のんびり行こうよ

コラムのサブページへもどるコラム 本日の反省のページ へ       Top Pageへもどる Top Pageへ戻る


本日の反省 または 雑記


 本日の反省2011・20121へ 本日の反省(2011・2012)のページ
 本日の反省2010へ 本日の反省(2010)のページ
 本日の反省2008へ 本日の反省(2008)のページ
 本日の反省2007へ 本日の反省(2007)のページ
 本日の反省2006へ 本日の反省(2006)のページ

雑記としたのは、メッセージ性の無い内容となる可能性があるためだ。
いや、むしろ備忘録というところか・・・。 私的な内容で恐縮する。
        管理者へメールを送る

2009年10月23日(金)
霜降  スポーツに勤しむ
 
 10月ともなると、秋は中盤といった感じになる。

 この10月は色々と忙しかった。いや、仕事ではなく趣味関連・・・。
 しかも「写真」よりもむしろ「自転車」で、まさに「スポーツの秋!」だ。

 久しぶりに乗り出そうと思ったら、愛用のクロスバイク(SPALDINGブランド)のタイヤがバーストした。
 だからタイヤを新調して、前後輪ともに入れ換えた。
 戻って自転車をGIANTのESCAPEに取り替えて、見沼の彼岸花を楽しみながら50km程を走ってみた。
 武蔵野の風景を感じて自転車で走って見ると、やはりそれは壮快なものだった。

 その気分が冷め遣らず、下見として東浦和周辺を走り、その上で2台の自転車が出動しての「ポタリング企画」を案内した。
 ワンゲル(会社のサークルで、ワンダー・フォーゲル部)の中間達と共に見沼の秋を満喫し、100kmを走った。

 今までの自転車との関わりの中では一日での最長距離を走った事になる。
 私の場合、走るといってもせいぜいが60kmほどだった。
 改めて100kmを走ってみると、連続して数日間、コンスタントに走るのでなければ大丈夫らしい、というのが感想だ。

 9月はやっと落ち着いて旅行にも行けたが、今月も大丈夫だった。
 体調自体は6月からの疲れが噴出して余り良いものではなかったが、次第に回復傾向にあるようだ。

 落ちた体力を取り戻そうと、休日には努めて自転車に乗っていて、今のところほぼ毎週末走っている。
 40kmほどの距離だが、2時間走り続けることは何程でもなくなってきた。


 こうしてまた走るようになると、以前にも増して中年ライダー(今風に言えばチャリダー?)が多いことに気付く。
 「荒川サイクリングロード」はさいたま辺りの「銀座通り」ともいえるのだが、そこでは親父達がそれこそ連なって走っている。

 図らずもトレーンになってしまっているようで、健康ブームのお陰というか、何というか。

 これは一体どうしたことだろう。
 そもそも、スキーのオフトレーニングで自転車に乗り出した頃は、これ程の盛況ではなかった。

 コースで、たまにすれ違う人とは妙な親近感があって、ハンドルに置いた右手を手首から軽く揚げて互いに挨拶をしたものだ。
 ところが、今ではすれ違っても会釈もなく、勿論、私が送る挨拶にもほんの数人しか返礼してくれない。
 盛況さとは裏腹に少し寂しい気分がするが、「流行(はやり)」や「メジャー・スポーツ」になるというのはそういう事なのだろう。

 そうは言っても、やはり自転車が持つ、「風を感じて進む時の爽快感」は捨てがたいものがある。
 だからまた、荒川周辺でのポタリングを企画してしまった。

 前回の反省を込めて、今度はサイクリングロードを走るので、むしろサイクリングと呼んだ方がいいかもしれない。
ページTopへ移動 今回の反省の先頭へ戻る
2009年9月23日(水)
秋分  懐かしい味
 お好み焼き

 九月が終わるというのに相変わらず暑い日が続くが、気が付けばもう秋がすぐそこまで来ている。
 
 そうした季節の移ろいは、特に一日のなかでは明け方と日暮れとで感じることがある。
 十月後半ほど顕著ではないので、その変化は何気なく過ぎてしまう。
 
 朝、起きて、急に肌寒いと感じる日がある。それまでは感じなかった、染み込むような肌寒さだ。
 また、夕暮れ時、家の裏などの日陰は、思いのほか暗さを増している。 日が落ちる前から虫の音が高く伝わってくる。
 
 なにげない一日が終わるとき、夕暮れに輝く星も夏のころとは違って澄んだ光を放っているように思う。
 
 家の近所では、気の早い「キバナコスモス」が咲きそろう。キバナではない馴染みあるコスモスが咲くのはもう少し後だ。


 十月三日は急に寒い日になって、なんだかお好み焼きを食べたくなった。
 
 秋の入り口の肌寒い日。そういう日にはホット・プレートを囲んでわいわい言いながらお好み焼きを焼きたくなる。
 「お好み焼き」を焼いて食べるということは、外で料理して食べる楽しみを屋内に持ち込んだものと言えるだろう。
 
 便利なもので、前回の「もんじゃ焼き」と同様にキットとしてセットされている。玉子とキャベツと肉を足せば、準備完了だ。
 切りイカ、天かす(揚げ玉)、桜海老、青海苔、が小麦粉と共にパックされて入っている。
 小麦粉も山芋などが添加されたお好み焼き用にアレンジされたものだ。
 
