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アジアの国へはいくつか旅行をしていたが、余りに近い存在であり過ぎて訪れたが無かった台湾へ、初めて旅行したのは2006年の晩秋のことだった。
それは会社の周年行事の社内旅行としてであった。社内行事とはいえ、3泊4日の行程中の半日分だけが記念行事のための拘束日で、それ以外の日程はすべて自由行動という実に楽しいものだった。
台北の景色 ; < 20061123;旅にしあれば・・(台湾) >
台北でのスケッチ; < 旅行でのスケッチ;台湾旅行でのスケッチ >
その旅行については上にリンクを張った、ふたつのページで書いている。幸いにも、今言ったような素敵な配慮が為された旅程で、思い通りの旅に仕立てる事が出来たのだった。
そこで私は、台北(タイペイ)の方々の街角を巡り、市街地を縦横に歩き倒そうと考えた。4日間の移動量は結構なものになって、平均すると15キロ程を毎日歩き回っていた。
ちなみに江戸期の旅人は一日で平均30・40キロを踏破し、東海道の53次でいえば、江戸日本橋から京都三条大橋までの距離を14日程で旅していた。その健脚振りから比べれば、随分歩いた様に思えても大した距離ではなく、言ってみれば赤子同然にしか過ぎないものだった。でも私の日常からすれば、数日間に渡って終日外出して歩き回っている状態というのは滅多にある事ではなかった。
それはまるで、ロング・トレイル ― 海外にある、数日間に渡る行程が必要なトレッキング・コースの「〜パス」 − を踏破するような状態だったといえよう。
あたかも連続するハイキングの只中にある様なノリになって、毎日を楽しく臨んだのだった。
そして今回はそれから7年振りの台北再訪となる。私は、あらたな気持ちの旅に出た。
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淡水河の岸辺
2006.11
黄金水岸側から、
淡水河の河口方向を望む。
台北を流れ来て、
山々の水を集めた広い川の水が、注ぎ込むのは台湾海峡だ。
八重山を経由し、
沖縄を過ぎて、
遥かハワイへと続く大きな流れ。
「黒潮」となる源がここにある。
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庫倫街の街路 手前が市街中心方向
( 桃園国際空港からの高速バスのバス停周辺 )
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台北郊外(「劍潭站:Jiantan 」あたり)の様子
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MRT淡水線の車内 (2006.11)
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淡水 「黄金水岸」 岸辺の遊歩道に連なる店
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第一日目 初日 歩行距離 16,227歩 10.5Km
< 「桃園国際空港」から台北市街へ、そして淡水の街へ向かう >
台北への玄関口の「桃園国際空港」から高速バスで台北市内へ向かい、「圓山站」(駅)からMRTに乗り継いで、島の北岸にある河口の街「淡水:Danshuei」へ向かった。淡水河は台北市街を流れて、やがて海へと注ぎ込むのだが、この街で、辺りの河幅はいよいよ広く、その河口はまるで湾のような様子になる。
「淡水」は海へ注ぐ河口に開けた街で、古くは貿易港として栄えたのだという。1624年にマニラからスペイン人がこの地へ進出し、その後オランダが支配し、さらにイギリスの拠点となった歴史を持っていた。
ところで前回の旅行では、力強い相棒となる旅のガイドブックを仕入れた。評判の高い「地球の歩き方」の台北編と台湾編で、詳細な記述がされていて随分と役に立った。
そのガイドで、台湾北部にある名所をいろいろと調べたてみたのだ。ガイドされたページで目にしたのが「淡水」の様子だった。
川面の風景を撮った写真の、その優雅な景色をいっぺんで気に入ってしまった。写真の様子はなんとも「のんびり」としていて、豊かなゆとりがあったからだ。だから前回の旅では、その写真で撮られた景色を求めて川岸を散策し、川面に浮かぶ漁用と思われる船の姿をスケッチに残したのだった。
淡水へは、例えば「中山:Jhongshan」站などの市街地の地下駅からだと、30分程、電車に乗る必要がある。つまり大都市である台北にとっての「淡水」は、郊外の観光地といえる安らぎの場所だ。そして親しみ易い、人に優しいコンパクトさを備えた街であった。
ガイドの風景にすっかり惚れ込んで、期待を込めて訪れた場所であった。
