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本日の反省 または 雑記


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雑記としたのは、メッセージ性の無い内容となる可能性があるためだ。
いや、むしろ備忘録というところか・・・。 私的な内容で恐縮する。
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2012年3月6日(火)
啓蟄 看護するということ(人との繋がり を考える)

 小雪さん主演の映画、「わたし 出すわ」の話を、友人との繋がりという側面を中心に書いた。

 あの映画では、実は主人公は大きなものを背負って生きていた。
 マヤ(主人公)は東京で一人働いているようだが、故郷には意識の戻らない母がいて、その闘病を支えているのだった。

 近代的な設備が整って完全看護が行き届いた特別室でのシーンが、物語の進行の合間に何度が映される。
 友人たちとの語らいの合間で、彼女が時々訪れる入院中の母親との静かなシーンだ。


 室内は明るい日差しに満ちているが、目を閉じた母親に表情はない。意識が戻らずに寝たきりの状態だとわかる。
 先進医療と行き届いた看護を施し続けるためには、莫大な費用が必要だ。
 そうした事もあって都会でひとり、株式や金相場などで奮闘しつつ大金を得るために稼いでいるのだろう。

 ランナーの友人の母親との交わりは深くて、訪れた彼女を家族の一員のようにわだかまりなく迎えてくれるが、
 酔って泊り込んだ翌朝、株式市況を聞くその人と交わす会話や、バーの世界に戻った友人への示唆などで、
 彼女の株式相場への造詣の深さが表現される。謎の多い東京での生活、彼女が収入を得るすべが想像できる。

 ストーリーの中で詳しくは説明されないのだが、株式トレーダーや相場などの市場取引で敏腕さを発揮して、財を築いた
 といった様子なのだった。
 しかし、友人や寝たきりの母親との会話を通じて彼女から感じられるのは、そうした姿とは違っているのでは、
 ということだ。
 クールに経済知識を操って生き抜く姿は、母を支えるための身過ぎであって、どうやら本来の彼女ではなさそうなのだ。


 一昨年の秋、私の母はアルツハイマー病を発症し、去年の初夏から前橋郊外の赤堀(伊勢崎市内)という場所でホームへ
 入所して静かに暮らしている。

 なぜ、と思うような突飛な事が続き、すべてを捨ててどこかへ逃げ出してしまいたくなるような出来事が繰り返された。
 信じられない蔑みや、思いもよらない疑惑など、到底耐えられない罵詈雑言が果ても無く投げつけられてきた。
 薄れていく認知の中では、発症者の発言や行動に抗ってはいけないというが、しかし、家族であるがゆえに否定したり、
 叫びたくなる事もある。

 状態が安定しているときは普通に会話ができるが、すぐに混沌が訪れる。
 私には、まだその切り替えがうまく対応できないが、同じ質問が数分おきに繰り返されたる。
 時間軸のずれた話が繰り出されるし、最近では、混沌とした状態が頻発し、正常な状態とのサイクルが短くなっている。
 僅かの間に病状が進行してきたようなのだ。
 認知との戦いは、想像を絶するほどに、壮絶なものである。
 家族であればこそ、とても24時間、その只中にいられるものではない。
 だから結局、母親への処し方として、悩んだ挙句に施設への入所という方向を選んだのだった。


 去年の暮れからのことだが、施設に顔を出す私を、母は自分の兄と思って話し始める事が続いている。
 私が入っていくと「あれ、珍しい。アニキがきたよ」と隣の人に笑顔で自慢しているのだった。
 しばらく母と二人で話すと、やがて記憶が繋がって来るらしく、今話しているのが息子とだという事が判ってくるようだ。
 しかも、その会話の中では初めから私が来た事が判っていて、亡くなった兄(私の伯父)と思い違いした事をもうすっかりと
 忘れているようなのだ。

 人は、誰でも、何らかの社会に属しているから、生きていける。
 あるいはどんな社会の中にあっても、そこで他人から認められるから、しっかりと踏みとどまって活きていける。
 しかし、そうしたものが崩れ去ってしまうのが、認知の世界だ。そして、最後には、もう、「思い出」さえもそこには残らない。