 刻んだキャベツは、我が家の場合には、溶いた粉に玉子と共に混ぜてしまうのが、関西風〔広島?)との違いだろうか。
 プレートが温まったら、肉を焼く。同時にウインナーを焼いて食べたり、餅を焼いたりもする。
 これらは私と子供のつまみ食い用だ。肉が半分ほど焼けたところで、混ぜた粉を上から掛けて円形にし、蓋を被せて焼く。
 裏も焼いて、最後に青海苔、マヨネーズ、お好み焼きのソース(「おたふくソース」)、それから削り節を掛けて出来上がり。
 
 今回は、「ねぎ焼き」や「チーズ入り」も楽しんでみた。これらは和風味にするので、ソースではなく、軽めの醤油で味付けを
 する。
 「もんじゃ焼き」も楽しいが、屋台料理好きの私としては、よりボリュームのある「お好み焼き」のほうが愛着がある。


 私が小さかった頃、母はよく「すいとん」を作った。
 あの食感はもっともっちりとしていて小麦粉で作ること以外はあまり似てはいないものだ。
 私は知らぬうちに、どこと無くお好み焼きにすいとんの共通点を見ているのかもしれない。
 
 不思議なもので、お好み焼きを食べると訳も無く懐かしい気持ちになる。


 お好み焼き(和風チーズ明太子)  お好み焼き(ねぎ焼き)
ページTopへ移動 今回の反省の先頭へ戻る
2009年8月23日(日)
処暑  パソコンとの相性
 新しく買ったONKYOの音楽用パソコン「HDC−1.0」では、メーカーサイトからのダウンロードで高品質の音楽が楽しめる。
 共振の排除やドライブ音の低減、数々の静音化を施された構造、アナログでの高音質を謳った専用のオーディオ・ボード。
 それは従来のパソコンの音とは一線を画すもので、購入から数ヶ月経ったが実に満足している。
 
 音と同時に映像も楽しもうと思った。そのため、「地デジチューナー」を買った。USBで接続するタイプで、複数のパソコンで
 利用が出来る。
 
 地デジチューナーは、以前買った「ワンセグ」のUSBスティックとはまるで別のものだった。
 さすが「フルセグ」と感心するほどの実に精彩な画像が現れた。

 これなら、出力(接続)をアナログからデジタルに変えれば、その画像や映像はさらに素晴らしいことになるだろう。
 
 そう思い、更なる画質を求めてパソコンのディスプレイをブラウン管から液晶に替えた。
 高画質にコントロールされ、色再現の調整も可能な三菱のワイド21インチだ。これがまた素晴らしい。
 文字や写真などの画像が見違えるほどクリアに映る。元のディスプレイも三菱製で高画質だったが、今度もいい色だ。
 パソコンの映像端子はデジタル仕様なので変換コネクターを使ってアナログ化して接続していたが、これからは直接、
 デジタル信号のまま出力が出来る。
 
 USB接続の地デジのチューナーをつけてみた。早く観たいが、このチューナーは起動が遅い。
 なんだか随分待った気がして、やっと画像が現れた。すると直ぐに「このコンテンツは保護されています」と表示されてビューア
 ソフトが勝手に終了してしまった。
 「何のこと?」と思った。新しいディスプレイはHDCP対応製品で、デジタル再生は問題ないはずだったのに・・・。
 
 すると、パソコンのオンボードのせいだろうか。あるいはIntelのグラフィック・チップが駄目なのか?。

 グラフィック・チップは微妙で情報が少なく、仕方が無いのでONKYOのサイトでパソコンそのもののFAQなどを調べてみた。
 「HDCPには対応していない」という事が書かれていて唖然としたが、そうなるとアナログ変換して接続するしか方法が無い、
 という事になる。
 折角デジタルでの高画質(静止画)を味わったのに、アナログ接続へ逆戻りできるものか。機械側はアダプターひとつで簡単
 に変換出来ても、私の気持ちが対応できない。
 
 ボードを挿すためのPCIソケットはメーカー自慢のオーディオ・ボードで塞がっている。だからこのマシンにボードの増設は出来
 ない。
 それなら、もう一台のパソコン(自作マシン)にデジタル対応のグラフィック・ボードを増設して地デジチューナーのデジタル接続
 を可能にすべきではなかろうか、と思った。新規購入したHDC−1.0では無く自作側を機能拡張すれば良いわけだ。
 
 結局、「HDC−1.0」は高音質に特化した音楽専用マシンのままにするしか無さそうだ。
 HDCP非対応であれば外付けのブルー・レイ・ドライブなども接続できない、ということになるのだから。
 新規に購入したものだが、映像系の新機構を取り入れるための機能の拡張性が考慮されていないとすれば、ユーザ側では
 このマシンに対してなんら対応策の執り様が無い。
 メーカの謳う「音楽再生に特化」という機能的な特徴を尊重して、ダウンロードしたものの管理や手持ちの音源の管理を
 を主要な利用目的とした<ミュージックサーバ>として利用するのが、やはり最適なようだ。
 
 
 自作マシンでデジタル映像を賄なおうとした場合、その為には自作マシンの既存のPCIポートを開放する必要がある。
 今着いている「SCSIボード」とアナログ放送対応の「TVチューナーボード」を外さなければいけない。
 だから二つを外し、ついでにディスクも整理しようと思って「チェックディスク」や「デフラグ」、不要ファイルの削除など、一連の
 作業をした。
 
