスケッチする人

後に会話を交わして
私達は友人となる。

彼の製作しているブログには
多くの素晴らしいスケッチが掲載されていた。

私は、その幾つかを実物で見せて頂いたのであるが、色遣いが素晴らしく、印象的な絵であった。
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< エピソード3 新たな出会い >

 大方のスケッチを終えて身仕舞いをしていたら、目の前に一人の男性が立っていた。つい先ほど、下のステージのところから階段を上がってきた人だが、スケッチを仕上げる私を遠目にして立っていたのだった。

 その男性は遠慮がちに近づいて来ると、よく通る爽やかな声で話し掛けて来た。「I'm sorry but I can't speak chainese.」と答えると、その人は英語に切り替えて話を継いだ。


 何処から来たのか?、何処に行ったか?、何時までいるのか? この後の予定は? などの旅の入り口を確かめる幾つかの質問の後で、彼は遠慮がちに言葉を続けた。

 それは、「済まないが、もしよかったら貴方の描いた絵を見せてくれないか」という依頼で、私は「勿論、構わない」と言いながら躊躇いなくスケッチ・ブックを手渡して見て貰う事にした。

 色遣いの話やタッチの話になった。

 「他の絵も見ていいかな?」という事で、淡水で描いた観音山の絵と淡水の街中に忽然と現れた素敵な教会をスケッチした絵、それに今日の朝方描いた図書館分館の絵と温泉博物館の西側を描いた絵とを見てもらった。

 その男性は台北市内から3年前にこの北投へと移り住んだのだという。この土地の景色が気に入ってしまい、とうとう住居をここへ移したのだという。絵は趣味のひとつとして描いているもので、個展を開いたり、自分のブログで紹介しているということだった。

 彼のブログは「多くの人が見てくれて、コメントを読むのが楽しみだ。その応援が、絵を描く励みにもなる」ということだった。

 彼は「日本の沢山の人達も、僕のブログを楽しんでくれているよ」と笑顔になった。

階段を登った先のスペース 階段でスケッチしていた人
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 彼のその話に興味を惹かれて、「貴方の描いた絵を見せて欲しい」と私の方でもお願いして、大判のスケッチを見せてもらった。アルシェ級の水彩紙を使っているようで、絵の具の発色が素晴らしかった。

 端正なペンによる細密な線が描かれ、そこに淡く着彩がされていた。再現された色合いが素晴らしく、個性的で素敵な絵だった。私はその絵にしばし見とれてしまった。

 その人の描く力のある線についてコメントしたら、「僕には秘密兵器があるから」と笑いながら、自分の使っているペンを見せてくれた。私が利用しているペンは、細い丸軸のペン先を持つステッドラー製の品物で、油性のドロー・ペンなのだけれど、その人が見せてくれたペンはライン・マーカーのような珍しい「平軸」のものだった。

 「ほら、こうすれば細い線も描けるし、こうやって持てば太く力のある線も簡単に描き分けられる」と言いながら、実際に線を描き分けて見せてくれたのだった。

 「これがあれば、短時間で線画を仕上げられる」と言いながら、スケッチ・ブックの余白のところへ、彼はそのペンですっと一本の線を描いた。

 「ほら、こうやって」と言いながらさらに何本かの線を引いて私に示し、「一緒に旅に出る友人達は誰もがせっかちで、スケッチをするというのに決して私のことを待ってはくれないのだ」と語った。その様子は少しも嫌だといった様子はなく、むしろそうした友人達との遣り取りを楽しんでいる風情が見て取れた。

 「だから折角、景勝地へ行っても、私には手持ちの時間がほとんど無い」と嘆き、そういう状況に置かれてしまう事が随分多いと笑った。

階段でスケッチする人 階段でスケッチする人

後に会話を交わして私達は友人となる。

最初の問いかけは中国語でだった。

まるで判らないので、それを私は英語で答え、その後はお互いに英語での会話になった。

「済まないが、もしよかったら貴方の描いた絵を見せてくれないか」
という事で私の描いたスケッチをお見せした。

今度は私が、貴方の絵を見せてもらえないだろうか、とお願いした。

彼はその絵を3時間で仕上げたのだと言う。
実はその早業には訳があった。彼の使っているペンに大きな秘密があったのだ。

そして幸運にも、その技の伝授を私は受けられた。
だから彼は、私にとってはオビワンやヨーダのような「導師」と言えた。


私達は共通の趣味という事もあって、沢山の話を続けた。

それは本当に素晴らしい時間だった。
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 「そうした短時間でのスケッチや、街角でのちょっとしたクロッキーには打って付けの優れたモノなんだ。このペンは僕のお気に入りだよ」と話し、自身で工夫したペン先の軸の「使い方のイロハ」を私へと伝授してくれたのだった。