 認知と意識の途絶は全く別ものだが、同じような絶望がそこにある。


 介護というものは、実際にやったものでないとその苦労や絶望感は判らない。
 反応がないという状況を消化して乗り越えるのは、かなり辛いもので、大変な労力がいる。


 映画の小雪さんは、健康的な温かい日差しの中で「しりとり」をしながら意識のない母親へ語りかけを続ける。
 母親の無反応な姿を見るだけで心が折れてしまうだろうが、小雪さんが演じるマヤは、ひっそりとしかし明るく、
 いつも同じ「しりとり」を続けるのだった。
 繰り返される「しりとり」の並ぶ言葉が同じもの、というところが彼女の絶望的な姿を浮き彫りにする。


 映画の中では、車いすに乗った母親と明るい笑顔でそれを押す姿がラストシーンで流れる。
 「マヤ、ありがとう」という言葉が、深みを増して心に残る。

 「ありがとう」という表現はこの上なく短い言葉だけれど、なんと温かな、優しさと万感の思いのこもった言葉なのだろう。

 映画で、彼女のとった無償の行為に対して直接の謝意を表すのは母親からの言葉だったが、
 5人の友人達が胸に抱いたのも同じ思いだったと思う。

 そして、物語の最後に訪れる輝かしい奇跡。彼女のこれまでのおこないがそれを呼び寄せたという事か。

 投げ続けたボールが返ってくる。やがてそれは短いが確実なキャッチボールとなっていく。
 投げ返されたのは主人公がひとり続けていた「しりとり」と同じ答えの単語だった。
 しりとりでの単語も聞こえていたのだし、そして、なにより母親を大切に思って、果てしなく無為に思えるような情況の中で
 話(語り掛け)を続けたマヤ(主人公)の気持ちも、昏睡状態の中にあったベットの上の母親には、すべて通じていた。

 大切なのは、信じることなのだろう。映画とわが身を引き比べて、改めてそう思った。
 可能性の訪れ、それを信じ続ける事。
 そうする事がなにより大変なのだけれど、ひとはなかなかそうできない。
 だからこそ、画面を通して再生を信じたからこそ、心からの笑顔を見せる主人公の喜びに共鳴できる。
 私達は素直な気持ちで画面から溢れる温かみに触れることができるのだ。

 昔受けとめた仲間の気持ち、そしてそれ(出逢いの会話)を大切なものとして胸に抱き続けた事も、幸せな姿の友人と繋がりを
 持っていられるという事も、そこに流れているのはみな同じ物に違いない。人が人に対して擁ける、温かい想いなのだろう。

 出逢いや成長を与えてくれた人に対しての「ありがとう」という心からの言葉が沁みてくる。
 大切な想いを込めている大きな言葉でもって、多くを語らずそれを短く表している。
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2012年2月19日(日)
雨水 思い出 の対価

 昨日、映画を見た。

 最近の日本映画界は活況で、特に時代劇などに秀作が多い。
 絵画でいったら小品のシリーズといったような短編も多くて、こうした中に面白いものがある。

 商業ベースでの大量な宣伝が行われないため、場合によっては気がつかずに見逃してしまうが、
 ふとしたきっかけでこうした秀作に出合うと、何となく満ち足りた豊かな気分に浸れる。


 年明け早々に見た「最後の忠臣蔵」などは、細やかな情感が溢れていて実よかった。
 池宮彰一郎さんは好きな時代小説作家で、原作はだいぶ前に、他の数冊と一緒にじっくりと読んでいた。
 映画の原作は「四十七人目の浪士」の名が冠された一冊の中にあって、そのなかでは気に入った短編だった。

 生き残って浪士の身内を回って、生活や精神面で助け続ける寺坂吉右衛門と、そうした旅の中でふと巡り合った
 大石家の郎党の瀬尾孫左衛門。彼は討ち入りの前夜、同志達の前から忽然と姿を消す。