 整理という作業のおかげでディスクは快適になったはずなのに、システムのブート中にエラーが出るようになってしまった。
 DVDからのシステム起動ならできるが、これでは使えない。何度かシステムの復旧インストールをしてみたが、駄目だ。

 仕方が無いので、システムを別の領域に新たにインストールする事にした。
 
 DVDからシステムを起動して、新たに用意した外付けディスクをUSBで接続してそこにOSをインストールする。
 
 インストールする外付けディスクのセクターを初期化したつもりが、既存ディスクのパーテションを削除してしまったようだ。
 結局、内臓ディスク内のすべてのデータが駄目になってしまった。
 
 仕方が無いので、別に持っていたディスクを組み込んで、新規にシステムインストールやドライバーのインストールからやり
 直した。
 素に近い状態にして軽くなったはずなのだが、取り外し、接続を繰り返したためだろうか、電源の投入でマザーボードでの
 BIOSブートでエラーが出る状態になってしまった。

 最初から妙なパソコンだったが、天邪鬼にも程がある。あるいは、マザーボードの寿命がたまたまやって来たのか・・・。
 すべてを外して再度組んでみたが、どうも駄目のようだ。
 
 暫く放置していたが、諦めてマザー・ボードを新調する事にした。今度はグラフィック・チップの対応にも注意して製品を決めた。
 CPUは初めてINTELから「AMD」に変えてみた。マザー・ボードと石とのトータル・コストを落とすための選択だ。
 なんとかシェアウェアを探して、パーティションを削除してしまったディスクのデータ復旧はできたが、いつまた問題が起こるとも
 知れない。
 結局sATA仕様のディスクを新たに着けてOSからインストールしたので、箱は同じだが新規に組んだ状態になった。
 
 ここまでくれば悔しいのでDVDをブルー・レイ書き込みの内臓ドライブに付け替えた。
 
 こうして、計画も無く新パソコンが二台になったが、考えてみればオーディオ・ボードはメーカーから単品で販売されている。
 ならば、音楽再生に特化したパソコンを購入するのではなく、最初から拡張性のある新しいパソコンとして考慮すべきだった
 ということに思い至ったのは、組み直した自作パソコンを使い始めてさらに暫くたってからだ。 
ページTopへ移動 今回の反省の先頭へ戻る
2009年6月21日(日)
夏至  夏の夕暮れ
 夏の日が暮れていく、その「時」が好きだ。

 楽しい時間がもう終わってしまうといった感じがなんだが寂しくて、子供の頃はむしろ嫌いな時間帯だった。
 青年の頃は何につけ必死であって、一日を省みる暇などある筈も無く過ぎていった疲れて眠りに入り気がつけば朝だった。

 もう少し年を経ると、昼は社会の中で自分を殺し、夜になると本来の自分の世界に戻れる気がした。
 だから、夜は比較で言えば楽しい時間だった。

 その頃には夕暮れに対する感傷的な感想は無くて、流れる時の一部でしか過ぎす、他の時間と区別するような心の動きは
 ひどく弱いものだった。

 40歳を超えたくらいの少し前には少年の頃に近い感覚を持っていた。
 夜半眠りに着くときもそうだが、夕暮れなどには切実なものがあった。何もせずに終わってしまった焦燥感であったり、
 比較的に上手くいった日が終わってしまう愛惜というほど強くは無いが残念な感じであったり、さまざまな思いが溢れた。

 今は、なんだかもう少しゆったりとしていられる。温かな味を伴った充足感があって、
 それは、黄昏のなかで感じる寂しさや、一日の終わりを思う残念さ、などの感じや気持ちに勝っているようだ。

 子供の頃のようなじわりと締め付けられるような寂寥感が減ったように感じる。

 「年をとる」とは、つまりはそういうことなのだろう。

 暮れ行く日、過ぎし日を惜しむけれど、そこには少し満足感が入ってきていて、せっかく楽しかった日がもう終わってしまう
 という、あの何ともいえない気持ちが変化していく。
 
 今日は楽しい日が過ごせたな、と少し微笑む事が出来る様にもなって来る。
 言ってみると夜を迎える気持ちに余裕が出てくる、ということだとうか。

 気がつくともう随分前からそうした変化が訪れている気がする。
 寝床に入ってからも諦め切れず、このまま眠ってしまうのがもったいない、と感じる強い想いが薄くなっている。

 でも、それは、同じような楽しさがまたいずれ巡ってくると信じているがためだろう。
 不幸な生活や病床にあってはそうは思えまい。
 体に故障があっても辛うじて健康であるが故に、到達できるほんの少し贅沢な性質の混じった想いなのかも知れない。
ページTopへ移動 今回の反省の先頭へ戻る
2009年6月05日(金)
芒種  初夏の風
 風薫る五月、とは良く言ったものだと思う。

 梅雨に入る前の五月、冬の凍てつくような厳しさはそこには勿論もう無くなっている。
 冬から抜けきらない切迫感もなく、春先の穏やかで手を伸ばせば捕まえられそうな たおやかな風が吹き渡る。

 それまでに街中に吹いていたものと同じ「風」という言葉を当てては違ってしまう。
 そよ風というかなんというか、語感から感じ取れる雰囲気からすると、まさに「薫風」という単語が符合する。

 街中では味わいが薄れてしまうので、郊外、たとえば広い河川敷や緑の豊富な大きな公園などが良い。
 午後の三時過ぎから黄昏時までの間、あるいは暮れて一番星が光りはじめるまでの間、
 余裕があれば出掛けてみるとよいだろう。