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淡水河からみた
対岸の「観音山」
市街を出た列車は、
その走行路が地下から高架へと変わる。
「圓山站:Yuanshan」
あたりで、高架となり、
「忠義站;Jhongyi」
くらいから、今度は地上を走る状態になる。
そしてその先、
平行して流れる河と線路の間に広がるマングローブの原生林を抜ければ、そこが目指す淡水の街だ。
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傳統排骨便當 2006.11
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前回の旅行では、ピクニック気分を高めようと思って河口の街を目指したのだった。
「せっかく郊外へと向かうのだから」と、台北車站(台北市の中央駅)で有名な駅弁を買って準備をした。お弁当はステンレスの密閉容器に入っていて、しかもトートバックに仕舞われていた。
そういった仕様にも驚いたのだが、さらにその名前が凄かった。「傳統排骨便當(チュァントン パイグー ビェンダン)」というもので、「伝統的な豚カルビを載せたお弁当」という意味であった。
「排骨(パイコーまたはパイクー)」は秋葉原の老舗「肉の万世」へ行けば似たものが食べられる。ラーメンに載せた「排骨麺」がそれで、店では有名な一品だ。
お弁当の容器は2段になっていて、おかず用のトレーがご飯の容器とは別になっている。そのトレーでは台湾名物とも言える煮玉子が顔を見せるが、やはりキャベツに乗った排骨が主役だろう。豚バラ肉なのでコクが深く、独特の味わいがあった。薄れ行く記憶の中でも鮮明なのはそのボリュームで、文句の付けようが無い程だった。容器が素晴らしいだけではなく、内容も申し分のない、充実したお弁当だった。
ところで淡水の街には川に沿って「古老街」という通りがある。
古い煉瓦造りの建屋も残っていて、ちょっとエキゾチックな雰囲気が溢れる通りであった。横丁というか、路地というか、そんな小路の風情が何とも言えず素晴らしい街区だ。小皿料理(小吃;シャオチー)や屋台風の食べ物屋さんも辺りには多く、いくつかの名物(料理)が楽しめる。
「超高霜淇淋」というかなり長く巻き上げたソフト・クリームが有名で、川面を眺めながら食べ歩くにはもってこいのものだろう。「阿香蝦捲」という蝦(海老)を揚げて串に刺したものや胡椒餅などを楽しみながら街を散策できるところが、何とも良いではないか。
その古い街区を歩いていたら、由緒ありそうな教会が建っていた。
この地に近代医学を持ち込んだ医師でもあり宣教師でもあった「マッカイ博士」という先人が建てたものだという。その教会(礼拝堂)はドイツ風の煉瓦造りの特徴を持っていて、美しい姿で建っていた。北部台湾で最初の西洋式診療所を開いた博士は、この礼拝堂も同時期に建設したのだという。
しかし残念ながら当時の建物は今に残っておらず、これは1933年に再建されたものだという。
私は、淡水河の川面を挟んで裾野を引いた美しい山容を見せていた「観音山」に続いて、この特徴ある「淡水教会」もスケッチに残す事にした。
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「古老街」は淡水きっての繁華街だが、そのすぐ横手、中正路の通りに並んで、駅から海までの間ずっと続く素敵な遊歩道がある。
その遊歩道(そういえば通りには「中正記念市場」と看板があった)は河岸に沿っているので、随分と気持ちの良い散歩が、ゆったりと出来るはずだ。
長く続く遊歩道は川の右岸の際にあるので、歩道の片側だけにお店が並んでいる。河口に向かって店の連なる右手側と違って、歩道のもう一方の側は川岸になっていて、何もめぼしいものが無い。仲見世のように両側に店を並べることも出来たのだろうが、思い切りよくそうしなかったようだ。河の景観を大切にしているその姿勢が、何ともいいではないか。
その遊歩道は「黄金水岸」という美しい呼び名が付けられた、随分と人気のある通りだった。淡水河の東側の岸辺(つまり右岸)という事になるのだが、夕暮れの迫る刻限に近づくほど人通りが多くなってくる。
何故かと言えば、岸辺の遊歩道からは河の対岸へ沈んでいく美しい夕陽が眺められるからだ。
陽が沈み行く景色を眺めるのは、またとない素敵な気分に浸れると思う。ロマンチックな香りを漂わせつつ、しかしどこか淡い寂寥感を伴った気持ちが湧き出す。
その何とも言えない気分がいいのだ。そんな素敵な時間を過ごせるのであれば、恋人達は元より、誰しもが、このエキゾチックな河口の街を目指して集い来るのも頷ける。
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淡水の街並み (淡水老街)と紅毛城の丘の麓に建っていた平屋の民家。台湾で平屋を見るのは珍しい。
