夏の日が暮れていく、その「時」が好きだ。
楽しい時間がもう終わってしまうといった感じがなんだが寂しくて、子供の頃はむしろ嫌いな時間帯だった。
青年の頃は何につけ必死であって、一日を省みる暇などある筈も無く過ぎていった疲れて眠りに入り気がつけば朝だった。
もう少し年を経ると、昼は社会の中で自分を殺し、夜になると本来の自分の世界に戻れる気がした。
だから、夜は比較で言えば楽しい時間だった。
その頃には夕暮れに対する感傷的な感想は無くて、流れる時の一部でしか過ぎす、他の時間と区別するような心の動きは
ひどく弱いものだった。
40歳を超えたくらいの少し前には少年の頃に近い感覚を持っていた。
夜半眠りに着くときもそうだが、夕暮れなどには切実なものがあった。何もせずに終わってしまった焦燥感であったり、
比較的に上手くいった日が終わってしまう愛惜というほど強くは無いが残念な感じであったり、さまざまな思いが溢れた。
今は、なんだかもう少しゆったりとしていられる。温かな味を伴った充足感があって、
それは、黄昏のなかで感じる寂しさや、一日の終わりを思う残念さ、などの感じや気持ちに勝っているようだ。
子供の頃のようなじわりと締め付けられるような寂寥感が減ったように感じる。
「年をとる」とは、つまりはそういうことなのだろう。
暮れ行く日、過ぎし日を惜しむけれど、そこには少し満足感が入ってきていて、せっかく楽しかった日がもう終わってしまう
という、あの何ともいえない気持ちが変化していく。
今日は楽しい日が過ごせたな、と少し微笑む事が出来る様にもなって来る。
言ってみると夜を迎える気持ちに余裕が出てくる、ということだとうか。
気がつくともう随分前からそうした変化が訪れている気がする。
寝床に入ってからも諦め切れず、このまま眠ってしまうのがもったいない、と感じる強い想いが薄くなっている。
でも、それは、同じような楽しさがまたいずれ巡ってくると信じているがためだろう。
不幸な生活や病床にあってはそうは思えまい。
体に故障があっても辛うじて健康であるが故に、到達できるほんの少し贅沢な性質の混じった想いなのかも知れない。 |
|