 肌に優しい一陣の風が、心地よく地面をゆったりと渡ってくる。
 その風を突き詰めて、さらに味わいを増すためには、いっそ露天風呂などに浸かっても良いかも知れない。

 私が贔屓にしている「清河寺(せいがんじ)温泉」は日帰りの入浴施設だが、ここは露天風呂がいくつもあって
 天然掛け流しという贅沢が手軽に味わえる。寝湯、つぼ湯、熱湯、岩風呂、源泉湯など六種類の露天風呂がある。
 遥かな地底から湧き出したお湯の温度は34度と低く、そのため浴槽に入れる前に加温しているが、
 水は加えておらず湯船の中を循環もさせていない。
 なにより風呂自体が心地よいのだが、それに加えて竹林に囲まれた露天のロケーションが良い。
 そこでは、五月の午後のひと時、思うままに気持ちの良い風が味わえる。

 気温から改めて考えてみると、関東では十月頃にも同じ様な心地よさが味わえる。
 ただ、秋の場合には、春に感じるような新鮮味が薄い。これは、やがて来る冬を考えてしまうせいだろうか。
 そこで吹き渡ってくる風を言葉で表せば「華やぎ」ではなく、「落ち着き」の方が比重が増すように思うからだ。

 私は体調の関係もあって梅雨の季節が一番の苦手だ。その鬱陶しい梅雨を前にした至福のひと時が五月だ。
 そのことも、この時期に味わう風から感じられる、何ともいえない気分に関係しているのかも知れない。

 春や初夏は、いい。

 もし、この季節が無かったら、これ程、自然に思いを馳せる事はなかったろう。撮る写真も随分と違った物になったかも
 しれない。
 肉体への負荷が軽い分、活動的になれるし、精神的な動きも盛んになる。
 考えてみると、写真を撮る枚数はともかく、その機会はこの時期が一番多い。


 さて、私達は「美しい景色が見たい」と思って出かけていく。目的地までは遠く、長い時間を要して移動する。

 そういて辿り着いて得た目的の風景を眼前にして、いったいどれ程の時間、対峙しているであろう。
 たとえば、スケッチをする。携帯用の小さなスケッチブックであれば、スケッチに15分、彩色に15分、都合30分ほどで
 出来上がる。絵を描いていてさえ、その程度の短さだ。
 落ち着いてその場所で昼を食べるとしてもせいぜいが一時間ほどだろう。
 改めて考えてみれば、風景と対峙している時間は実は驚くほど短いものだったのだ。

 家の庭はどうだろう。そもそも庭があるという事が前提になる話だが、これは旅先よりも少し長い時間の対峙になるだろう。
 そのため、人は積極的に庭に自然の風景を移すのだろうと思う。
 陽の注ぐ縁側に腰を降ろしたばあ様などは、根が生えた様に長い時間を過ごしている。


 庭も持たず、頻繁に出掛ける事も少なかった昔、それは江戸後期から戦後しばらくの間だろうが、
 町内の銭湯は社交場であった。
 いくらかの時間を費やして浸かる大きな湯船からは、その幅分の遠大な風景が見えた。東海道中での富士の遠景だ。
 また、湯から出ると、そこには気の知れた人々がいて、時々の話題で活気付いて、賑やかに話し込んでいたりする。
  (学生時代に住んでいてお世話になった駒込の銭湯も、そうした雰囲気を充分に残していた。)
 それはまるで、旅先の宿での雰囲気と同じものではないか。江ノ島行や大山詣(おおやまもうで)など、昭和以前の
 庶民にとっての楽しい旅。
 町内の銭湯では、その小さな旅の擬似体験が出来たのだ。

 お伊勢参りや善光寺詣ともなると大分遠方なので、「講(こう)」を組んで資金を積み立てて何年かに一度訪れたものだろう。
 だからそれは、旅としては別格でむしろ庶民の言葉としての旅を超えたものだったと思う。冒険行に近かったと思う。

 そう考えると、私の好きな日帰り温泉。竹林に囲まれた風景を湯船から眺める露天風呂などは、さしずめそれら町内の
 銭湯と同じ種類のものであるのかもしれない。
 庭も無く出かける事も少ない今の私が、自然に浸る小さな旅を味わうための、それは疑似体験なのだ。

 存分に露天風呂に浸かりながら、静かな気持ちで眺めて過ごすのは、いつであっても気持ちの良いものだ。
 その気持ちの良い時間の中でも、初夏の午後は光の移ろいがゆったりと感じられる。

 特に三時から夕方までのゆっくりと暮れて行く様子がすばらしい。
ページTopへ移動 今回の反省の先頭へ戻る
2009年5月10日(日)
立夏  過ぎし日の出会いを思い出して
 「のんびり、行こうよ」のホームページはある人との出会いから始まった。
 「母の日のプレゼント」として薔薇の花のスケッチを描きに子供と出掛けた与野公園のバラ園での出来事だ。

 子供と一緒にスケッチをし、その絵を元に薔薇の前で話をしていたら、カメラを手にした人に声を掛けられたのだった。
 自分の開設しているブログで写真を紹介したいのだが、撮った写真を載せても良いか、という断りだった。
 子供と話している最中に、その様子を写真に撮ること自体の了解は求めに応じていたが、さらなる承諾の問いかけだった。