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遊歩道を歩きながら、横を流れる川面を眺め、そして夕陽を眺める。河は沈み行く残光を照らし出す。金色の光彩を放って、川面が煌く。
そんな美しく移ろう色に染まって変化を見せる黄昏時から日暮れまで、ここでは雰囲気溢れるそぞろ歩きが楽しめる。コウモリが飛び交う夕暮れの「逢魔が時」は瞬く間に過ぎてしまうが、その後は、もうひとつの楽しみが待っているだろう。
遊歩道に並行した繁華街が河川の右岸にある。陸側に一本入った通りなので、実は繁華街の通りから川面は見えないのだが、川の流れに負けない人の流れがあった。そこは淡水の観光夜市のエリアで、賑やかなアーケード街なのだった。
若者に人気があり、彼らを客層の中心に据えた店も多い。通りが混雑する様子は、まるで夏祭りの縁日の屋台が並ぶ中を人波を分けて歩くかのようだった。随分と人気がある通りで、人の流れが絶える事は無い。ひしめく程になってしまうと思えるほどに、人の密度はどんどん増すばかりだった。
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夕暮れの淡水河の畔。
明かりが瞬いているのは、淡水観光市場、夜市が開かれる通りで、賑やかに人々が行き交っていた。
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< 「新北投」站(駅) 北投温泉 へ泊まる >
初日は温泉地として名高い「北投;Beitou」で宿泊する事にしていた。この宿泊先には有名なホテルが多く、つい最近、能登の有名な老舗旅館の「加賀屋」さんも進出して、日本の真心と「おもてなし」を届けている。
「北投」は古い歴史を持つ温泉街で、台北の格好な保養地となるように開発された。東京にとっての熱海温泉のような位置を目指したもの、という事だ。
町の中心は大きな公園であって、その緑の一廓を取り巻いて通りが走っている。その路に沿って大規模なホテルが並んでいた。ホテルが建ち並ぶ様子とはかけ離れた鬱蒼と茂る緑が公園を満たしている。そして美しく大きな公園を縦貫して、綺麗な川までがあつらえた様に流れている。そうした草むらや木立ちや小川のせせらぎなど、目を和ませる自然が随所に溢れていた。
「地熱谷」という源泉地が、街の上部にある。その辺りから流れはじめる川なので、水流には温泉が流れ込んでいるのだという。もしこれが日本だったら、冷え込んだ朝などは川筋をとり込めて淡い靄が立ち込めるところだろう。
台湾は言うまでも無く火山島なので、各地に温泉が湧き出していて、多くは温泉地として開発されている。島の北部の海岸寄り(台北の郊外域)にも幾つかの温泉があって、「北投温泉」もそのひとつだ。実はその土地は、日本人が開発した有名な温泉地であった。
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北投公園の中にある「台北図書館 北投分館」
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2012年、
「世界で最も美しい
公立図書館ベスト25」
に選ばれたという有名な建築物。
外壁は木造で、
壁の一面は植物で覆われている。
館内は
エコ・システムや
ソーラー・システムが
採用される。
さらにトイレや植木の水には雨水が利用されるといった徹底振り。
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公園内には、日本統治時代の1913年(大正2年)に建築された素晴らしい「温泉会館」が保存(再生)され、今では「温泉博物館」として再利用されている。
その歴史的な建造物の隣には、さらに特色溢れる大型の建物があった。台北図書館の別館がそれだ。入口側は普通の様子なのだが、大きな建物の右壁面は全体が植物に覆われた仕上げになっている。巧みに木の温もりを外観に取り入れていて、一見すると木造かと思ってしまう部分もあった。
その壮麗な図書館の横手には小径があって、建物の横に続く植林帯の奥へと続いていた。その小径は木々の間に静かにあって、喧騒を離れて心を鎮めながらゆっくりと散策できるものだった。細心の注意を払ってそうした工夫が為されていて、心憎い配慮が随所に溢れていた。
図書館入口の横に小さな噴水があり、温泉が流れて溜まる泉(池)があった。私は図書館の入り口の様子が気に入って、そこをスケッチすることにした。
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< 北投公園にて 温泉博物館 >
「台北市立図書館 北投分館」の入口側でスケッチを終えた私は、図書館の裏手へと向かい、園内をぐるりと廻ってみることにした。
小径を進んで、段差になった場所を降りていくと園内を流れていた小川を渡るために架けられた橋の横に出た。架かっている小さな石橋を渡ると、その対岸に一際目を惹く建物が現れた。