 そして彼は何やら思い立ったらしく、「一寸待って」と言いながら背負っていたリュックを降ろして中を開けて何物かを探し始めた。そしてスケッチ・ブックとクロッキー帳を取り出し、時に漢字で地名などを書きつつ、一枚ずつ丁寧に説明しながらその内容を見せてくれたのだった。  着彩が無い荒いタッチで、勢いのある力溢れる線で描かれたスケッチ画や、美しく着色された水彩画、さらにしっかりと細密に仕上げられた寺院のスケッチなど・・・。

 特に寺院の瓦屋根の精密な描写が素晴らしいもので、私は暫く見とれていた。「それは孔子廟だよ」とスケッチすべき場所をメモに書いて教えてくれた。

 そしてこれからの予定を私に聞くと、「台北車站の近くにある<二二八公園>へ是非行ってみなさい、素晴らしい絵が描けるから」と笑った。

 「紀州庵という名前を知っている?」と彼は私に聞いてきた。

 「日本にも大阪の近くに同じ名前の地域がありますよ」と答えはしたが、何か和歌山県と関係がある場所なのかなと思ったので、重ねて聞いてみた。

 「そこは有名な場所なのですか?」と私が言葉を返したら、彼は丁寧に説明を始めてくれた。

 「市内にある日本屋敷の名前なので、日本と関係しているというのは正しいよ。そこはレストランでもあるが庭園が素晴らしくて、人気の場所なんだ」と語った。日本人が多く住んだ地域にあるのだという。「そこにも是非、行くといい」と言いながらその庭や建物を描いた2枚の水彩画を順次見せながら説明してくれたのだった。

 結局、滞在中にそこを訪れる事は出来なかったが、帰宅後に調べてみると1917年に日本人によって建てられた「料亭」が前身であり、現在は7年の歳月を掛けて再生・保全されて文化施設として利用されているものだった。どうやら、「そこにレストランがある」と言った彼の言葉は私の取り間違いであったようだ。彼は話の中で、「料亭だった場所で」と言ったようだった。

スケッチを見せて頂く 導師の描いた
素晴らしいスケッチ。

色の使い方が魔法のようで実に素晴らしい。
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 特に黄色の使い方が個性的で、彼の絵の印象的なアクセントになっている。画面の中で使われたその色が、鮮やかさと爽やかさを醸し出して、彼の絵に独特な彩りを添えている。

 彼の画風を引立たせている色遣いは、描かれた絵を彼独自のモノとして深く印象付けることに、一役も二役も買っている様に思われた。そのことを私が話すと、彼は大きく頷きながら言った。

 「その色は、僕の苦心の工夫さ」と静かな笑顔を見せた。本当に素敵な人だった。そしてその人は懐から名刺入れを取り出し、自分の仕事用の名刺にブログのアドレスを書いて渡してくれた。

 私達は共通の趣味を持ち、互いに母国語でない言語で会話を繋いだのだが、2人はあっという間に打ち解けることができたようだった。まるで、古い友人に数年ぶりに会ったような、とてもしっくり来る雰囲気が私たちを包んでいた。