 その後、その素敵なブログは閉ざされてしまい見ることが出来ないが、その素敵な出会いがHP開設の契機となった。

 「写真を撮ること」は、私にとっては長年の趣味だが、他者へ向けて発信することが無かった。

 普通の人は他人へ向けて発表したいがために写真を撮るわけではなかろうと思う。
 結婚式や記念撮影などのイベントでの撮影は別として、野に咲く花や街角の様子や気に入った風景など、
 心にとまった情景を写す場合、その撮影意図の中に他者の存在をあまり意識はしていない、と思う。

 著作で言えば「読者」がその他者に当たるだろうが、写真の場合はなんと言うのだろう。観覧者とで呼ぶのだろうか。
 あるいはブログのようなフォトエッセイの場合は何と呼ぶのだろうか。やはり、「読者:だろうか。
 私は年間、ネガとリバーサルで60本(36枚撮りフィルム)を撮っていたが、それらを発表しようと考えたことは無かった。
 それがあのバラ園の出会いで変わった。

 その人のブログを見たとき、一つの物語の表現要素として一連の写真が撮られていた事に軽い衝撃を受けた。
 一枚の美しい絵としての写真ではなく、ルポルタージュに近い趣があった。
 とはいっても、それは撮影者の心象を反映したプライベートな視点に拠って物語られていた。
 撮影者の個性が滲んでいて、その感性から撮られ語られたものだから、客観的な視点で述べられるルポ=「報道」とは
 勿論違ったものだった。その主観的な世界は、いわば私小説の趣とでも言おうか。

 あの場所でこんな素敵な風景に出会いました、あのとき私はこんな素敵な出会いを味わいました、といったような、
 自分の目線でのふれ合いがさり気なく語られていた。その表現に打たれたのだ。こんな展開の方法もあるのだ、と思った。

 私が感じたものや体験した素晴らしいものがいくらかでも人と共有できたら素敵な事ではないか、と思った。

 このHPをはじめて四年になろうとしている。
 契機はそうした偶然の出来事だったが、HPを始めてみると新たな出会いがいくつかあった。

 そうした楽しみや喜びも、今までのフィルムで撮って大伸ばしするだけの写真撮影スタイルの中では無かったものだ。
ページTopへ移動 今回の反省の先頭へ戻る
2009年4月20日(土)
穀雨  在りし日の進路指導
 中学生の頃、担任の先生に「コンピュータの仕事に就きたい」という話をした。人とは違った変化のある仕事をしたかった。
 進路相談の面接でのことで、思い返せばもう30数年も前のことになる。

 なぜ、そんな風に思ったかはいまでも良く覚えている。
 小学校の三年生の頃だったと思うが、朝のテレビでスター・トレックが放送されていて、私は夢中になっていた。
 それが再放送だったのかどうか判らないが、週末の登校前の妙な時間に放送されていた。
 最後まで番組を見ると遅刻してしまうので、始業に間に合うギリギリの時間まで真剣に見ていたと思う。

 いろいろなエピソードがあるが、いつも物語のなかでカーク艦長や副長のスポックがコンピュータに向かって要求する。
 世紀は進んで恒星間飛行をしている宇宙船エンター・プライズ号に搭載されたコンピュータは高性能だ。
 各人専用にコンソールがあるのだが、船のコンピュータは常時待機状態にあって彼等は空間に向かって呼びかける。

 ボイス・コマンドが命令の実施(リクエスト)方法だから、手元にはコンソールがあるがキーボードによるタイプインはしない。
 「コンピュータ!」と必ずコンピュータが相手である事を宣言してから命令や要求を発する。

 分析を求める際に順次問いかけていって答えを絞り込む。
 問いかけの方法が悪いと、期待する回答が得られない事がある。
 答えが期待に合わないところなど、今にして思えば、NET上で日夜行っているキーワードによる検索にそっくりだ。

 物語の中でのやり取りが実に不思議だった。
 なぜ、問いかけに答えられるのか、あるいはなぜ答えられない場合があるのか・・・。
 そうした疑問が、いつしか期待に変わって、要求に難なく答えられるような優れた仕組みを作ってみたい、と思い始めた。

 私達が生きている時代は大きく変わって、きっと生活の中心の大きな位置をコンピュータが占める日がやって来るに
 違いない。少年の頃にそう予感し、自分はそんな仕組みを作る側の人間になりたい、と思った。

 漠然とした少年の頃の夢が、進路相談での会話の元だった。
 そのため、進路指導の席で私は商業高校の電算科(情報処理科)へ行きたいと言ったのだった。

 先生は 「そうしても良いが、世間というものは階級社会で、高位の仕事は学歴によって占有される。」相談の席では
 ヒエラルキーという言葉は使わなかったが、「プログラムにしてもシステムにしても初めに仕組みや何やかやを
 <設計する>仕事がまずあって、それらはより上位の学歴者が行う」 というのだ。
 つまりは、高校の情報処理科は即戦力には違いないが、その経歴では現場のオペレータとしてしか力を発揮できず、
 結局消耗されるだけで終わってしまう、というのだった。
 「だから貴方は大学へ行くべきで、その為には、進学校となる普通科を受験なさい。」それが恩師の言葉だった。


 そうして私は、自分で希望した職業を選択し、勤める会社は変わっても業種は変わらず、長年同じ環境の中にいる。
 決して満足できるような仕事が出来ているわけではなく、迷いばかりの毎日だが、少なくとも希望した世界の中には
 居ることになる。