 映画では、残存者の表の顔として苦悩する寺坂を演じた佐藤浩市が、ひたむきな生き方を見事に演じていた。
 武士の誇りを捨ててまで生き残り、ひっそりと大石の遺児を支える瀬尾孫左衛門。こちらはあくまでも裏の顔だ。
 蔑まれ、自らの生き方が屈辱にまみれても、あくまでも遺命に従う、その苦悩と喜びを表現していた役所広司。
 同じ池宮さんの原作「十三人の刺客」の目付、島田新左衛門役も怒りが噴出していて凄かったが、
 じっくりとより内面からにじみ出る演技で、観る人を魅了する。さずがに日本を代表する名優だ。

 もともと、時代劇(活劇ではなく)が好きなのだが、藤沢周平原作の「花のあと」や「山桜」など、
 短編の秀作が美しく映像化され、最近はちょっと目が離せない状態になっている。
 先日製作された「小川の辺」という最新作もぜひ観たいところだ。

 さて、こうした時代劇に押されてか、現代劇は少し低調気味ではなかろうか。
 いや、私の嗜好が時代劇向きなだけなのだろうが・・。


 そうした中で、昨日、観た森田芳光監督作品の映画は実に印象的な内容だった。

 私はこの映画の原作を知らないが、たぶん、この映画は私の中では終世忘れられない一遍となるだろう。
 話しとしては寓話であり、メルヘンなのだが、今の私の心の奥底に響いたというか、何というか。

 実に奥深くにしまい込まれてしまって、熾き火のように密やかに息づいたのだった。


 マヤ役を演じるのは小雪さんで、主人公は、ちょっと不思議な雰囲気を漂わせていて、なんだか俗世離れした存在。

 小雪さんの一本調子なところが、かえって彼女の存在感を実感付けていたし、胸に秘めた深い想いをよく表現していた。
 それに共演する小池栄子さんも、彼女の自然さと胆の太さがうまく役とあって、実にいい演技だった。
 共演と言えば、小澤征悦さんもいい味を出していた。

 実は最近、小澤さんの演技には注目している。注意深く、ドラマや映画、時代劇をチェックする役者の一人なのだった。
 先日の「鬼平外伝 熊五郎の顔」の信太郎役、お延役の時代劇慣れした寺島しのぶさんに引けを取らない堂々とした役者
 振りであって、実に見ごたえのあるドラマに仕上がっていたのだった。

 さて、この映画、『わたし 出すわ』
 都会で働く主人公のマヤが故郷の地方都市に帰ってきて、高校の同級生を訪ねるところから物語は始まる。

 個性的な友人が5名登場し、懐かしい思い出話とともに、今の生活の中での<夢>を語らうのだった。

 5人の友人は、同級生だった事以外、それぞれ全く接点のない生活を送っている。
 路面電車の運転士、実業団に籍を置くマラソンランナー、水産研究所の職員など男性陣は実直に今を生きている。
 セレブに収まってフランス料理店を経営するマダム、消費者金融に勤める夫を持つ主婦、と一方で女性陣は仕事は
 持ってはいずに、それぞれ幸福な家庭に収まっている。


 一人づつ訪ね歩いて、昔話などを語らうなかで、彼女はさりげなくそれぞれの夢を聞き出すのだが、
 その夢を実現するために必要なお金を無償で提供し始めるのだった。


 友人の夢を一つずつ実現させながら、オムニバスのようなストーリー展開で映画は続く。

 高校生という多感な時期、それぞれが発した一言がテロップになって、一瞬場面が過去に移る。それがこの映画の
 主題だ。

 たぶん内向的であったと思われる当時のマヤは、自分から率先して友人を作るようなタイプでは無かったのだろう。
 でも共にいる彼らや彼女達は、マヤの本質を身近に感じて、自分との繋がり(付き合い)の始まりになる声を掛けた。
 マヤにとっては、そうした言葉は宝石だったに違いない。

 彼らと今では接点がないが、その最初の一言が当時の彼女を救ったのだし、たぶんその後の彼女の生き方も
 変えたのだ。
 言葉は彼女を強く励まし、都会で奮闘して折れそうになる彼女を、おリに触れて温かく支え続けたのではないだろうか。