 「ああ、また、旅の神様が地上まで降りてきたのだな」と私は思った。


 30分程もお互いの絵の話に熱中したが、私は思い切って台湾で知り合ったら、その人達に是非話したかった想いのたけを彼に言ってみることにした。

スケッチを見せて頂く その人柄がまた良かった。

芯があって、なんとも頼もしい人だった。
その強さがあるから、人には優しくなれるのだろう。

こういうタイプの人は最近は随分減ってしまったように思う。

この温かい優しさをもった人に出会え、多くの話が出来たことだけで、あとは何も無くても、もうそれだけで台北を訪れた価値はあった。

充分と言える大きな勇気を沁みこませてくれたし、
また、忘れがたい想いを、心の奥底に置いても暮れた。
いつまでも、忘れがたい人になるだろう。


スケッチでのペン描写の技を伝授されたので、
最早私にとっては他人ではなく、「導師」であった。

< エピソード4 力強い応援 ;真っ直ぐな心 >

 3.11の大惨事が日本を襲った時、私は高輪にある職場にいた。

 ビルが際限なく大きく揺れて、多くのものが床に落ちて散らばった。それは半世紀に渡る今までの人生で経験した事の無い大きな揺れだった。大惨事が起きたのだと直ぐに思った。暫くして我に返り、会議室にあったテレビをつけた私は驚きを隠す事ができなかった。テレビはどの局も混乱していたが、画面には東北の酷い様子が映っていたからだ。

 「私達は信じられないような災害に見舞われた。東北は酷い状態だったが、幸いに、私にも私の家族にも何の問題も起きなかった。けれど、テレビで知るその後の東北の様子は凄まじいもので、多くの人がその災害の際も、そしてその後の長い時間も苦しみを味わった。そんな時、一番早く助けの温かい手を差し伸べてくれたのが、台湾の人達だった。」

 「いや、あの映像を始めてテレビで見たとき、私は震えてしまったよ。こんな災害が起こった事が、まるで信じられなかった。波(津波)の恐ろしさを始めて目にして驚いたが、直ぐに何とかしなきゃと思ったんだ」と私の話を真顔で受け止めた彼は、そう返してくれた。

 「日本の一部の島(九州の事は彼も知っていた)ほどの大きさの国なのに、台湾の人達は全力で日本のためにお金を集め、直ぐに送ってくれた。その金額は世界のどの国よりも多く、その親切と友愛の真心を、私達の誰もが喜んだ」ということを話すと、彼は何度も頷き始めた。

 私達は台湾の人達の信じられない様な優しさで救われたのだと思っている。

 その気持ちを伝え、「私達、日本人の誰もが、私と同じ思いでいる事を知ってほしい。台湾は大好きな国で、そして台北は私の大好きな場所だ。だから私はここにまたやって来た」最後は独り言のようになってしまったが、彼には私の心が充分に伝わったようだった。

 「そして、知り合った人に感謝の気持ちを伝えられて、とても嬉しく思っている。改めて有難うとお礼を言わせて欲しい」と話したのだった。
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 彼は大きな手を差し出しながら握手を求め、優しいが力強い真っ直ぐな声でこう言った。

 「大丈夫。僕達の事を信頼してくれていい。あなたと同じように私達も日本人が大好きなのだ」と言ってから、さらに言葉を続けた。

 「それに私達は君達のことをお隣さんだと思っている」その言葉に答えて「隣人?」と私は聞き返した。なぜなら、彼の言葉を聞き間違えたと思ったからだ。

 「だって、そうだろう・・・。私達の国の間には僅かな海しか無いし、距離だって短いし、移動に掛かる時間だっていくらでもない。飛行機で半日も掛からずに行き来が出来るじゃないか」と彼は言葉を重ねた。

 「そう言ってもらえて大層嬉しいし、それに貴方のような人に出逢えたことを、私は本当に喜んでいる」といい、さらに「それを巧く言葉に出来ないけれど、やはり台湾へ来て良かったと思う。」と伝えた。

 あっという間に出会いの時は過ぎて、もうホテルへ戻らなければならない時刻になっていた。別れを告げると彼は、最後にこう言葉を残した。「何かあったら、台湾の事を思い出してくれ。私達はいつでも君達の味方だ、という事を忘れないで欲しい。きっとまた台湾へ戻ってきてくれ。いつでも君を歓迎するよ」と。

スケッチを見せて頂く 導師の描いた
素晴らしいスケッチ。

これは北投公園を流れる川の秋景色。

色の使い方が魔法のようで実に素晴らしい。

影の部分の紫色など、私には絶対に出来ないものだろう。
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 彼ともう一度握手を交わし、笑顔で別れの挨拶をして、そのスケッチ場所を離れるてホテルへと戻る事にしたのだった。