 今年の春は、数年振りで新入社員への教育を担当した関係で、新卒のフレッシュな人たちと触れ合う機会が多かった。
 彼らの職業選択の動機や社会人としての気概を聴いていて、前述のような遠い昔の出来事を思い出したのだった。


 大学入学後に、私が企画して中学の同窓会を行った。
 その時、先生はまだお元気で、私がした当時の話に「そんな事もあったかな」と、と惚けて微笑んでいらっしゃった。
 商業高校や工業高校に進学した友人はすでに就職していて、その話を輝く笑顔で語っていた。

 皆、今頃はどうしているだろう。
 「不惑」を通り越して、もうじき10年。小学生の時分からの幾人かの親しい友人以外とは、実はまるで音信が無い。

 もう、きっと面変わりしていて、誰が誰やら判らないかも知れない。
 たまに、夢の中で彼らに再会するが、自分は年をとっていても登場する彼らは当時のままだったり、顔がおぼろだったりする。

 実際に判別できるかどうかという事よりも、むしろ話題が合うかどうかのほうが現実的な心配だ。
 たとえ、再会が果たせても、過ごした年月が長い分だけの環境の隔たりによる大きな壁があるように思われる。

 だから結局、深い話は出来なくて、せっかく再会を果せたとしても薄っぺらな世間話くらいしか出来ないかもしれない。

 今年のお盆には、久しく会っていなかった古い友人をたずねてみよう、と ふと思った。
ページTopへ移動 今回の反省の先頭へ戻る
2009年3月20日(土)
春分  加齢への手当て
 左足の付け根の違和感に気付いたのは、十二月の中頃だった。

 仕事があまりにも多忙で受診することができなかったが、二月初め、どうにも違和感が我慢できず、掛かりつけの病院へ
 駆け込んだ。

 人差し指の先程のしこりがあり、それが痛むし、気分が悪かったり、めまいがしたり、とどうも様子がただ事ではない。

 我が家の父方の家系は「癌体質」で、伯父・伯母、みなガンで亡くななっているし、従姉妹もそうだ。
 父も食道ガンで他界しているので、私のしこりもそうかも知れないと非常に不安だった。
 早く医者へ行かなければと焦ったが、仕事に区切りが付かない。
 そうした状況で、とうとう切羽詰って受診したのだ。

 エコーで検査して、「いや、心配するようなものではないです」という結果だった。
 先生の診立ては<鼠径(そけい)ヘルニア>であり、「人差し指(直径1cm)ほどになっていて、そこから何か組織が出て
 来ているが、まだ、重症ではない。
 手で圧を加えると腹内へ戻るので組織の癒着は無いが、早めの手術が無難だろう」との事だった。
 
 投薬や何かの措置で治療できるものではないらしく、治癒するためには手術以外に方法が無いらしい。
 スポーツをする場合には問題となり、腹内から出た組織が圧迫されたり損傷を受けたり、または癒着したり、
 という様々な懸念があるらしい。

 私は、そう聴いてすぐに手術を決意したが、仕事の状況がある。
 それも相談したら、病状から日程は調整出来るだろうということで、
 早い時期での手術を見込んで近くの総合病院(さいたま赤十字病院)を紹介頂いたのだった。

 多忙を見越して二月二十日に予約頂いた総合病院での再検査(その間も具合が悪く我慢の日々が続いたのだが)によって、
 「左鼠径ヘルニア」が確定して三月十一日から入院・手術という事になった。

 鼠径管(そけいかん)という組織が足の付け根左右にあって、もともと腹部下部からは外側へと続く筒状の穴があるのだそう
 だ。

 そこには管が通っているだけで、腹膜によって腹部の組織は隔てられているはずなのだが、その膜が弾力を失って重力や
 腹圧に耐えられなくなると、腹部の組織が突出するらしい。
 力仕事や力み、スポーツなど要因は様々であるのだ。ただし、膜が弾力を失うのは主に加齢によるらしい。

 またしても『加齢』の出現だ。どうも平穏を脅かす、日々の変化のキー・ワードになりつつある。

 今年は幕開けからあまり良い年ではないが、手術とはいえ完治するのだから、「よし」とするべきだろうか。

 手術は二時間で終わり、麻酔から醒める際の頭痛やめまいもなく、気分の悪くなる事もなかった。
 実に巧み、的確な手当てだったのだ、と思う。経過も概して良好だ。

 先週末に抜糸も終わって、今では以前並みには早く歩けないが、足を引きずる事も無く、見かけ上は普通に歩ける状態に
 まで回復している。

 埋め込んだメッシュが硬化を始めたらしく、少し違和感が出始めている。
 すこし硬くなって盛り上がってきた手術痕をみていたら、「加齢」の二文字がこだまの様に浮かんできた。
ページTopへ移動 今回の反省の先頭へ戻る
2009年2月28日(土)
雨水  再会
 カワセミ 霧敷川
 相変わらず、多忙な日が続いている。
 二月になってもずっと仕事が続いていて、最後の週末になってやっと土曜・日曜と休むことが出来た。

 以前(去年)「カワセミ」をみた(2008.03.31 「霧敷川の桜」)場所は今は工事が終わって、
 今では工事箇所が橋を挟んだ上流に移っている。

 美しかった霧敷川は盛んに川底が削られ、土手部分は写真のような剥き身の鉄板が埋め込まれている。
 霧敷川にいる「カワセミ」(2008.03.20 「冬茶を味わう」)の撮影に成功したとお伝えした部分は、以前の面影をすっかり無くし
 て無骨そのものの様相に変わってしまった。
 川自体は以前の木枠の数倍ある幅に掘削され、川面が広げられ、さらに倍ほども掘り下げられた状態だ。
 