それは「北投温泉博物館」の建物だった。前の晩、ホテルを探して彷徨って、公園脇の2本の道路をひと回りして歩いたのだった。その時に目にした東屋風の入り口が気になって写真に撮っていた。
そこには「温泉博物館」を示す看板があったが、しかし大した建物ではなさそうだ、と思った。暗くて全景が認識できなかったのだが、目にしたのは道路に面したこの建物への入口にしか過ぎなかったようだ。
博物館は公園の中にあって、2階建ての大きな建築物だった。
1階の外壁はコンクリートや煉瓦、その上に載る2階の外壁は木造という、ちょっと変わった造りになっている。この建築様式をビクトリア様式と呼ぶそうで、日本統治時代での民間向けの建屋が備えた特色らしい。
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台北市立図書館 「北投分館」
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北投温泉博物館
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博物館の建物正面は、睡蓮が咲き誇る綺麗な池があった。その池を中心にして遊歩道が取り巻かれており、散策が愉しめる環境になっていた。
博物館の建物が配置されているのは、図書館の裏手になる場所だ。蓮池や博物館や図書館の分館などが、公園を取り巻く両方の道から一段下がった位置にあり、園内に美しく配置されている。
大きく育った樹木が日陰を造っていて憩いの場を提供していた。園内には自然が溢れ、多彩な緑が多いのだ。スケッチを2枚描き上げる頃には、私はすっかり北投公園が好きになっていた。
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北投 「温泉博物館」
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入場無料の「温泉博物館」は、誰もが愉しめる施設だろう。
館内を見学してみると、ゆったりとした間取りで、そのゆとりある造りが気持ちよかった。天井高があるためだろう。部屋はどこも広やかで、廊下や階段にも伸び伸びとした開放感があった。
明治の中後期から大正期、そして昭和初期の頃の建築物に多く観られる様子があった。古い日本が備えていた、きちんとした建築様式の建物の姿が充分に楽しめた。
館内はどこも広々としていて、休憩所である2階の広間(和室)や、ドアや階段の建具なども贅沢な仕上げであった。なにより美しいステンド・グラスやタイルで装われた大きな物や小さなものまで、様々な湯船のある1階の様子が素晴らしく、見とれるばかりだった。
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北投公園で出逢った我が導師のスケッチ
描かれているのは北投公園の川の様子。イエローの使い方が素晴らしい。
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北投 「温泉博物館」
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外に出てみた。建物の横にはコンサートが開けるような広い屋外ステージがあった。
そのステージの部分が公園の一番奥になるらしく、そこから道面へと折り返しの階段が設えられている。階段を登って建物側を振り返ってみたら、その壁面は見事な煉瓦造りになっていた。
私はその様子にしばし見とれ、階段上の少し広くなった場所から建物の裏手の様子をスケッチする事にした。
中山路(新北投站から見て向かって左手側の道路)の道横にちょっとした張り出しスペースのように空間が作られていた。そこに大きな樹木が植えられて、憩いの場として整備されていた場所のようだ。その木の根元にある石のベンチに位置を取って、見下ろす位置にある美しい建物を描くことにした。
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3日目;歩行距離 22,091歩 14.3Km
この日の午前中は、「孔子廟」や「医療大生廟」といった名所旧跡を訪ねることにした。
「圓山站:Yuanshan」」でMRTを降りて、「庫倫街」入り口から街路を通り抜けた先に、その広大な廟を構成するいくつかの建築物があった。何層にも重なった壮麗な門。一際壮麗な殿舎。そして、その周りを取り巻く回廊状の建物。後ろに控える講堂。
そうした一群の建物が、厳かに建ち並び、街の一廓を占めていた。
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圓山站 (円山駅)前
