2012年3月6日(火)
|
啓蟄 看護するということ(人との繋がり を考える)
|
小雪さん主演の映画、「わたし 出すわ」の話を、友人との繋がりという側面を中心に書いた。
あの映画では、実は主人公は大きなものを背負って生きていた。
マヤ(主人公)は東京で一人働いているようだが、故郷には意識の戻らない母がいて、その闘病を支えているのだった。
近代的な設備が整って完全看護が行き届いた特別室でのシーンが、物語の進行の合間に何度が映される。
友人たちとの語らいの合間で、彼女が時々訪れる入院中の母親との静かなシーンだ。
室内は明るい日差しに満ちているが、目を閉じた母親に表情はない。意識が戻らずに寝たきりの状態だとわかる。
先進医療と行き届いた看護を施し続けるためには、莫大な費用が必要だ。
そうした事もあって都会でひとり、株式や金相場などで奮闘しつつ大金を得るために稼いでいるのだろう。
ランナーの友人の母親との交わりは深くて、訪れた彼女を家族の一員のようにわだかまりなく迎えてくれるが、
酔って泊り込んだ翌朝、株式市況を聞くその人と交わす会話や、バーの世界に戻った友人への示唆などで、
彼女の株式相場への造詣の深さが表現される。謎の多い東京での生活、彼女が収入を得るすべが想像できる。
ストーリーの中で詳しくは説明されないのだが、株式トレーダーや相場などの市場取引で敏腕さを発揮して、財を築いた
といった様子なのだった。
しかし、友人や寝たきりの母親との会話を通じて彼女から感じられるのは、そうした姿とは違っているのでは、
ということだ。
クールに経済知識を操って生き抜く姿は、母を支えるための身過ぎであって、どうやら本来の彼女ではなさそうなのだ。
一昨年の秋、私の母はアルツハイマー病を発症し、去年の初夏から前橋郊外の赤堀(伊勢崎市内)という場所でホームへ
入所して静かに暮らしている。
なぜ、と思うような突飛な事が続き、すべてを捨ててどこかへ逃げ出してしまいたくなるような出来事が繰り返された。
信じられない蔑みや、思いもよらない疑惑など、到底耐えられない罵詈雑言が果ても無く投げつけられてきた。
薄れていく認知の中では、発症者の発言や行動に抗ってはいけないというが、しかし、家族であるがゆえに否定したり、
叫びたくなる事もある。
状態が安定しているときは普通に会話ができるが、すぐに混沌が訪れる。
私には、まだその切り替えがうまく対応できないが、同じ質問が数分おきに繰り返されたる。
時間軸のずれた話が繰り出されるし、最近では、混沌とした状態が頻発し、正常な状態とのサイクルが短くなっている。
僅かの間に病状が進行してきたようなのだ。
認知との戦いは、想像を絶するほどに、壮絶なものである。
家族であればこそ、とても24時間、その只中にいられるものではない。
だから結局、母親への処し方として、悩んだ挙句に施設への入所という方向を選んだのだった。
去年の暮れからのことだが、施設に顔を出す私を、母は自分の兄と思って話し始める事が続いている。
私が入っていくと「あれ、珍しい。アニキがきたよ」と隣の人に笑顔で自慢しているのだった。
しばらく母と二人で話すと、やがて記憶が繋がって来るらしく、今話しているのが息子とだという事が判ってくるようだ。
しかも、その会話の中では初めから私が来た事が判っていて、亡くなった兄(私の伯父)と思い違いした事をもうすっかりと
忘れているようなのだ。
人は、誰でも、何らかの社会に属しているから、生きていける。
あるいはどんな社会の中にあっても、そこで他人から認められるから、しっかりと踏みとどまって活きていける。
しかし、そうしたものが崩れ去ってしまうのが、認知の世界だ。そして、最後には、もう、「思い出」さえもそこには残らない。
認知と意識の途絶は全く別ものだが、同じような絶望がそこにある。
介護というものは、実際にやったものでないとその苦労や絶望感は判らない。
反応がないという状況を消化して乗り越えるのは、かなり辛いもので、大変な労力がいる。
映画の小雪さんは、健康的な温かい日差しの中で「しりとり」をしながら意識のない母親へ語りかけを続ける。
母親の無反応な姿を見るだけで心が折れてしまうだろうが、小雪さんが演じるマヤは、ひっそりとしかし明るく、
いつも同じ「しりとり」を続けるのだった。
繰り返される「しりとり」の並ぶ言葉が同じもの、というところが彼女の絶望的な姿を浮き彫りにする。
映画の中では、車いすに乗った母親と明るい笑顔でそれを押す姿がラストシーンで流れる。
「マヤ、ありがとう」という言葉が、深みを増して心に残る。
「ありがとう」という表現はこの上なく短い言葉だけれど、なんと温かな、優しさと万感の思いのこもった言葉なのだろう。
映画で、彼女のとった無償の行為に対して直接の謝意を表すのは母親からの言葉だったが、
5人の友人達が胸に抱いたのも同じ思いだったと思う。
そして、物語の最後に訪れる輝かしい奇跡。彼女のこれまでのおこないがそれを呼び寄せたという事か。
投げ続けたボールが返ってくる。やがてそれは短いが確実なキャッチボールとなっていく。
投げ返されたのは主人公がひとり続けていた「しりとり」と同じ答えの単語だった。
しりとりでの単語も聞こえていたのだし、そして、なにより母親を大切に思って、果てしなく無為に思えるような情況の中で
話(語り掛け)を続けたマヤ(主人公)の気持ちも、昏睡状態の中にあったベットの上の母親には、すべて通じていた。
大切なのは、信じることなのだろう。映画とわが身を引き比べて、改めてそう思った。
可能性の訪れ、それを信じ続ける事。
そうする事がなにより大変なのだけれど、ひとはなかなかそうできない。
だからこそ、画面を通して再生を信じたからこそ、心からの笑顔を見せる主人公の喜びに共鳴できる。
私達は素直な気持ちで画面から溢れる温かみに触れることができるのだ。
昔受けとめた仲間の気持ち、そしてそれ(出逢いの会話)を大切なものとして胸に抱き続けた事も、幸せな姿の友人と繋がりを
持っていられるという事も、そこに流れているのはみな同じ物に違いない。人が人に対して擁ける、温かい想いなのだろう。
出逢いや成長を与えてくれた人に対しての「ありがとう」という心からの言葉が沁みてくる。
大切な想いを込めている大きな言葉でもって、多くを語らずそれを短く表している。
|
|