 そうした言葉の重みや、人との繋がりの重さが画面から染みてくる。
 映画の中では夢を語ったその瞬間、今の時間の流れが止まる。
 机の並ぶ教室の中であったり、ひとのいた雰囲気の残る放課後の廊下であったり、校庭の隅だったり、
 理科の実験室だったり、と場面は当時高校生だった頃の大切な生活の場へと変って行く。
 切り替わった場面の中、そこには温かな時間が流れている。

 しかし、なんとも言えない懐かしい場面には、人の姿は無くて、情景だけが映される。
 そこで映るのはマヤの内面を表した孤独な視線なのだろう。そして、そこで、大切にしまっていた一言が小さく響く。


 小澤征悦だけが、自分の掛けた最初の一言を覚えていて、展開の中で何気なくその話をする。
 だから、それを観る私たちには彼のマヤへの特別な思いが伝わってくる。

 言葉を忘れずにいたのは彼女だけではなかったし、繋がりを大切にという思いは今もみな誰一人変わっていなかった。


 大切なのは人との繋がり、だと、つくづく感じる歳になった。

 自分の事を信じてくれた友人、自分を大切に思ってくれた友人、温かなまなざしを向けてくれた友。
 そうした事が、とうに過ぎ去ってしまった事だという過去形ではなく、今もそのまま続いていたとしたら。
 そうだとしたら、なんと素敵な事だろう。

 映画の主人公のように気前よく資金を出す事など当然誰もができる事ではなく、これはただの寓話に過ぎない。

 最近はタイガーマスクの伊達直人が出現し、少しはまともな社会を取り戻しつつあるようだが、
 自分に引き寄せて考えると、とてもではないが、小池栄子が演じていた役の主婦のように自然体では振る舞えまい。

 映画を見たあとで残った、温かさや爽やかさ、そして憧れの思いは何だったのだろう。
 人にとっての幸福というものは、本当は何なのだろう。そして自分はそうした幸福や満足感を味わえているのか、
 と少し考えさせられてしまった。


 資金援助はできるはずも無いが、<集いの場>ならば私にも提供できる。
 小さな集いを呼びかけて、語らいを重ねていけば、私の小さな力でだって何かを支えることができるかもしれない。
 そんなことを考えて思いが広がった、後味のいい映画だった。
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2012年2月4日(土)
立春 春を迎えて

 一月はあっという間に過ぎて、早くも2月が始まった。もう暫くすれば早春の草花が咲き始める。

 去年は、落ち着きが無い年で、満足に写真さえ撮らないで過ごしてしまった。
 だから今年は、ゆとりを取り戻して、少しは落ち着いて写真を撮りたいと考えている。

 手始めに梅の花から始めてみようか。


 立春とはいえ、寒さは厳しく、先日も都心では珍しい雪が降ったばかりだ。

 スキーをやめてしまったので雪山の状況が判らないが、今年は雪が多いのでコンディションはいいだろう。

 レジャーを主体で考えれば、積もる雪を見てそうした暢気さが溢れるが、しかし、雪国での生活は切実だ。
 連日の大雪の報道で映し出される新潟や北陸の様子は、目を見張るばかりに凄まじい。

 雪との戦いは春先まで連綿と続く。
 休む間もないだろうが、しかし相手は解けてしまえばただの水である。
 何という労力の消費・・・。

 屋根に積もる雪と格闘する姿には、頭が下がる。
 私などは堪え性がないので、とても一冬さえも耐えられそうにない。


 雪を割って福寿草が咲いている印象的な写真がある。
 立春の頃を撮った「いかり まさし」さんのものだ。

 青みがかった雪の輝きを背景に、その雪がえくぼのように僅かに窪んで、そこから黄金に輝く花が顔を出す。
 何かの予感のように、新鮮に咲く花の様子を捕らえた素晴しい写真。