 従来の菜の花の溢れる川岸だった部分が写真のコンクリート面だ。
 この岸の土手状の部分はコンクリートブロックで護岸されていて、道路面はさらに2m上にある。

 写真のコンクリート横は以前と余り変わっていないように見えるが、土はすっかり削られてしまったので、菜の花はもう咲く事
 は無いだろう。

 川面に向かって張り出していた桜の枝も工事のために切り落とされてしまった。川底を削るショベルカーのアームの上げ下ろ
 しに張り出した桜の枝が邪魔となるための措置らしい。

 だから、川岸を埋め尽くす菜の花も楽しめないし、川を覆ってずっと続く満開の桜のアーチも楽しめない。

 全体の工事はまだ終わっていないが、カワセミのいた橋(富士見橋)のあたりは一区切りのようだ。
 今年は、霧敷川の桜の写真は駄目だろうな、と散歩をしていて考えた。


 暫くぶりで、与野本町の「お団子」屋さんまでいった帰り道、なんとなく川を眺めて川岸を歩いていた。

 初めは錯覚だ、と思った。なおもよく観ると、懐かしい羽色に心が温かくなって来た。
 彼女は無事だったのだ。

 工事にもめげずに、縄張りを「八幡(はちまん)橋」側へ変えて、たくましく生き延びていたらしい。
 以前の場所からは数百m下流で、大分前に工事が完了して環境が安定した場所だ。

 工事が進むにつれて、その様相に想像が出来なかったことだ。
 美しく川面すれすれを真っ直ぐに飛翔するあの姿を、また楽しめるとは。 
 霧敷川                  
ページTopへ移動 今回の反省の先頭へ戻る
2009年1月25日(日)
大寒  遅れてきた『新年』
 一月三日になって、やっと仕事が片付いて「新年の休み」を楽しめた。

 大晦日まではフルタイムで、元日と二日にも仕事という状態から、少し開放された。
 年越しも御節も無い、帰省すら出来ないという実に情けない事で、今年の幕開けはうら寂しい正月になってしまった。

 さて、今日、明日は仕事を忘れて気分転換だ。気になっても仕事には手を出すまい。

 まずは、温泉気分を味わうために、風呂。「日本の名湯」のにごり湯バージョンがあったはずだ。
 白濁したお湯にゆったりと何回か浸かって、溜まった疲れとストレスを流しだすのだ。
 春一番の「与野七福神」を少し巡って、新年の無病息災を祈願する。

 そして観たかった再放送も楽しむのだ。忙しい一日になりそうだ。

 観ようとしているのは、再放送される「ウィーン・フィル・ハーモニーのニュー・イヤー・コンサート」で、ウィーンのコンサート・
 ホールからライブで元旦に同時放送されたプログラムの再放送だ。

 お風呂に入ってゆったりした気分になった。熱燗をつけてさらに温泉気分や正月気分を盛り上げる。
 「七福神巡り」のためのカメラとレンズの準備をしながら、放送されたプログラムを楽しんだ。

 さすがに、ハイビジョン録画だ。画面が鮮明でホールの様子が良く分かる。

 5.1CHでのサラウンド音声も実に素晴らしい。
 まるで、そこにいるようなホールのしわぶきやざわめきが響く。
 チューニング音が遠くから響いてくるが、サラウンドの音声なので演奏にも臨場感が溢れている。
 サブウーファーからティンパニーの響きが伝わる。画面の奥から、奏者がそこにいるかのように響くのだ。

 今年のコンサートは、映像的にも工夫が凝らされていた。
 秀麗なオーストリア・アルプスの風景やシュトラウスの生家などが曲中に映される。
 選曲中には新年に相応しく、明るく楽しいポルカや優雅なワルツが多く、心ときめく内容だ。
 なかでも幾つかのワルツでは、バレエでのコラボレーションが楽しめた。

 アンコールとして演奏される三曲は例年決まっていて、2曲目にシュトラウスの「美しく青きドナウ」、最後の曲に「ラデツキー
 行進曲」が演奏される。

 ラデツキー行進曲は、スマトラ沖の地震を悼んで中止された年もあるが、なんだかワクワクしてしまう客席での手拍子が
 つき物で、新春気分にぴったりの曲目だ。

 また、「美しく青きドナウ」では、演奏を一度中断して、指揮者やオーケストラからの新年の挨拶がある。
 その後、もう一度、改めて演奏を始めるのだ。
 「美しく青きドナウ」での妖精に扮した少年・少女ダンサーはオーディションで選ばれたのだろうか?
 楽しい演出だ。

 余りにも素晴らしい演奏なので、四日のBS−Hiでの再放送を録画する事にした。
 四日、プログラムを楽しんでいたら、後半近くで大きな地震が発生した。
 
 ニーギニア辺りで発生し、日本の太平洋沿岸へも津波の危険があるらしい。
 気象庁ではすでに30cmほどの津波が到来していたとの事で、今後の津波の到来は無いらしいがなおも注意が必要、との
 事だった。

 NHKでは、これを受けて、日本地図を画面半分にインポーズして津波の危険を呼びかけた。
 BS−Hiでも、この警告が画面に表示された。
 すぐに消えると思っていたら、アンコールのまえからずっと入っていた。プログラムが台無しだ。