 公園を右手に見ながら、ホテルへと降っていった。緩く続く坂道を下っていた私の中では、さっきの会話の中で、彼が真顔になって言った言葉が浮かんできた。

 「We are not Chainese.」。台湾人は大陸の人間とは違う、と私はその言葉を理解したのだった。しかし、そこでの「We」は彼自身を含めた台湾の人々を指したのではなかったかも知れない。ひょっとすると私を含めての表現だったようにも解釈できるのだ。

 彼が言いたかった「ワタシタチ」は彼らTaiwaneseだけでなく私達Japaneseも含んでのことだったように、今では思えている。

導師が仕上げた
北投温泉博物館の
淡彩画。
北投博物館の裏手の全景
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< 寄せられた善意の証 >

 3.11での東日本大震災に際しては世界中の、実に多くの国から義捐金や救援物資が贈られた。

 経済的に豊かな大国からも、そうでない国からも、多くの現金、衣料品、食品、そして資材や人員などが集まったのは記憶に新しい。膨大な物量が東北を目指して集まったのだ。集まったその重量は人々の善意の重さでもあった。

 そんな善意の中で、異彩を放っていたのが、圧倒的な内容を示した台湾だった。

 島の面積は九州とほぼ同じ、そこで暮らす人々は2300万人に過ぎない。台湾は立派な国家であり、陸海空の独自の軍隊も持っているし、精緻な行政機構もあるが、ご存知のように独立国として国際的に批准されていない状況が続いている。

 極めて深い関係にあるはずの日本でさえ、彼の国を「国家」として承認してはいなかった。日中国交正常化の流れの中で、大国に慮って私達は背任を犯し、彼の国の承認を切り捨てたからだった。そうした状況下に置かれた台湾なのに、今回の未曾有の大災害でいち早く日本の窮状に接して、懇切な心温まる支援を集め、救援の手を差し伸べてくれたのだった。

 28名の先発助隊がいち早く編成されて災害地へと緊急派遣されたし、日本に送られた救援物資は560トンにのぼる。そうした人的支援や物資援助だけに留まらず、驚くべき金額の寄付が私達の元に寄せられたのだった。

北投博物館の裏手の様子 レンガの味がなんとも素晴らしい。

その佇まいは丹精であり、なんともいいようの無い重厚さが漂っていた。

温泉博物館を山側から見る。
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 台北では各街区(日本で言えば町内)ごとにコンビニがあり、その数はかなりになる。

 そうした多くのコンビ二の中でもセブン・イレブンの店舗数は多い。災害に際して多くのコンビニ店のレジ脇には義捐金用の募金箱が置かれたというが、セブン・イレブンで集まった寄付金は当時の為替レートで3億368万円に上る額だったという。

 これは日本国内の大手優良企業の義捐金拠出額に匹敵する多額なものだ。海外で言えば独ダイムラーの2億円、仏ルイ・ヴィトン(グループ)の5億円、米ディスニーの3億5千万円などの巨額な義捐金と並ぶものだ。

 その後、全土で集まった寄付金の総額はなんと187億円という途方も無い額になった。これは驚くべき数字で、世界のどの国をも大きく凌ぐ莫大な金額だった。

 台湾の人口を見てみると、日本や米国やインドや中国の比ではない。先に書いたように総人口が僅か2300万人に過ぎないのだ。それは東京都民1328万人と大阪府民886万人を合わせた人口数に相当する数に過ぎないものだった。

 つまり人口比で言えば、幼児から老人までの全世代が押並べて一律に寄付をしたとして、一人あたりの出費金額が7300円という額になる計算だ。

 金額そのものの多額さも驚くべき事なのだが、国の就労人口の状況を考えれば、まさに途方も無い金額が集まったという事を意味するのだった。

 それは、まさに台湾全土で暮らす人達の篤い想いが篭った、掛け替えの無い大切な愛そのもの。

 そして、その深さを物語るものだった。

綺麗な野草 綺麗な野草

逞しくも可憐に咲く小さな野草
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