 もう大分昔に見たものだけれど、その様が忘れられない。

 あのように、季節感に留まらず、それと共に希望や新たな想いといったものまでも捕らえたい、と
 随分その写真に惹かれ、そうしたものを写し取れる感受性に憧れたものだ。


 去年、多くの人が味わった苦しさや切なさが、絆というひとつの言葉に昇華され、力強い共生を築いた。

 だから、今年。
 私達はそれぞれが何かを乗り越えて、新しい春の訪れを待っている。


 自分にも何かが出来るのではないか、という焦燥の想いは次第に薄れてしまっているが、
 もう一度、春の訪れに向けて考えてみよう。

 「立春」と言う新しい年の始まりを告げる区切りに際して、そんな風な事を思っている。

 私が関わりを持つ中で、私にしか出来ない事があるに違いない。

 いや、それは言うまでも無く誰かが出来ることであったり、誰もができる事だあったりするのだろうけど、
 やはりそれは、他の誰かではなく私がやるべきこと、なのだと思う。

 私程度で出来る事など、たかが知れてはいるけれど、
 たとえどんなに小さな流れであっても、そこからしっかりと広げていけばいい。

 始まりは小さな流れであっても、周りの人が共鳴し、賛同し始めれば、それが大きな力に変わるはずだ。
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2012年 1月 6日(金)
小寒 年頭に思いたってのこと

 去年の秋の事だが、友人を誘って、「自転車会」を発足させた。

 構成メンバーは、故郷、前橋で暮らす友人達で、彼らとは中学生の頃からの古い付き合いになる。

 一昨年の秋のことだが、およそ10年振りの再会から始まって、隔たっていた年月を埋めるようにほぼ月例で会っている。
 そうして会うようになった仲間とは、幸いにも違和感無く直ぐに昔ながらに打ち解ける事ができた。
 中には20年、30年振りで再会した者もいて、私の中での邂逅の喜びはひとしおだったといえよう。

 私の場合は母の事情があるので、前橋へは毎月必ず少なくとも一度は帰省するのだが、その折に彼らの懐かしい顔とも
 会う事が出来るというわけだ。
 無人の実家で迎える夜は思いのほか寂しいもので、それに、そんな時はだいぶ気持ちも折れてしまっている。
 人恋しさに一人では過ごし難いということもあって、彼らの元を訪ねたり、居酒屋などに召集したりしてしまうという訳だ。


 「久しぶり」という状態から打ち解けて様々を語り合ってみると、だれも皆、人生の後半戦を必死に過ごしていて、
 家族を力強く支えていた。

 笑顔には昔日の面影を残してはいるが、どの顔も立派な父親のものである。
 その姿に共鳴もし、我が身への励ましといったものも感じた。
 それにこれからの月日を共に歩めると言う事に、何よりの安らぎを見出す思いだった。

 そうした集まりでの語らいで「衰えつつある体力を支えるために」という話題が出て、それで少し盛り上がった。
 最終的には、皆で自転車に乗ろうという事になったのだが、改めて聴いてみたら、何のことは無い、幾人かが自転車を
 続けていたのだった。

 最近になって自転車を買った者やこれから始めたいという者なども引き込んで、親父達の自転車会が始まった。
 そして昨年の秋の発足からは、2回ほどの整備の講習会とポタリング(自転車散歩)会を実施してきている。

 前橋の東南部を横断して「桃の木川」という美しい川が流れている。
 それに沿って市が昔から整備を続けるサイクリングロードが、私達の活動舞台の中心だ。
 さらには広瀬川や利根川に続いているサイクリングロードなどを、実に爽快に和やかに走ったのだった。


 ご存じない方もいるだろうから、改めて、前橋の地形を紹介しておこうか。
 街はもともと古くからの城下町であるが、城跡の脇(だから市の中心)を南北に利根川が流れている。
 関東平野の突端部に位置しており、緩やかな傾斜(最南部との標高差数m)を持った平坦部が市域の多くを占める。
 その平坦部の先は榛名山と赤城山という中級の山塊が塞いでいて、それらの山裾が市の北西部で交わる。
 北西から始まった扇状地のような傾斜が、なだらかに広がって、やがて東京湾へと至る平野部へとゆるやかに
 続いていく。

 このため、大部分を占める平坦な場所を舞台にしていれば、埼玉や都内近郊を走るのと、大差は無い。
 ただし、一旦北へ向かえば、穏やかな表情は一変して険しいものになる。
 だから、心して取り組む必要がでてくる