 NHKはBS総合や地上波など複数の放送を行っているが、各チャンネルではそれぞれの特性がある。
 「BS−Hi」は、高画質や高音質を売り物にした専門チャンネルであり、その特性を生かしたプログラムが
 組まれていて、他のチャンネルとは性格が異なるものだ。

 ご存知のように「BS−Hi」などでは「データ放送」もされており、データ取得はユーザの任意で実施できる。
 こうした性格のチャンネルの音楽特別番組で、しかもデータ受信できる環境で、画面を長時間占有して警告を流す意味が
 わからない。

 ちなみに教育放送の地上波3Chでは、いち早く警告画面の挿入をやめて「将棋番組」に復帰している。
 <BS−Hi>は、別途受信契約を必要としていて、通常とは性格の異なる<専門チャンネル>だ。

 ・ 複数の総合・専門の各チャンネルを持っている状況での専門CHに対する運営理念は何か、
 ・ 専門チャンネルでの音楽プログラムなど娯楽番組への放送姿勢は、
 ・ BS−Hiで取得できる「データ放送」の意味付けと方針は、
 など、一体どう考えているのかと納得がいかず、腹も煮えたのでNHKへMailで問い合わせてみた。

 「NHKは災害対策基本法に基づく国の「指定公共機関」であって、「災害時に国民の生命・財産を守るため、情報を迅速・
 正確に伝える責務」を負っている。
 中略、「津波注意報においても、警報に準じて速報を行って」いる。
 中略、「衛星ハイビジョンについては、ニュース番組等の編成は」無いのだが、「 総合編成を行うチャンネルであり、必要な
 報道は行うこととして」いるということだ。

 丁重な返信があり、上記の回答が寄せられたが、直接の疑問には巧みにかわされていて答えが無い。
 NHKの多くの良心的な特集番組や時代劇などの娯楽番組は大好きだが、
 今回のやり方はしっくりしない。

 文末には、「24日、BS2で再放送されます」との記述があった。

 納得できなかった気分もすっかり収まって、
 遅れてきた「ニュー・イヤー・コンサート」のお陰で、改めて新春気分が楽しめたのだ。
ページTopへ移動 今回の反省の先頭へ戻る 
2009年1月2日(金)
小寒  新たな年に
 自己撮影     
 新しい年が始まった。

 という事は、また一つ年を取ったという事だ。信長が「人間五十年、下天のうちをくらべれば・・・」と謡って本能寺に討ち死に
 した年だ。自分がその年になる事が若い頃には想像できなかった。

 いざ、そういう年齢となってみると何も出来ていない事が歯がゆく思える。
 何でも出来ると信じていた頃や、まだ、何か出来るはず、と思っていた頃を過ぎた。

 青年の頃の大望は薄れて、自分は何も出来やしないのではないかという焦燥感だけが残る。
 今の心境では、何が出来るか、またはそもそも何事かが成し得るのか、といったもの。
 こうしたことが「衰える」という事なのだろうか。
 力なく衰えるのでなく、正しく無駄を削ぎ落としていって明るい「老人力」を身に着けたいものだと思う。

 <衰え>といえば、私もとうとう「遠近両用メガネ」を作った。内緒だが、いわゆる老眼鏡!だ。
 遠視専用では実に疲れるし、第一、実に爺っぽい。だから、中近両用という室内向けレンズを選択した。
 フレームにしても今時の細身のものでツルが太目のものを使いたかったが、似合わなかった。
 結局ノーブルなデザインの、少し小さめのレンズで軽いメタルフレームにした。冒険したかったなあ。

 
 一応は光学製品であるので、多少こだわりたかったのだが、新開発の高性能レンズではレンズだけで
 軽く5万を越えるということだ。そこまではとても出せない経済事情なのでごく普通の非球面レンズにした。

 家人お勧めのメガネ店で作ったが、レンズはHOYA製で、ひろく言えばPENTAXレンズ!、だ。

 メガネを作ろうという計画を子供に話し、近所のイオンで色々なフレームを試して感想を尋ねたりした。
 すると子供いわく、「本を読むときだけメガネを掛けるなんて、まるで90歳のジッちゃんじゃん」、だそうだ。
 人間50歳に近くなれば「隅々まで克明に見る必要は無く、必要なときだけ補えばいいのだ」という事を優しい言葉に置き換え
 て説明したが、果たしてわかったかどうか。

 出来上がってまず驚いたことがある。そこには余りに鮮明な世界が広がっていた。
 どれほどピンボケの世界で暮らしていたのか、と愕然とした。車中広告などが完全に読み取れる。
 街中でも、電柱に貼られた広告や店内での小さな値札など、細部まで輪郭くっきりで視野に飛び込んでくる。
 世の中は多くの情報で溢れていて、自分はいつの間にかその大きな渦から少しづつ外れてしまっていたらしい。
 初めてのメガネなので一番弱い度数にしたが、それでもこれ程の効果なのだ。驚愕だ。

 鮮明な世界が開けて、なんだかすごく<得>をした気分に浸っている。
 中近両用なので、テレビや離れた時計などにも、勿論、手元の小さな文字にもしっかりとピントが合う。

 さて、これでぼんやりと曇った視界が開けて、少しは世の中というものが見えてくるのだろうか。
自己撮影
ページTopへ移動 今回の反省の先頭へ戻る