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圓山;孔子廟 「黄門」
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「孔子廟」や「医療大生廟」の造りは、いわゆる道教寺院の壮麗な建築が為されている。
「廟(びょう)」とはつまり聖人や偉人を祀ったお墓であり、いわば聖地であり、ある種の聖域という訳だろう。そうした偉人は、日本ではやがて神格を持つにいたり、神社の御神体となっていく。あるいは、霊廟として墓所或いはそれを祀る寺院が尊ばれることになろう。
しかし台北の地にある廟は、そうした方向とはちょっと様相を異にしているように思う。日本で言えば、桃山文化風とでも言ったらよかろうか。建物の構造もそうだが、その装飾性は非常に高いものだ。
絢爛豪華な様といったら、比類が無かろう。奈良や平安時代の仏教寺院の趣とはまったく違っていて、どちらかといえば江戸初期の寺院建築に似ていようか。
屋根も軒庇も、あるいは屋根を支える梁や到る所の柱、それら建物を構成するどの部分を抜き出しても、それだけで単独の美術品となろう。誇張ではなく、どこもかしこも目を見張るほどに華美な装飾が施されている。
天女が踊り、聖人が散歩を楽しんでいる様子が再現されて庇を飾っていたり、そこでは龍が飛沫とともに踊っているし、孔雀が羽を休めて天を仰いでいるのだ。
つまり西方浄土や涅槃という境地や概念を表現すると、このような事になるのだろうか。神田明神からも近い「湯島聖堂」を知る日本人からすると、ちょっと驚いてしまうだろう。
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本当は、孔子廟の中心をなす御殿風建物の「大成殿」を描きたかったし、壮麗で絢爛豪華な「医療大生廟」を描きたかった。
でも、とても私の腕などでは歯が立たないような、複雑な構成を持っていて、スケッチするのは断念せざるを得なかった。何時までも佇んでいても仕方が無いので、次回までに修業しておく事をそれらの建物に約して、その場をすごすごと退散したのだった。
たとえば柱の一本でも良いから、思うままにスケッチできればなあ、とため息をつくばかりだった。
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医療大生 廟の主殿
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士林官邸へ向かう歩道
官邸入り口の脇にあった美しい公園。
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午後は「士林:Shihlin」へ出掛けた。
かの「故宮博物院」への玄関口となっている街なので、故宮へ行きたくて士林へと向かったのだ。でも、少し気が変わって故宮へ向かう前に「士林官邸」を訊ねてみることにした。
故宮へは(改装中だったが)前回訊ねていた。一方蒋介石総統が利用したという官邸跡へはまだ行ったことがなかった。
広い敷地に自然が溢れ、美しい庭が特徴となっている施設。
日本統治時代の昔、当時の台湾総督府の施策として「園芸試験場」として建設された施設があったのだという。それが基礎となって、今に残る官邸の美しく優雅な庭を形作っている。
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士林官邸内の庭園に設けられた「涼亭」
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士林官邸内の「凱歌堂(礼拝堂)」
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士林官邸の愁眉はもちろん「官邸正館」なのだろうが、他にも目を惹く建物がある。
庭園を挟んだ先にある、煉瓦造りの建屋などもそのひとつだろう。敬虔なクリスチャンであったという「蒋介石」初代総統と婦人の「宋美齢」が礼拝していたというプライベートな礼拝堂だ。
日本統治時代の煉瓦造りの建物なのかと思いきや、何のことはない、第二次大戦終結後の1949年に建設された物なのだという。
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総統府
台湾の政庁。
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4日目;歩行距離 7,485歩 4.8Km
北投公園で出逢った同好の士に勧められて、「ニニ八和平公園」へと足を運んだ。台北の行政区の中心地区である「総統府」の横に、その公園はあった。
この公園は都会の中にあってあたかもオアシスのような存在だ、と言ってもよいだろう。豊かな緑が溢れている美しい公園だった。ロケーションの良さとも相まって、台北の人達の憩いの場となっているようだった。