 市の中心や東・南・西の近郊は完全な平野なのだけれど、北には間近に赤城の裾野が迫り、市の北部域は
 山坂が溢れる。
 <丘>と呼ぶのは憚られるほどの傾斜路が連綿と続き、暫くすればそれが峠道になり、やがて山岳路の様相を
 呈するのだ。

 実は、去年から「赤城ヒルクライム」という自転車のロード大会が、そうした市の北部を舞台に始まった。
 開催当初から応募が盛んで、想定数をすぐに超えて抽選にての参加となった。
 首都圏からのアクセスが容易といった地の利もあって、開催初年にも拘らず、大分人気が高いようだ。
 秀麗な裾野をひいて広がる赤城の南山麓を舞台に据えた本格的な山岳登攀レースとして、やがて全国規模での
 ヒルクライム・レースとして育ち始めていくだろう。


 「若宮交差点」を過ぎた辺りから、北に向かい「赤城県道」と呼ばれる道が山頂まで続く。
 その道路がレースの舞台だ。
 県道は前橋駅前から山頂の湖まで続く、定期バス路線だったが、されが廃止されて数年が経つ。
 今では公共の交通手段が無くなってしまい、車がないと手軽には赤城山へ行けなくなってしまって残念だが、
 廃止に至ったのは、赤城有料道路が償還され、自家用車での往来が容易となったために違いない。

 もともと前橋は自家用車の保有率が高い。
 皆がバスを嫌ったため、利用者が減少したのが路線バスの廃止理由なのではないだろうか。
 今となっては、有料道路の無料化が良かったのかどうか。そこには、地方都市が抱える難しい問題がある。


 さて、去年。
 前橋から赤堀への道路が赤城の広い裾野を巻いて繋がっているのだが、何度かそこを自転車で走った。
 実家から母のいる介護施設へ行くためで、震災でのガソリン不足や家の都合で車が使えなかったからだった。

 私が走った大室の辺り(前橋・今井線)よりさらに北に一本、裾野を巻いて続く道路がある。
 地元では「赤城南面」と呼んでいる道路だ。
 完全な峠道で、古くは峠族がドライブテクニックを競った場所である。そうした背景があって
 連続するカーブや尾根筋を跨いでアップダウンを繰り返して疾走する車を主役とした映画の舞台にもなった。
 それに引き比べると我が「今井線」は、数段緩やかな坂道だ。

 川越から毛呂山(日高、越生)などに続く丘陵に似て、私にとってはまことに適当な負荷であって、
 走ることに充足感を味わえる、心地よい道なのだ。


 一方、レースの舞台の赤城県道は裾野から山頂へ向かうための直登路だ。
 料金所跡を過ぎれば、目もくらむような峠道が始まる。

 小学生の頃、仲間達6名で自転車を漕いで山に向かった。
 全員で汗まみれて必死にペダルを漕いだが、「一の鳥居」の辺りまでで力尽きた。
 中学生になって、再度同じ道を数人で試みたが、料金所までが当時の脚力での限界点だった。


 「今井線」程度のアップダウンで気を良くしたが、赤城県道を真っ直ぐに登るには、それとは比較にならない
 周到な準備が要るはずだ。
 それでも、そこに参加してみたいという気持ちが、今では抑えがたく沸いている。

 「赤城ヒルクライム」はクラス別タイムレースで、やがて全国規模となって容易には参加できない状況が来る
 だろうが、今のところ、競技者としては初級クラスを対象とした「一般の部」がある。
 大会へのエントリーは公募によるので、参加の前提は応募が狭い抽選を通っての事だが、まずはは完走を目標に
 して参加したい、と思っている。


 さて、今年。
 矢のように過ぎてしまう年になる事は、例年を振り返ってみれば充分に想定されることで、
 多分にうかと過ごしてしまうに違いない。

 そこで思い立ったのが、晩秋の峠道を全力を尽くして登る、という目標を掲げてこの一年を過ごしてはどうか、
 という事だった。
 そうすることで、いつもより少しはましな年が送れるかも知れない、という期待も芽生えるではないか。


 仕事、においては目標を掲げ、過ごし方に修正を加えつつ、それに向かって日々を重ねる。
 様々な責務や約束ごと、そして夢をも含んでいるから、そこで費やすものに出し惜しみは無い、と言えよう。

 対比などはどだい出来ないだろうが、では、趣味ではどうだろうか。
 そこ(趣味の世界で)での目標、言い換えれば、こうありたいと願う姿勢、を掲げても良いのではないか。

 いい年を迎えた親父が額に汗して何事かに励む、実に喜ばしい姿ではないか・・・。
 今年の初頭、「のんびり、行こうよ」の基本姿勢には反してしまうが、こうした想いが私の心を満たしている。

 まずは私だけでの「取り組み」なのだが、出来れば仲間と共に斜面を駆け登りたい、という密やかな想いが
 熱く膨らんできている。
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2011年12月22日(木)
冬至 新たな想い

 もうじきに新しい年が訪れるが、結局、年の瀬まで「反省」無く過ごしてしまった
 と書いたのは、2010年のことだった。

 その年も、新年から実に仕事が忙しかったのだ。

 それは、ふとしたきっかけで20年勤めた会社を替わったためだ。
 その関係で、引越し(同じ町内だが)もしたのだった。そうした事などが重なってさらに2011年は多忙を極めた。


 人生節目の50年を僅かに超えて、後半戦も道半ばに入った訳だが、こころ新たに臨んだはずの節目の年に、
 さまざまな出来事があった。

 一人で過ごしていた母の入院とそれに伴う介護が始まった。
 そして訪れたのは、仕事の合間を縫って前橋へ頻繁に往復する日々だった。

 その一方で、同居ということも見据えて家を買い、転居して新たな生活を始めた。
 しかし、母は残念ながら施設に入る事になってしまった・・・。

 そうして新たな気持ちで迎えた年さえも、気がつけば例年同様に「夢幻のごとく」に過ごしてしまった。
 ・・なんと、過ぎゆく時の早い事か。

 様々に油断したわが身が悪いのだといえようが、それにしても、あっと思う間に過ぎ去っていく。

 ほんの僅かな隙をみすまして、「時間」は私から離れて、深く物事を考える間もなく遥かに過ぎ去ってしまう。
 打ちのめされる余裕もなく、追いつめられ、行き詰って、そこにあるのは完全に落ち着きをなくしてしまった生活だ。

 そこから抜け出られたのは彼ら友人たちの励ましのお陰に違いない。
 何人かの友人が折れそうな心を支えてくれた。
 その力があったからなんとか過ごせたのだ、としみじみと感じている。
 そして、公私に渡って励まし支えてくださった複数の上司の存在、それも大きいに違い無い。


 今にして思えば、よく超えられたものと思う。
 それにしても「光陰矢のごとし」とは、本当によく言ったものと思う。


 さて、今年もとうとう二十四節句の最後、「冬至」の侯となった。

 去年、前橋の実家に父親の思い出に深く繋がった大切な本柚子の木がある事をここで書いた。
 だが、今年、その樹はとうとう結実しなかった。

 主なく、満足な世話もせずに置いたためだろうか・・・。

 折角、亡き父が丹精込めて育てあげたものだというのに、青く茂るのは葉ばかりで、
 いつもなら負けぬ青さで実るはずの柚子の実が、今年は遂にひとつも成らなかったのだ。


 例年通りであれば、この時期は山吹色に変わった愛らしい実が放つ豊かな香りを存分に楽しむところなのだが、
 湯船に浮かべて父の笑顔を偲ぶことも出来ないのだ。そうしたことを実に残念に思う。


 さて、矢のように過ぎてしまった2011年。

 来年(2012年)こそは、豊かな年にしたいと願っているが、
 どのように年を過ごしていくのか、は自分次第のことであろう。


 取り組みの姿勢を決めるのは何人でもない、言うまでもなく私自身なのだから。

 是非とも、自分に恥じない、納得のいくような時間を過ごしたいものだと思う。

 ただ、ほんの少しの我儘を言えば、
 朗らかに爽やかに、出来売ればほんの少しの余裕を持ってゆったりと過ごせたら、と願ってやまない。
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