日本統治時代に公園として整備されて以来、今日まで台北を代表する優美な公園であるが、その完成はかなり古いものだった。なんと1908年(:明治41年)の事に遡り、今年ですでに100年を越えるという長い歴史を持っていた。しかも竣工から完成までに13年に渡る歳月を費やして建造したということだ。
「都市公園」とは、施政者側からしてみれば<公益施設>である。驚くべき事だが、「公共の福祉」などといった政治概念(政治概念自体は古く紀元前に遡るのだが・・)が無いほどの古い昔(帝国主義が台頭した時代)に、莫大な予算を割いてまでして建造したものだった。当時の時代性を考えれば、稀有の出来事と言ってもよいかも知れない。
何故なら議会や集会場などの政治施設や行政施設ではなく、収益(維持管理費の補填)が見込める公営施設でもなく、その施設が純度の高い「公園」であるからだ。政権が存続する限り、或いは体制が維持される限り、未来永劫に渡って維持運営し民衆へ向かって無償で公開し、提供し続けていくという性質を公園は持っている。
つまり、その施策は建造して終わりになるものではない。整備や管理や運営をずっと継続するのだ、というしっかりとした覚悟を伴う。自分達の世代で成し遂げるだけでなくそれをしっかりと次世代へ繋げていかなければい。だから建設を決めるには、時代(世代や周辺を含めた政治状況)を超えた大きな判断が必要である。
ここまでの規模を持つ公園となると、生易しい決意では建設できないような、国を挙げての施設と呼べるものだったと思われる。
しかも、欧米列強が富を収奪するための支配地として、アジアをはじめとした未発展の地域を自国の支配体制内に取り込みつつあった帝国主義の時代の中にあって、日本が採ったこの取り組みの意味は大きなものだろう。富を収奪するとか、軍事支配して圧政を敷いて弾圧するとか、そういいったいわゆる「植民地化」などという政治的な意図は、極めて希薄であったのではなかろうか。
初等から高等(大学制)に到るまでの体系的な教育を施し、電力開発・工業・農業に及ぶ広範な産業を興し、都市を建設して豊かな民政を敷いた。そうした来歴を思えば、さらにこの公園は素晴らしいものだと思えてくる。
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総統府のスケッチ
時間の余裕が無くて、
結局のところ着彩までには到らなかった。
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公園の様子に関しては旅の4日目のページで詳しく書いているが、実に広々と空間を使っていて、何とも言えず素晴らしい雰囲気があった。
深い緑色に辺りを染めて、鬱蒼と茂る樹木で作られた森。その木立ちには、松鼠(台湾リス)が遊び、多くの鳥達が朗らかにさえずっている。
訪れた人は皆、この公園の魅力に包まれて過ごす事が出来る。だから暫く園内を歩けば、一遍に好きな場所になってしまうことだろう。青い空の下、芝生に陣取ってのんびりとすれば、そこが大都会の只中である事を忘れてしまうに違いない。
平和を願い、弾圧の犠牲になって亡くなった台湾出身の知識層を悼んで、その独立運動を顕彰して建てられたというモニュメントが、一際存在感を示して、高く天へと伸びている。
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ニニ八和平祈念公園ある涼亭
同じ形態の涼亭が二つ、2層の鐘楼がひとつ、建っていた。
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台大醫院
日本統治時代に
創立された
台湾大学医学部の
教育研修病院が
その発祥だという。
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公園の横にあるのが、駅名の名前にもなっている有名な病院。
台北は勿論、台湾を代表し、さらにはアジアを代表する病院だ。規模が大きく、医師の数や病床数は素晴らしい数字を持っている。そしてその医療の質の高さは特筆に価する。
医療大生を祀る土地柄だけあって、医療分野への意識が高いのだろう。それに、日本統治時代の教育のあり方も関係している様に思う。俊優達、優秀な学生はその進路が限られていて、政治家や法曹家になる道は建たれていたからだ。優秀な学生の進路としては、教師や医師となる路を選択せざるを得なかったからだ。
しかし、それがために、教育分野や医療分野での層が広く厚いという台湾の在り方を形作っているように思う。
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台大醫院のスケッチ
残念な事に、デッサンのみで着彩する時間が無かった。
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